最後のチャイムはテープを切って
閉会式後、明のお別れパーティー兼先生お疲れ様会がももの家で行われることになっていた。式は午前中で終わり、夕方から始まる会に向けて近所の住民たちもノリノリで用意していた。店に運ばれたのは海でとれた海鮮たちで、おじさんたちが店の前で炭に火をつけている。午後からは一気に気温も上がり、火の周りにいる人たちは汗をかいているくらいだった。
ももは部屋に逃げていたのだが、炭の香りが立ち込めて、その部屋からも追い出されることとなってしまった。「もも? どこか行くの? 着替えてもないじゃない」と母が尋ねてきたが、ももは曖昧な返事をして自転車にまたがった。立ちこぎをして、がむしゃらに走った。紺色のスカートが多少めくれても気にしなかった。
こういう時に行くのは、決まって石守様の湖だった。
自転車を投げ捨てるように置き、森の中を走り抜ける。
春の日差しが差し込む石守様の湖がももを抱きしめてくれた。
祠の前に膝を抱えて座り込む。石守様は何も言わず、もものそばにいてくれる気がした。
こういう時、ももを慰めてくれるのは、先生でも、母でも、明でもなく、石守様だった。
明と喧嘩した時はたいていそうだし、わけのわからない鬱々とした気持ちが膨れ上がる時もここに来ていた。
行かないで、と言えないまま、今日という日を迎えてしまった。
明が船に乗って出ていく時、自分は彼を見送れるだろうか。明の出港の日も前から聞いていた。明は先生たちが島を出る日、一緒に本土に行くと決めていた。
ももはどうしていいか分からず、祠の前で顔を埋めて空から降ってくる鳥の声を聞いていた。
春の風がもものポニーテールを揺らした時だった。
「もも」
草の芽を踏む音が聞こえた。
よっこいせ、と、ももの右隣に座る。
「もーも」
ももはふい、と左を向いた。
「ももちゃん」
「なに」
三度目になって、ようやくももは声を出した。
「店に行ったらももがいないから、おばちゃんに迎えに行ってって頼まれたんだよ。ここにいるとは思ったけど、どうしたんだよ。」
明がもものポニーテールを弄り始めたが、その手を払うこともできず、ももは顔を背けたまま動かなかった。
「野球バカには分からないよ」
「本物のバカだったら、とっくに島から出ていってますよー。親からは小学生の頃から、島から出てもいいんだぞって言われてたし。でもそれはいいって断ってただけ」
「なんで」
「ももが嫌だろうなって、思ってたから」
もも、こっち向いてよ、と言われる。
なんで今更になって名前で呼ぶの、と思いながら、ももは目をごしごし擦ってちらりと明を見る。明も制服のままだった。
何だその顔、と、明が笑い、ももの頬を指でつついた。やめてよ、と不機嫌な声で言うと、明はさらに笑った。
「ももが、行かないでってもし言ったら、俺も島のおじちゃんたちに習って漁やろうと思ってたんだ。でも、ももはあの時、言わなかった。言わないでいてくれたんだろうなって思った。だから、俺、行くって決めたんだ」
キャッチボールした時のことだろうか。ももは唇を噛んで、絞り出すかのように言った。
「……行かないでよ」
「えー、今言うー? もう決まっちゃったよ」
「行かないで、明」
「ももさ、永遠の別れみたいな顔してるけど、俺、ちゃんと帰ってくるよ。ちょっと野球して、また帰ってくる。どうせ俺なんかへっぽこのぽこすけだよ。甲子園なんて出りゃしない。そんな学校じゃないもん。予選敗退で引退。もしかしたら俺はずっとベンチかも。終わったら帰ってくる。あ、今、石守様にも誓っとくよ、帰るって」
「でも」
「もも、そんなに俺のこと好きだったの? まあ、知ってたけど」
明はももを抱きしめた。
明は少しだけ潮の香りがする。
「大学にも行っちゃうんでしょ、どうせ」
「気が向いたら、そうなるかもな。でも、そうなってもちゃんと帰るよ」
