最後のチャイムはテープを切って

「ももー。お使い行ってきてくれない?」
 頭にバンダナを巻き、エプロンを身につけている母がももに声をかけた。
 宿題は明と一緒にほぼやってしまったため、ももは暇をしていた。スマホは持っていないし、パソコンやタブレットなどもここにはない。することと言えば、誰もいない店でテレビを見るか、母の手伝いをするか、自分の部屋で図書館で借りた本を読むかくらいしかなかった。
 母は手に日本酒の瓶が入った袋を持っている。
「えー、まだお昼じゃん。暑い」
「暑いから持っていくんでしょ! 石守様が喉渇いたって泣いちゃう」
「はいはい、分かった、分かりました。その代わり、帰ったらハワイアンブルーのかき氷」
「さくらんぼとクリームもつけてあげる」
「やったー」
 この店のかき氷は絶品だと思っている。ふんわりした氷に、ももの好きなハワイアンブルーのシロップをかけ、大きな粒のさくらんぼとクリームを添える。母の作るかき氷は世界一美味しいと思っている。テレビで見た都会のかき氷よりもずっと。
 ちょっと自転車を走らせただけで、そのかき氷が食べられるのは幸福だった。
 ももは自転車を走らせて、坂を上り、森の入り口に自転車を止める。看板には「この先、石守の湖」と書かれていたが、看板は生憎伸び伸びになった草に隠されていて、見えにくくなっていた。
 花柄のワンピースの上に長袖のパーカーを羽織り、足には虫除けのスプレーをかける。本当は長ズボンのほうがよかったが、ワンピースで来たのには理由があった。
 自転車の前かごに入れていた日本酒を取り、森に入る。鬱蒼とした森の中には細い道があるが、ここも草が生え放題だった。せっかくの素晴らしい場所だから、もう少し手入れをすればいいのに、とももは思う。
 歩いていると、視界がさっと開け、空からさんさんと陽の光が降り注いでいた。その光を反射し、エメラルド色に輝く湖があった。高くそびえる岩が湖をぐるりと囲んでいた。この島特産の白い石が剥き出しになっている。かつて、ここでは採石が行われていたが、それが中止となり、雨水が溜まってこのような湖が出来上がったという。
 湖のほとりには、小さな祠があった。石守様が祀られていた。この石守様は採石の安全を守り、また、今はこの湖を守っていると言われている。
 採石は他の場所でも行われており、ももと明は小学校の総合的な学習で、石の加工をしてみたことがあった。ももが作ったのは小さな勾玉で、明が作ったのは小さな野球ボールだった。それはただの球じゃん、とツッコんだが、明はいいんだよ、と朗らかに言ったのを覚えている。
 島のことを学べる総合学習が好きだった。ももの家が観光ガイドを担っているというのを抜きにしても、ももは島のことが好きだった。知れば知るほど面白いと思うし、知れば知るほど家の仕事を自分もしたいと思う。
 だから、島から出ることはまったく考えていなかった。ここに残って、ここのためになることをしていたい。母には前からそう言っているし、母もそれに賛成してくれている。高校を出なさいとは母は言わなかった。それがももは嬉しかった。島の外に働きに出ている父は学びたい時に学びに出ればいい、とだけ言った。反対はしなかった。父とは年に数回しか会えないから、遠慮しているのかもしれないと思ったが、父の言葉を素直に受け取ることにした。
 ももは小学生の頃から、この湖にやってきては、石守様にお酒をあげていた。かつては一人では危ないからと明も着いてきていたが、ある時からももは一人で行くようになった。
 前はもっとべったりだった。明は幼馴染で、5人クラスの時も、明と一緒にいる時間が長かった。小学5年生になった時、クラスの一人の女の子が「ももちゃんとあきくんって付き合ってるの?」と聞いてきたのがはじまりだった。違うよ、とやんわり言ったが、否定するのが苦しかった。それからその女の子は島の外に引っ越し、それが引き金だったのか、他のクラスメイトも引っ越していった。そして残されたのは、明とももの二人。かつてのべったりさはなくなったが、それでも一緒にいる時間は消えなかった。ももの中で明の存在がさらに強くなったものの、ももはその気持ちをひたすら隠している。
 祠の前にあるお椀にお酒を入れ、ももはサンダルを脱ぎ、湖に足を入れた。
 ひんやりとして気持ちがいい。神秘的な湖に足をつけていると、心が洗われるような気がする。
 ももは空を見上げる。
 明は、これからのことをどう考えているのだろうか。


 店に戻ると、わーっという歓声がももを迎えた。
「うおおー! ホームランだ、すっげえ!」
「やるなあ、この選手。うん、いい」
 ホームラン、ホームランです! 第一号ホームランが出ました!
 実況が熱く語っている。
 テレビに噛み付いていたのは、明と後藤先生だった。手には溶けかけのかき氷があった。明はいちごで、後藤先生はメロンだった。
「先生、何やってるの」
「おおー、塩飽。お使い行ってたんだってな。エライな」
「質問に答えてないし。先生が生徒の家にいていいんですか」
「先生にもプライベートというものがあるんだよ、塩飽。先生も、普通の人間として生活してるんだよ。店に行くことだってあるだろ。つーか、この島の飲食店っつったら、ここしかないしな!」
 がはは、と笑い、後藤先生は溶けかけのかき氷をジュースのように飲み干した。
 明はももに目もくれず、テレビに映る野球選手を見つめていた。
「もも、おかえり。ハワイアンブルー」
「あ、ありがと、お母さん」
 ももは男たちから距離を取るためにカウンター席に座った。
 試合の実況がうるさい。絶品のかき氷は、潮の音を聴きながら食べたかったが、叶わなかった。自分の部屋は灼熱地獄になっているから、冷えた店で食べるしかなかった。
 野球バカめ、と思いながらさくらんぼを食べる。甘酸っぱい。
 明は部活には入っていないが、それでも放課後、たまに後藤先生とキャッチボールをしている。ももは明と一緒に帰るために、図書館で宿題をして待つのが常だった。
 俺、いつか野球部に入って、みんなと一緒に野球がしてえ。自転車を押しながら、そう明が言ったことがある。
 みんなって誰よ、と聞くと、部活にいるみんなだよ、と言った。
 明が島から出ていくんじゃないかと不安になった瞬間だった。その時は、まだ中学一年生で、ふうん、と流すことができたが。
「先生。うちの県で野球部がすごい高校ってどこがあるの」
「そりゃ、いろいろあるぜ? なんだ、予選見てなかったのか」
「見てたけど、どこにある高校なのかは分からなかったから、適当に見てた」
「なんじゃそりゃ。明は甲子園に出たいのか」
「というわけではないんだけど、野球がしたいかな」
 ももはその言葉を聞いて、ひやりとした。かき氷で震えたわけではない。
 明はそう言って、溶けたかき氷を飲んだ。
 ごちそうさま、と皿を返しに来る。隣に明が立つと、ももの体は何故か強張った。
「帰ります。おばさん、ありがとう。じゃな、もも」
「うん……またね」
 店を出ていく明の背中を目で追い、それから、溶けはじめたかき氷を急いで食べた。
 頭が痛くて呻いていると、後藤先生が笑ってきて、ウザ、と思った。
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