2章

 夜の番から帰って、アイヴィンは真っ先にフルダが作業する事務室へ向かった。事務室は一階部分にあり、ほとんどが小火で燃えてしまっていたが、なんとかすぐに復旧できたらしい。その中で、フルダが一生懸命ペンを動かして書類を作成していた。
 衝立を軽くノックし、アイヴィンはフルダに声をかけた。
「フルダ、もう夜が明けるぞ」
「あ……、ごめんなさい、今までできていなかった仕事が溜まってて、まだご飯が……」
 窓の外を見ると、うっすらと空が白くなっていた。フルダは慌てて羽ペンをインク瓶の中に入れてろうそくを消して作業を終えようとしたが、アイヴィンはフルダの手を止めた。
「それはいいんだよ、いくらでも待てるし、飯の準備くらい手伝うから。そんなことより、クラウスがさ……ちょっと聞いて欲しい」
「クラウス?」
 アイヴィンの後ろでマーオを抱いて不安げな顔をしているクラウスをフルダは見た。一緒に買い出しに行った時から、表情が暗かったが、夜の間に何かあったのだろうか。
 アイヴィンからフルダは夜にあったことを聞き、ろうそくの明かりに照らされて光る眼鏡を指で押し上げた。
「おとぎ話にあるような歌ね。夜の国。だけど、私の記憶の中にそのような歌はないわ。分かることは、クラウスの故郷にもティルと同じく夜の国のお話が語られてたってことだけね」
「そうか、残念だ。フルダなら何か知ってると思ったんだが」
 アイヴィンはクラウスの肩をとんっと優しくたたいた。
「ありがとう、アイヴィン。それにフルダも。ぼくは大丈夫。故郷のことぜんぶ忘れちゃったわけじゃないし」
 きゅっと抱きしめられ、マーオはクラウスの顔を見上げた。その表情はどこか寂しそうだった。
「故郷にはもう帰らないって決めてティルに来たわけだし。思い出したって何か変わるわけじゃないから。ね、朝ごはんにしようよ。ぼく、着替えてくる」
 先に階段をあがって二階へと行くクラウスの背中を、フルダとアイヴィンは黙って見送った。
 クラウスの持つ明かりが二階へと消えて行ったあと、フルダは自分もろうそくを持ち、アイヴィンに「あのね」と話しかけた。
「ん、なんだい?」
「私、ずっと思うだけで言わなかったんだけど……、クラウスって、“土地も枯れて何もないところ”から来たわりには、そこまで痩せ細ってないし、背も私より高いのよね」
「ああ、まあ、確かに」
 フルダが言いたいことは、アイヴィンにもすぐに分かった。
 クラウスが言うように、食べるものもさほどない土地から来たのであれば、もうちょっと痩せているはず。クラウスの今の様子だと、それが見た目からでは伝わってこなかったのだ。
「私、ティルから出たことがないから、そう思うだけかしら。外に住んでいる人って、もっと細くて、ひょろっとしてると思ってたの」
 ティルに外から来る浮浪者といえば、そういう人ばかりだった。夜に来ることも多く、道をふらふらとしているものだから、アイヴィンもそういう者たちに出会うことが多い。もともとクラウスが今使っている部屋は、宿を持たない者に貸していたもので、フルダが一晩お世話をしてあげることもあった。だいたいは痩せていて、身なりもあまり整っていなかった。だから、クラウスはフルダから見れば「それなりに食べていた人」であって、クラウスが言う”何もない土地”に違和感を覚えていた。
「クラウスって本当に……」
「何も持ってない、だろう」
「そう。何もないの。そこが不思議」
「まあ、そういう人も、外の世界にはいるんだろう。心配?」
「いいえ。興味があるだけ。彼はどこから来たのかしらって、どんな生活をしてたのかしらって、興味を持っただけよ」
 そう言って、フルダはろうそくの火を消して、朝日の差しこむ二階のリビングへと向かっていった。
(珍しいな、フルダが人に対して興味深いなんて言うの)
 昔から、フルダは不思議な出来事や、謎解きが好きではあったが、個人に対してはあまり興味がなさそうにしていた。
 これは人間不信とも言えるのだろうか。とにかく、ローレンやアイヴィン、そして夜警団に属する人以外にはフルダは今まであまり心を開いてこなかった。
 特に外から来た人間に対してはあまりいい印象も持っていなかったはずだ。外から来たクラウスに対して“興味深い”なんて言うのが、アイヴィンには少し驚きだった。
(興味深いとは言ってたけど、それって、つまり心配してるんだろう)
 クラウスとフルダの間に何があったのかは知らないが、同じホームの人間としてクラウスのことを見ているのだろうと思うと、アイヴィンは少しだけ安心した。
 二階に上がれば、フルダとクラウスがキッチンで夜警たちの朝食の準備をしている。
 それを眺めているローレンに気付き、アイヴィンは声をかけた。
「二人はずっとあんな感じなんですか?」
「え? ああ、フルダとクラウスかい? ああ、いいだろう。フルダにいい話し相手ができた。ちょっとだけ明るくなったよ、彼女」
 ローレンの言葉に、アイヴィンは頷いた。
「ええ」
 クラウスが焼いたホットケーキは歪な形をしていたが、きっとフルダが懇切丁寧に教えたのだろう、味は美味しかった。
 故郷の記憶をどういうわけか失いかけ、何も知らないうえに何も持たないクラウスだが、きっとフルダが何もかも教えてしまうのだろう。アイヴィンがクラウスの“先輩”としてできることは、彼のかわりに角笛を吹いてやることくらいだろうなと思いながら、ケーキを平らげたのだった。


