最後のチャイムはテープを切って

 ――先生ーーーッ! 俺、先生のこと大好きでしたーーッッッ!!!!
 紙テープが切れる瞬間、隣に立っていた明が突然そのようなことを叫び、ももはぎょっとした。
 詰め襟の小学校の制服に身を包み、明はフェリーを見送っていた。ももも、一緒になって、テープを握っていた。
 風に舞い、テープはフェリーを見送っていた。
 島から旅立つ人と、島から旅立つ人を繋いだテープは、フェリーが遠くなるごとにちぎれ、風になびいていた。
 見送っていたのは、四年生の頃から三年間担任をしてくれた、前島先生だった。
 甘いウェーブがかかった美人な先生で、島の穏やかな空気が似合う先生だった。
 島から出ていく人は他にもいた。数少ない小学校の教員たち全員が乗っていた。明は前島先生から投げられたテープ、ももは校長先生から投げられたテープを握っていた。子供は明とももしかいなかったので、他の先生は、明とももの両親や、他の島民にテープを投げていた。
 甲板で手を振っていた先生は、何かを叫んだが、先生はもともと声が小さく、さらに小学校から祝福のチャイムが聞こえてきて、内容は聞こえなかった。
「先生も俺らのこと好きだって言ってくれたと思う」
 へへ、と、日焼けした顔をくちゃりと歪めて笑った。明はいつもは元気すぎるくらい元気な男子だったが、ももはこの時、久しぶりに明の涙を見た。
「そうだね」
 先生の”好き”と、あんたの”好き”は違うでしょ。そんなことを言える雰囲気ではなかった。
 ちぎれたテープを握りしめ、明とももは夕暮れの瀬戸内海を眺めていた。フェリーでかき乱された海は落ち着き、いつもの穏やかな波音を響かせている。
 小学校のチャイムはもう子供たちのために鳴らない。あれが小学校が鳴らす最後のチャイムだった。
 残ったのは、中学校のチャイムだけだった。


 窓の外から見える海を眺めていると、こつんと何かが頭に落ちてきた。分厚いスケジュール帳だった。
「塩飽。チャイム聞こえてんのか。座れ」
「後藤先生、生徒を叩くのは体罰です」
「うっせえ。座れったら座れ。朝の会始めるぞ。今日の日直は清水な」
「へーい」
 ああ、前島先生が懐かしい。ももは広々とした教室の中央に置かれていた自分の席についた。隣は明の机。
 机が二つしかなく、個別指導用の教室のように見えるが、れっきとした三年生の教室だった。
 全校生徒二名、明とももは白木中学校の最後の中学生だった。
 二人を一年生の頃から担任するのは、後藤先生。明と同じく、髪を刈り上げており、二人は野球という趣味を共有していた。
 前島先生だったら「はじめましょう」と毅然と言う。後藤先生みたいに雑じゃなかった。
 ももは不満を持っていたが、明は先生と趣味を共有しているせいか、後藤先生に懐いていたし、後藤先生も明はお気に入りの生徒のように見えた。
 ま、もう今年で最後だし。明日から夏休みだし。ももは机に肘をつけて明の適当な司会を聞いていた。
 その間、後藤先生は今日の午前中のみの時間割を黒板に書き出していた。
 終業式。二人だけだから教室ですればいいのに、体育館でする。これは校長先生のこだわりなのだと後藤先生が言っていた。全てが最後なのだから、全てを華やかに終わらせよう。それが校長先生の今年度の学校経営なのだと。その校長先生も、今年で定年退職を迎えるらしい。後藤先生は何もかも大っぴらに話すから、ももは心配になった。
 この中学校も、今年度で閉校となる。数年前に決定したことだった。小学校は明とももの卒業に合わせ閉校となった。
 閉校が決まった時、まだもう少し子供はいた。閉校が決まった後、一人一人と子供が減っていった。島の外の学校に転校したのだ。それは子供の意思ではなく、親の意思だったのだろうとももは考えている。
 校長先生のスピーチは至って普通で、ももと明によい夏休みを、進路も考えて、と言った。教室で聞けば良いような内容を、明とももは汗をだらだら流しながら聞いた。
 クーラーつけっぱなしの広い教室に戻ると気持ちが良かった。よその学校では、リモートで涼しい中終業式をしていることをローカルニュースで知った。
 生徒指導の話や宿題の話を後藤先生から聞き、午前中だけの学校は終わる。
「夏休みはオープンスクールとかあるから、行けたら行けよ。島の外の学校を知らんだろ、お前ら」
 明ははーい、と返事をしたが、ももは返事をしなかった。
 チャイムが鳴り、後藤先生はさっさと教室を後にする。
 残された明とももは、黙って鞄の中に荷物を入れた。明は鞄を背負い、ももは手に持った。自転車置き場に行き、ようやく明はももに話しかける。
「なー、塩飽、オープンスクール行く?」
 小学生の頃は「ももちゃん」だったのに、いつの間にか「塩飽」に変わっていた。ももは明の一歩後ろを歩く。自転車に乗ればいいのに、二人はいつも自転車を押して帰っていた。ももはこの時間が好きだったが、明はどう思っているのか分からなかった。
「行かない。雰囲気に惑わされるのは嫌」
「そっかー。俺も行かない」
「うん」
「塩飽のおばちゃんの昼飯食っていい? それから宿題しようぜ」
「いいよ。お客さんいないだろうし」
「よっしゃ! 今日は醤油ラーメンがいいな」
 ガッツポーズをし、拳を空に突き上げた。
 ももの家は、島唯一の食堂だった。海の目の前にあるこの店の看板商品であるラーメンは絶品で、島の観光スポットの一つとなっている。机やカウンターには海で拾える綺麗な貝殻があしらわれ、天井からは浮き輪などのビーチグッズが吊り下げられていた。この家の前には遊泳できる砂浜が広がっているから、レンタル用に置いていた。
 観光ガイドとしての役割もあり、店内には多数の離島パンフレットが置かれていた。小さな島々が連なっており、島巡りが流行った頃もあった。その時はかなり賑わっていたが、今となっては閑散としていた。
 厨房にいた母に声をかけ、ラーメンを作ってもらう。座敷席につき、二人は扇風機の前でラーメンをすすった。海鮮だしのスープだった。明は塩分など気にせず、全部飲み干した。
 皿を下げ、鞄からすぐにワークブックを出す。後藤先生が選んだそうだ。分厚いワークだった。去年はもう少し薄いワークにしてくれていたはずなのに、今年は受験生だからと気合を入れられてしまったのか。
 ひどいよなー、とからから笑う明は、数学から始める。ももは覚えていることだけ書けばいい社会科から始めた。
 三十分ほど経った時、母がそっとアイスティーを出してくれた。
 飲もうと顔を上げた時、目の前で真剣な顔をしている明が視界に入ってきた。
 ももはそっと明から視線を逸らし、ストローでアイスティーを吸い上げた。
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