プロローグ

「持っているもの全部出せって言ってるんだよ! このガキ!」
 どっと音がしたかと思えば、頭の上にガラガラと空の樽が落ちてくる。路地に積み重ねられた酒樽だった。近くに酒場があるのかもしれないと思いながら、少年は腕を振り上げて、衝撃から顔を守った。近くから「マーオ」と猫のような鳴き声がしてくる。
「いたた……、うわっ!」
 肉が盛り上がる腕に少年は首を掴まれる。どれだけの力を持っているのだろうか。少年は片腕だけでやすやすと持ち上げられ、壁に押し付けられた。
「都市の外から来たんなら、それなりの金は持ってるってことだろ、ああ!?」
「だから、持ってませんって! ぼく、ほんと、何も持ってません! ほんとですったら!」
 上半身裸の男から漂ってくる酒のにおいに、少年はうっとむせて顔をそむけた。
 自分を鷲掴みにしているこの男は、執拗に金を出せと暴力をふるってくるが、少年は本当にお金というものを持っていなかった。
「ぼく、痩せこけた農地から逃げてきたんです、だから、本当になにも持ってません!」
 男に持ち上げられながら、少年はポケットの中をひっくり返して見せた。
「じゃあ、どっかに隠してるんだろ! 出せ! いいから出せ!」
「そんな、無茶ですよ!」
 少年は涙目になりながら叫ぶが、解放されるどころか、男の怒りをますます膨らませているだけだった。
 少年の足もとでは「マーオ」とやたらしつこく鳴く猫がいる。
 どれもこれも鬱陶しくて、男は少年をさらに酒樽に投げ込んだ。
「俺の今晩の酒がねえじゃねえか! くそっ、ここは何もかもそろうって噂で来たのにっ」
「そ、それは、ぼくも同じです、あたっ、痛いったら、落ち着いてくださいよぅ!」
 頭の上に何度も拳が降り注いでくる。腕でかばうが、今度は腹に拳が落ちてきた。
「ただで酒がもらえるって話なんか、嘘じゃねえか!」
「それは知りませんけど!」
 いろんな噂がはびこっているのだろうか。
(ここに来れば、生きていけるって、誰かが教えてくれたのに!)
 枯れた草しか生えない農地を思い出すと、口の中に土と地の味が広がった。
(海のそばにある、大きな街にくれば、困ることはないって、誰が教えてくれたんだっけ)
 きっと、この男も自分と同じ話を聞いて、ここに来たのだ。
 けれど、噂と話が違って、こうやって自分に苛立ちをぶつけているのだと、少年はなんとなく理解はした。
 理解はしたが、やはり痛いものは痛い。泣きたいのはこっちだ。自分だって、こんな暴力を望んでここに来たわけではない。
「もう金はいいから、寄越せるもんはぜんぶ寄越せ!」
「そうしたらもう命しかありませんよぅ!」
 ぼろぼろのチュニックに、ズボンじゃあ、金にもならないだろう。一杯のお茶にもならない。
 逃げる手段も、この男を止める手段も何も持っていなかった。もうこの男の怒りがおさまるまで耐えるしかないかと逃げることを諦めかけたその時だった。
「お前にやれるものなら、あるぞ」
 こつ、こつ、と足音とともに、別の男の声が聞こえた。
そのとたん、少年に降り注ぐ拳がぴたりと止まった。少年を殴る男が背後を振り返り、吠える。
「ああ!? もうなんでもいいから寄越せ!」
「おっと、まるで餓えた狼みたいだ。外の者か。狼にやれるものといったら、暴れるための牢といったところだろうか」
 男の拳を避け、明かりが揺らぐ。
(誰……?)
 男だ。しかし、明かりの影になっているし、深く帽子をかぶっているので、顔がよく見えない。
くらくらとしながら少年は身を起こした。男は、外套を羽織っている。そして、両の手にはそれぞれカンテラと杖があった。カンテラを足もとに置き、杖で殴りかかってくる男の腹を軽く突く。
「うっ……」
杖が腹に入り、男はゆっくりと地面に膝をついて痛みに悶える。
(助けて、くれた?)
 杖を持つ男は、ふと何かを口にした。
 それに息を吹き込むと、高らかに音が鳴った。びりりと空気が震える。角笛だ。角笛の音が、夜の街に響く。
「さ、狼は牢へ行こう。そこで存分に暴れてくれたまえ」
 かっかっとたくさんの足音が聞こえてきたかと思えば、男と同じ服装の者たちが駆け付け、暴れている男を取り押さえた。
「なんなんだよおめーら! 放せ! ちくしょう! なんなんだよ!」
 最後のあがきに、男は、地面に置いたカンテラを持ち上げながら答えた。
「夜警だ。お前のような罪ある者を取り押さえ、夜の街を守る者だ」
 夜警たちに取り押さえられ、街のどこかにある牢へと連れていかれる男は、最後に叫んだ。
「ここはなんでもあるんじゃないのかよ! ちくしょう!」
 男の叫びは、そこで途絶えた。
 夜警の誰かが、男の腹に一発入れたのかもしれない。街に静かな夜が訪れた。
「あるさ。ここにはなんでもある。欲しいものならなんだってあるさ。少年よ、大丈夫か?」
 夜警の男が、少年に手を指し伸ばす。少年は、酒樽の中からその手を取った。
「あの、ありがとうございます。ぼくも、ここに来たばかりで……」
「それは災難だったな。ここにはなんでもあるが、なんでもあるということは、ああいう良くないものもあるということだ。気を付けるといい」
 帽子のつばを上げた男は、にかっと笑った。顎ひげがよく似合う、日焼けした男の顔だった。
「泊まるところは?」
「ありません」
「金は?」
「それも、ないです……」
 少年の足もとで、また「マーオ」と猫が鳴く。
「君が持ってるのは、それだけかい」
「ええっと……」
 マーオと鳴くこの猫のようなものは、ここに来て出会ったばかりだ。自分が飼っているものではない。けれども、少年の足にまとわりついて離れなかった。
「では、うちの宿舎にでもおいで。傷の手当もしてあげよう。俺はローレン。君の名は?」
「く、クラウスです、クラウス・リー……」
「そいつは?」
「えっと、ええっと、マーオです」
「まるで猫のような名だな」
 え? と思い、クラウスはマーオの顔をよく見た。
「お前、もしかして、犬!?」
 マーオは、のんびりと、まるで猫のように鳴いた。茶色のずんぐりとした体と、鳴き声で、てっきり猫かと思っていたが、犬だった。あまりかわいくない。
「君を守ってくれるんだと。さあ、行こう。都市とはいえ夜は危ない」
 杖の先にあるフックにカンテラを下げ、ローレンは行く道を照らした。
 レンガが敷き詰められている街路を歩いていると、城壁が途切れたところへと出た。
 そこで、ローレンは足を止めた。
「いい眺めだろう。今日は月もある」
 波の穏やかな音が聞こえてくる。月に照らされているのは、各国からやってきた様々な船だった。船のランプが集まり、海は明るく光っていた。
 ローレンはカンテラを掲げ、クラウスに言った。
「ようこそ、“夜も眠らない海の都市”ティルハーヴェンへ。夜警が歓迎しよう」
 にかっと笑い、ローレンは海を照らしたのだった。
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