 満腹になるまで朝食を食べて、クラウスはそのままベッドの中へと潜り込んだ。
 おなかがいっぱいになって体がだるくなったのもあったが、頭の中がもやもやとする感じに耐えられなかった。
(思い出そうとすればするほど、なんか、見えなくなっていく感じ……)
 クラウスが覚えていたはずの故郷の景色が、出来事が、あの夜の闇の深さのようなもので覆いつくされてしまう感じ。もしくは、濃い霧で包まれてしまうような感じだった。
 覚えていたはずなのに、覚えていない。はっきりと今思い出せることといえば、闇の深さに加えて、自分が言葉にしていた「何もないところ」と「枯れた土地」ということだけだった。
「マーオ、もしかして、ぼくはティルに来る前から、いろいろ大事なことを忘れてたのかな。もしかしてマーオって、最初からぼくと一緒にいた?」
 布団の中にもぐりこんでいたマーオに話しかけても、マーオからの返事は何もなかった。
 それもそうか、犬なのだから。
 ため息をついて、枕の中に顔を埋めた。
 何も聞こえてこないはずなのに、かすかに、あの歌が聞こえた。それは自分の声かもしれないし、もっと別の人の声かもしれない。よく分からなかった。
(おやすみって、誰に言ってもらってたっけ……)
 そういえば、自分の家族はどこにいるのか。自分はどこに住んでいたのか。
 どうやって故郷から逃げてここまで来たのか。故郷はどこにあるのか――。
 忘れるはずがないことが、思い出せない。思い出せることは、ティルハーヴェンに来てからのことばかりだ。忘れていることに気づかなかったことが恐ろしくなって、布団の中で体を丸めた。ふわふわのマーオを抱きしめても、気持ちは落ち着かなかった。
(とても大切なことを忘れている気がする。それが、何か、分からないけど)
 悶々といているうちに、記憶と夢が曖昧になってきて、いつの間にか眠ってしまっていた。始終、脳裏に浮かぶのは枯れた木の根とひび割れた大地で、それはクラウスが覚えているものなのか、それとも自分が無意識に作り出している風景なのか、それすらわからず、ただ、その大地の上を歩いていた。
 フルダに声をかけられて目を覚ましたが、あまり眠った感覚はなかったが、窓の外は薄暗く、かなりの時間眠りこけていたらしかった。
 思いつめていることが、ただ夢に出てきただけかもしれない。そう思いながら、のろのろと外套を羽織り、角笛を肩から下げた。
「なんか、調子悪そうよ。行くの?」
「うん。体は悪くないし。動いてないと、落ち着かないから」
 ろうそくに日をつけて、カンテラの扉を閉じた。
「今日はマーオとぼくで行くよ。もしアイヴィンが来たら、アイヴィンにそう言っておいて」
「ええ、分かった……、気をつけて」
 ホームから出て、だらだらと気が向くほうへと歩いていく。そんなクラウスに、マーオはぴったりと寄り添って歩いていた。
 角笛が鳴ることもなかったし、街はいつもと変わらない。
 ティルハーヴェンの門をくぐる、自分はどんな門番と喋ったのだろう。門番は自分のことをすんなりティルに入れたのだろうか。
 記憶がはっきりしているのは、あの暴漢に襲われ、ローレンに救われたところからだ。あの痛みから、すべてのことは覚えている。
(なんか、へんな記憶の抜け方してるなあ。ちょっと怖い)
 そのうち、ティルハーヴェンでの記憶も抜けていくのだろうか。それは嫌だった。
 嫌だったから、クラウスは歩いて、街の様子を深く見た。
 ちょうど、東門に近い裏路地を歩いている時だった。
「あ、マーオ、どこに行くの?」
 ぴったりと寄り添って歩いていたマーオが、急にクラウスから離れて門へと走って行ってしまった。
「マーオ! マーオったら!」
 裏路地から飛び出して、マーオを探すと、門の前で吠えていた。
「も、門番さん!?」
 マーオの前でぐったりしているのは、前、クッキーを持って行って話を聞いた門番だった。
 ぐったりとしているというよりは、寝ているようだ。
「門番さん、門番さん」
 肩を揺らしてみても起きない。何か、薬を入れられたのだろうか。
「だめだ、他の門番さん呼ばなきゃ」
 立ち上がって、他の門番を呼ぼうとした時だった。
 街の中心のほうから、角笛の音が聞こえてきた。
「今度は何!?」
 音のする方と、眠りこけている門番を交互に見て、クラウスは地団駄した。
「ああもう! マーオ、行こう!」
 アイヴィンから教えられたのは、とにかく角笛が鳴れば鳴ったところへ向かえということだった。それは守らなければならない。
 クラウスは門番に「ごめんなさい」と言って、東門から離れる。
 走って向かっている途中に、空があかあかとしていることに気づいた。
「また火事だ」
「おい、クラウス!」
 市場を過ぎたところで、アイヴィンと合流する。
「ねえ、火事って、普段からこんなにあるものなの?」
「いいや、冬場は多いが、今の季節ではそんなにないぞ!?」
 ということは、やっぱり放火だろうか。
 現場は、フルダがよく使っていたという図書館だった。市庁舎の隣にあり、豪華な造りをしている。窓からもくもくと煙が湧き出している。おそらく、本が燃えてしまっているのだろう。
(どうしてこんなことを!)
 角笛がけたたましく鳴る。
 クラウスはいてもたってもいられず、水の入ったバケツを持って火の中へと飛び込んでいった。
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