南十字星を目指して
金子研究室に入ると、まず大きな望遠鏡が目に入った。組み立てた状態で窓際に置かれており、埃よけのビニールのカバーがかけられている。窓の隣の壁には惑星が並ぶポスターが貼ってあった。
金子はちょうどコーヒーを淹れている途中で、ポットの前に立っていた。遥に先に座っていてくれと声をかけてくる。
部屋の中央にはゼミ生たちと研究をするための会議用テーブルと椅子があった。そこにちょこんと座って金子を待つ。
ことりと遥の目の前に黒のマグカップが置かれる。驚いて顔を上げると、金子はほほえみながらどうぞとすすめてきた。
「インスタントですが」
「あ、ありがとうございます」
申し訳なくて、身体がきゅっと縮こまる。
長話をするつもりはなかった。ただ、誠司がどこで何をしているか聞いて終わるつもりだったのだが。
マグカップには黄道十二星座のうち、夏の星座が金色の点と線で描かれていた。このうち、遥が好きなのは蠍座だ。冬の星座であるオリオンの命を狙おうと追いかけている話がとても好きだった。
金子は遥の向かい側に座る。彼のマグカップには冬の星座が並んでいた。
「天文サークルの方と観測会をしたあとは、いつもここでコーヒーを飲んでいたのです。木上さんはどこのサークルなんですか?」
「私も天文サークルです。いつから観測会はサークルだけで行うようになったんですか?」
「いつでしたかねえ。ほんと数年前の話だったと思います。私もその頃から論文の執筆で忙しくしていて。一度切れてしまってそのままずるずると。いやはや。まだサークルには人がいるのですか?」
「もう私だけです。名簿に名前が載っているだけの人もいなくなりました。観測会自体ももうできていません。今年のうちには借りている教室を返すつもりです」
「そうですか。寂しくはありますが、でもいいのです。サークルがなくなるだけで、勉強をしている人がいなくなるわけではないので。本題は成島君の話でしたね」
「どこにいるのか聞きたくて」
「どこ……というのは私も分かりかねるのですが、彼が教職課程を取っていたのと、教員採用試験を受けるというのは知っています。もしかしたら日本の学校で教鞭をとっているかもしれませんし、日本の外で教鞭をとっているかもしれません」
「外?」
「彼はよく、南十字が見えるところに行きたいと言っていましたからねえ。南半球のどこかにいるのかもしれません。特にすばる望遠鏡があるハワイには一度行ってみたいと言っていました。彼が四年生の時に観測会で会った時はちょうど教員採用試験真っ只中でした。企業の就活はしていなかったようです。高校理科を受けたというところまでは聞きましたが、合否については分かりません。ああそうだ。もし落ちたら、一年くらい海外で遊ぶかも、みたいなことを冗談で言っていましたね」
そういうやり取りをこの部屋でしていたというのは想像ができた。観測会のあとの雑談。限られたヒントで分かったのは、教員採用試験を受けていたこと、相変わらず南十字星への憧れがあるということだった。
ハワイ、マウナケア山の山頂域には国立天文台ハワイ観測所が設置した口径八・二メートルの光学赤外線望遠鏡であるすばる望遠鏡がある。南十字星も見ることができるので、誠司が行きそうな場所ではあった。
誠司が考えていたことは分かったが、はっきりとした居場所については分からなかった。
もしかしたらわかるかも、という期待は一瞬にしてすぼんでしまった。
せっかく時間を割いてくれて、コーヒーまで淹れてくれた金子にがっかりした姿は見せたくない。マグカップに唇をつけて誤魔化す。
「彼に何か用事でもあるんですか?」
聞かれて当たり前の質問に、遥はすぐには答えられない。この気持ちには恋心が含まれているなんて、花澄はともかく、他の人には言えない。
「まあ、はい。そんな感じです」
「そうですか。すみません。なんか期待させてしまったみたいで。ああ、そうだ。もしかしたら、教育学部の進路支援課が何か知っているかもしれません。この学部棟の一階にあるんですが。知っていますか?」
聞くと、教員になりたい人向けに、学習ボランティアの情報提供、教員採用試験対策などをしている場所があるという。もしかしたら誠司もそこにお世話になっているかもしれないから、職員が合否のことを知っているかもという話だった。
コーヒーを飲み終えた遥は金子に頭を下げた。
「わざわざすみません。ごちそうさまでした」
「いいんですよ。観測会が懐かしかったので、話がしたかっただけです。もし成島君に会ったら、金子が元気にしているとお伝えください。ゼミ生ではありませんが、彼が星に対して熱心なのは強く記憶に残っています。あと、もし観測会を最後にするのであれば、声をかけてください。お手伝いしますから」
もう一度、遥は頭を下げた。