「彼女とか作っちゃうんでしょ。明、そこそこかっこいいもん」
「そこそこって何だよ。島にもういるって言うよ」
明がももの顔を覗き込んでくるので、ももは恥ずかしくて顔を背けたが、明がその顔を両手で包んでキスをした。
唇が離れ、ももは半泣きで言った。
「行って来い、バカ」
「ああ、行ってくる」
色とりどりのテープで飾られたフェリーが出港を待っていた。
いつも、式は夕方に行われる。小学校の先生たちも、同じように、ここを去っていった。
今乗り込むのは、中学校の先生たち。ももと明から手渡された花束を持っていた。
後藤先生も本土の学校に転勤が決まった。もともと本土の人だった後藤先生がこの島に引っ越した理由は、毎日美味い魚が食べられるから、だったらしい。
明は最後に乗り込んだ。新品のスマホを握りしめている。これから明は本土にいる親戚の元に向かい、それから寮住まいの準備をするそうだ。
「じゃ、もも」
「うん」
島の人たちが大太鼓を打ち鳴らし、それを合図にフェリーが汽笛を鳴らした。
甲板には中学校の先生たちと、明がいる。大きく手を振っていた。
校長先生が「それじゃあ、投げまーす!」と叫び、島の人たちも大きく手を振る。
投げられたのは、紙テープだった。
船の上から投げられるテープの輪を、島の人たちがキャッチする。
明もテープを持っていた。
「ももーーーーーーーーーー行くぞーーーーーーーーーーーーー!!!!!!!!!」
大きく振りかぶって、空高くテープを投げる。
ももは両手を高く上げ、テープの落下地点に向かった。
ぽすん、と、手のひらに輪が入る。
おおー、と島の人たちや先生たちが拍手をする。なんだか気恥ずかしかった。
太鼓がドンドンと鳴り、船のエンジンがかかる。海水がかき回され、ゆっくりと船は島から離れていく。
テープが伸びる。
テープがちぎれそうだという時になって、中学校からチャイムが聞こえてきて、後藤先生がやべっという顔をする。チャイムを切り忘れたのだろう。
でも、中学校が先生たちを見送っている気がして、ももはこれで良かったと思う。
最後のチャイムが島に響き、テープが一本一本ちぎれる。
「明ーーーーーーーーーッッ!! ホームランくらい入れてこーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーい!!!!!!」
ももと明を繋ぐテープが切れる瞬間、ももは叫んだ。
明はにかっと笑う。何かを叫んだが、汽笛にかき消されて聞こえなかった。
テープがちぎれ、明は島から旅立った。
穏やかな波に戻る。
行って来い。ももは海の向こうの明に、もう一度語りかけた。
「ももちゃん、ももちゃん、はやくはやく!」
店は満席だった。島の住民のほとんどがいた。
お使いから帰ってきたもものために、テレビの真正面を開けてくれる。
高校野球、地区予選。明が出場する日だった。
カンカン照りの中、明はバッターとして登場した。島から出て三年。明が試合に出るのは、これが最初だった。
明のための応援会場はももの店となった。みんなテレビに釘付けだった。もうちょっと大きなテレビにしておけばよかったね、と母は言っていた。
ももはスマホを握りしめ、祈るようにテレビを見ていた。
2ストライク。島の皆も祈るように見ていた。
明はヘルメットを一度くいっと上げて、バットを振った。強い眼差しを投手に向けて構える。
投手が腕を大きく振る。
ももは見ていられず、ぎゅっと瞼を閉じてしまった。
高い金属音が鳴る。ももははっとしてテレビの画面を見た。
うわあっと周りの人たちが歓声を上げる。ホームランだった。カメラが変わり、ベンチの様子が映される。戻ってきた明はほっとした顔をして、ちらりとこちらを見た――ような気がした。そして、にっと笑った。
見てたか、と言わんばかりに。
ももは振り返り、島の人たちと喜びあった。