引退して、サークルが消滅する前に、最後の観測会を開くというのはいいかもしれない。ペルセウス座流星群はもう終わってしまったから、次はふたご座流星群だ。それで最後にしようと決めた。空気は冷たいが、空気は澄んでいるうえに、一等星も多い。冬の星空は一年のうちで一番賑やかだ。最後の観測にはちょうどいい。
翌日、遥は金子に教えてもらった通り、教育学部進路支援課に向かった。学部棟入ってすぐの右手にそれはあった。入口前に『進路支援課』と書かれた看板が立っていて、壁には募集中の学習ボランティアの張り紙が貼ってある。市内の小中学校からのボランティア要請がほとんどだった。
支援課に入る前に、遥はそのボランティアをざっと眺めた。ほとんどが授業中の支援で、ほんの一部に、秋の遠足などの学校行事の支援があった。教育学部生はこういうのに積極的に参加して試験対策をするんだろうなあとぼんやりと思う。
一通り眺めたあと、左端に少し古びた紙があることに気付く。端すぎて見えていなかった。
目が止まったのは、学校名にカタカナがあったからだ。『ハワイ日本人学校すばる学園』と書かれている。ハワイにある日本人学校の補習授業校だという説明文が添えてある。その学校がどういう学校なのかは全く分からないが、ハワイに住んでいる日本人に向けた学校であることだけはなんとなく想像ができる。
ハワイからの募集なんて一体どんなのが来るのだろうと興味本位で内容を見ると、あ、と声が出た。
ボランティアの内容はこう書かれてあった。
『ビーチで南半球の星空の観測会をします。日本では見られない星を見ることができます。ボランティアでは生徒と日本語での対話をしていただきます。星に詳しくなくても大丈夫です』
つまり、日本語で会話をするのがメインのボランティアだった。遥が驚いたのはそこではない。
さらにその下、担当者の名前に驚いた。
成島誠司の名前があったのだ。
誠司はハワイの日本人学校にいた。日本の学校ではなく、ハワイの学校にいたのだ。本当にハワイにいた。南十字星が見える場所に。
遥はすぐに支援課のドアを開いた。中には中年女性の職員がいた。
「あの、私、教育学部ではないんですけど、参加したいボランティアがあって」
場所が海外だから諦める、というのは、遥の中にはなかった。そこにいると分かれば、すぐにでも行きたい。
募集の日時が一年前のものだったから一応メールで日本人学校に連絡を取ってみるということだった。
お願いします、と遥は頭を下げて支援課から出る。
すぐに花澄に連絡を送った。ハワイに行くかもしれない、と。
金子はちょうどコーヒーを淹れている途中で、ポットの前に立っていた。遥に先に座っていてくれと声をかけてくる。
部屋の中央にはゼミ生たちと研究をするための会議用テーブルと椅子があった。そこにちょこんと座って金子を待つ。
ことりと遥の目の前に黒のマグカップが置かれる。驚いて顔を上げると、金子はほほえみながらどうぞとすすめてきた。
「インスタントですが」
「あ、ありがとうございます」
申し訳なくて、身体がきゅっと縮こまる。
長話をするつもりはなかった。ただ、誠司がどこで何をしているか聞いて終わるつもりだったのだが。
マグカップには黄道十二星座のうち、夏の星座が金色の点と線で描かれていた。このうち、遥が好きなのは蠍座だ。冬の星座であるオリオンの命を狙おうと追いかけている話がとても好きだった。
金子は遥の向かい側に座る。彼のマグカップには冬の星座が並んでいた。
「天文サークルの方と観測会をしたあとは、いつもここでコーヒーを飲んでいたのです。木上さんはどこのサークルなんですか?」
「私も天文サークルです。いつから観測会はサークルだけで行うようになったんですか?」
「いつでしたかねえ。ほんと数年前の話だったと思います。私もその頃から論文の執筆で忙しくしていて。一度切れてしまってそのままずるずると。いやはや。まだサークルには人がいるのですか?」
「もう私だけです。名簿に名前が載っているだけの人もいなくなりました。観測会自体ももうできていません。今年のうちには借りている教室を返すつもりです」
「そうですか。寂しくはありますが、でもいいのです。サークルがなくなるだけで、勉強をしている人がいなくなるわけではないので。本題は成島君の話でしたね」
「どこにいるのか聞きたくて」
「どこ……というのは私も分かりかねるのですが、彼が教職課程を取っていたのと、教員採用試験を受けるというのは知っています。もしかしたら日本の学校で教鞭をとっているかもしれませんし、日本の外で教鞭をとっているかもしれません」
「外?」
「彼はよく、南十字が見えるところに行きたいと言っていましたからねえ。南半球のどこかにいるのかもしれません。特にすばる望遠鏡があるハワイには一度行ってみたいと言っていました。彼が四年生の時に観測会で会った時はちょうど教員採用試験真っ只中でした。企業の就活はしていなかったようです。高校理科を受けたというところまでは聞きましたが、合否については分かりません。ああそうだ。もし落ちたら、一年くらい海外で遊ぶかも、みたいなことを冗談で言っていましたね」
そういうやり取りをこの部屋でしていたというのは想像ができた。観測会のあとの雑談。限られたヒントで分かったのは、教員採用試験を受けていたこと、相変わらず南十字星への憧れがあるということだった。
ハワイ、マウナケア山の山頂域には国立天文台ハワイ観測所が設置した口径八・二メートルの光学赤外線望遠鏡であるすばる望遠鏡がある。南十字星も見ることができるので、誠司が行きそうな場所ではあった。
誠司が考えていたことは分かったが、はっきりとした居場所については分からなかった。
もしかしたらわかるかも、という期待は一瞬にしてすぼんでしまった。
せっかく時間を割いてくれて、コーヒーまで淹れてくれた金子にがっかりした姿は見せたくない。マグカップに唇をつけて誤魔化す。
「彼に何か用事でもあるんですか?」
聞かれて当たり前の質問に、遥はすぐには答えられない。この気持ちには恋心が含まれているなんて、花澄はともかく、他の人には言えない。
「まあ、はい。そんな感じです」
「そうですか。すみません。なんか期待させてしまったみたいで。ああ、そうだ。もしかしたら、教育学部の進路支援課が何か知っているかもしれません。この学部棟の一階にあるんですが。知っていますか?」
聞くと、教員になりたい人向けに、学習ボランティアの情報提供、教員採用試験対策などをしている場所があるという。もしかしたら誠司もそこにお世話になっているかもしれないから、職員が合否のことを知っているかもという話だった。
コーヒーを飲み終えた遥は金子に頭を下げた。
「わざわざすみません。ごちそうさまでした」
「いいんですよ。観測会が懐かしかったので、話がしたかっただけです。もし成島君に会ったら、金子が元気にしているとお伝えください。ゼミ生ではありませんが、彼が星に対して熱心なのは強く記憶に残っています。あと、もし観測会を最後にするのであれば、声をかけてください。お手伝いしますから」
もう一度、遥は頭を下げた。
引退して、サークルが消滅する前に、最後の観測会を開くというのはいいかもしれない。ペルセウス座流星群はもう終わってしまったから、次はふたご座流星群だ。それで最後にしようと決めた。空気は冷たいが、空気は澄んでいるうえに、一等星も多い。冬の星空は一年のうちで一番賑やかだ。最後の観測にはちょうどいい。
翌日、遥は金子に教えてもらった通り、教育学部進路支援課に向かった。学部棟入ってすぐの右手にそれはあった。入口前に『進路支援課』と書かれた看板が立っていて、壁には募集中の学習ボランティアの張り紙が貼ってある。市内の小中学校からのボランティア要請がほとんどだった。
支援課に入る前に、遥はそのボランティアをざっと眺めた。ほとんどが授業中の支援で、ほんの一部に、秋の遠足などの学校行事の支援があった。教育学部生はこういうのに積極的に参加して試験対策をするんだろうなあとぼんやりと思う。
一通り眺めたあと、左端に少し古びた紙があることに気付く。端すぎて見えていなかった。
目が止まったのは、学校名にカタカナがあったからだ。『ハワイ日本人学校すばる学園』と書かれている。ハワイにある日本人学校の補習授業校だという説明文が添えてある。その学校がどういう学校なのかは全く分からないが、ハワイに住んでいる日本人に向けた学校であることだけはなんとなく想像ができる。
ハワイからの募集なんて一体どんなのが来るのだろうと興味本位で内容を見ると、あ、と声が出た。
ボランティアの内容はこう書かれてあった。
『ビーチで南半球の星空の観測会をします。日本では見られない星を見ることができます。ボランティアでは生徒と日本語での対話をしていただきます。星に詳しくなくても大丈夫です』
つまり、日本語で会話をするのがメインのボランティアだった。遥が驚いたのはそこではない。
さらにその下、担当者の名前に驚いた。
成島誠司の名前があったのだ。
誠司はハワイの日本人学校にいた。日本の学校ではなく、ハワイの学校にいたのだ。本当にハワイにいた。南十字星が見える場所に。
遥はすぐに支援課のドアを開いた。中には中年女性の職員がいた。
「あの、私、教育学部ではないんですけど、参加したいボランティアがあって」
場所が海外だから諦める、というのは、遥の中にはなかった。そこにいると分かれば、すぐにでも行きたい。
募集の日時が一年前のものだったから一応メールで日本人学校に連絡を取ってみるということだった。
お願いします、と遥は頭を下げて支援課から出る。
すぐに花澄に連絡を送った。ハワイに行くかもしれない、と。