床に置かれたスマホの画面には、明からのメッセージが表示されていた。
『明日、昼からだから。絶対、島のみんなと見て』
『それから、試合と補講が終わったらそっちに帰る。花火、行こうな』
ももは部屋に逃げていたのだが、炭の香りが立ち込めて、その部屋からも追い出されることとなってしまった。「もも? どこか行くの? 着替えてもないじゃない」と母が尋ねてきたが、ももは曖昧な返事をして自転車にまたがった。立ちこぎをして、がむしゃらに走った。紺色のスカートが多少めくれても気にしなかった。
こういう時に行くのは、決まって石守様の湖だった。
自転車を投げ捨てるように置き、森の中を走り抜ける。
春の日差しが差し込む石守様の湖がももを抱きしめてくれた。
祠の前に膝を抱えて座り込む。石守様は何も言わず、もものそばにいてくれる気がした。
こういう時、ももを慰めてくれるのは、先生でも、母でも、明でもなく、石守様だった。
明と喧嘩した時はたいていそうだし、わけのわからない鬱々とした気持ちが膨れ上がる時もここに来ていた。
行かないで、と言えないまま、今日という日を迎えてしまった。
明が船に乗って出ていく時、自分は彼を見送れるだろうか。明の出港の日も前から聞いていた。明は先生たちが島を出る日、一緒に本土に行くと決めていた。
ももはどうしていいか分からず、祠の前で顔を埋めて空から降ってくる鳥の声を聞いていた。
春の風がもものポニーテールを揺らした時だった。
「もも」
草の芽を踏む音が聞こえた。
よっこいせ、と、ももの右隣に座る。
「もーも」
ももはふい、と左を向いた。
「ももちゃん」
「なに」
三度目になって、ようやくももは声を出した。
「店に行ったらももがいないから、おばちゃんに迎えに行ってって頼まれたんだよ。ここにいるとは思ったけど、どうしたんだよ。」
明がもものポニーテールを弄り始めたが、その手を払うこともできず、ももは顔を背けたまま動かなかった。
「野球バカには分からないよ」
「本物のバカだったら、とっくに島から出ていってますよー。親からは小学生の頃から、島から出てもいいんだぞって言われてたし。でもそれはいいって断ってただけ」
「なんで」
「ももが嫌だろうなって、思ってたから」
もも、こっち向いてよ、と言われる。
なんで今更になって名前で呼ぶの、と思いながら、ももは目をごしごし擦ってちらりと明を見る。明も制服のままだった。
何だその顔、と、明が笑い、ももの頬を指でつついた。やめてよ、と不機嫌な声で言うと、明はさらに笑った。
「ももが、行かないでってもし言ったら、俺も島のおじちゃんたちに習って漁やろうと思ってたんだ。でも、ももはあの時、言わなかった。言わないでいてくれたんだろうなって思った。だから、俺、行くって決めたんだ」
キャッチボールした時のことだろうか。ももは唇を噛んで、絞り出すかのように言った。
「……行かないでよ」
「えー、今言うー? もう決まっちゃったよ」
「行かないで、明」
「ももさ、永遠の別れみたいな顔してるけど、俺、ちゃんと帰ってくるよ。ちょっと野球して、また帰ってくる。どうせ俺なんかへっぽこのぽこすけだよ。甲子園なんて出りゃしない。そんな学校じゃないもん。予選敗退で引退。もしかしたら俺はずっとベンチかも。終わったら帰ってくる。あ、今、石守様にも誓っとくよ、帰るって」
「でも」
「もも、そんなに俺のこと好きだったの? まあ、知ってたけど」
明はももを抱きしめた。
明は少しだけ潮の香りがする。
「大学にも行っちゃうんでしょ、どうせ」
「気が向いたら、そうなるかもな。でも、そうなってもちゃんと帰るよ」
「彼女とか作っちゃうんでしょ。明、そこそこかっこいいもん」
「そこそこって何だよ。島にもういるって言うよ」
明がももの顔を覗き込んでくるので、ももは恥ずかしくて顔を背けたが、明がその顔を両手で包んでキスをした。
唇が離れ、ももは半泣きで言った。
「行って来い、バカ」
「ああ、行ってくる」
色とりどりのテープで飾られたフェリーが出港を待っていた。
いつも、式は夕方に行われる。小学校の先生たちも、同じように、ここを去っていった。
今乗り込むのは、中学校の先生たち。ももと明から手渡された花束を持っていた。
後藤先生も本土の学校に転勤が決まった。もともと本土の人だった後藤先生がこの島に引っ越した理由は、毎日美味い魚が食べられるから、だったらしい。
明は最後に乗り込んだ。新品のスマホを握りしめている。これから明は本土にいる親戚の元に向かい、それから寮住まいの準備をするそうだ。
「じゃ、もも」
「うん」
島の人たちが大太鼓を打ち鳴らし、それを合図にフェリーが汽笛を鳴らした。
甲板には中学校の先生たちと、明がいる。大きく手を振っていた。
校長先生が「それじゃあ、投げまーす!」と叫び、島の人たちも大きく手を振る。
投げられたのは、紙テープだった。
船の上から投げられるテープの輪を、島の人たちがキャッチする。
明もテープを持っていた。
「ももーーーーーーーーーー行くぞーーーーーーーーーーーーー!!!!!!!!!」
大きく振りかぶって、空高くテープを投げる。
ももは両手を高く上げ、テープの落下地点に向かった。
ぽすん、と、手のひらに輪が入る。
おおー、と島の人たちや先生たちが拍手をする。なんだか気恥ずかしかった。
太鼓がドンドンと鳴り、船のエンジンがかかる。海水がかき回され、ゆっくりと船は島から離れていく。
テープが伸びる。
テープがちぎれそうだという時になって、中学校からチャイムが聞こえてきて、後藤先生がやべっという顔をする。チャイムを切り忘れたのだろう。
でも、中学校が先生たちを見送っている気がして、ももはこれで良かったと思う。
最後のチャイムが島に響き、テープが一本一本ちぎれる。
「明ーーーーーーーーーッッ!! ホームランくらい入れてこーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーい!!!!!!」
ももと明を繋ぐテープが切れる瞬間、ももは叫んだ。
明はにかっと笑う。何かを叫んだが、汽笛にかき消されて聞こえなかった。
テープがちぎれ、明は島から旅立った。
穏やかな波に戻る。
行って来い。ももは海の向こうの明に、もう一度語りかけた。
「ももちゃん、ももちゃん、はやくはやく!」
店は満席だった。島の住民のほとんどがいた。
お使いから帰ってきたもものために、テレビの真正面を開けてくれる。
高校野球、地区予選。明が出場する日だった。
カンカン照りの中、明はバッターとして登場した。島から出て三年。明が試合に出るのは、これが最初だった。
明のための応援会場はももの店となった。みんなテレビに釘付けだった。もうちょっと大きなテレビにしておけばよかったね、と母は言っていた。
ももはスマホを握りしめ、祈るようにテレビを見ていた。
2ストライク。島の皆も祈るように見ていた。
明はヘルメットを一度くいっと上げて、バットを振った。強い眼差しを投手に向けて構える。
投手が腕を大きく振る。
ももは見ていられず、ぎゅっと瞼を閉じてしまった。
高い金属音が鳴る。ももははっとしてテレビの画面を見た。
うわあっと周りの人たちが歓声を上げる。ホームランだった。カメラが変わり、ベンチの様子が映される。戻ってきた明はほっとした顔をして、ちらりとこちらを見た――ような気がした。そして、にっと笑った。
見てたか、と言わんばかりに。
ももは振り返り、島の人たちと喜びあった。
床に置かれたスマホの画面には、明からのメッセージが表示されていた。
『明日、昼からだから。絶対、島のみんなと見て』
『それから、試合と補講が終わったらそっちに帰る。花火、行こうな』
5/5ページ