南十字星を目指して

 翌年、三年生になると、いよいよ遥は一人となった。サークルの部屋はほぼ物置だ。使わなくなった望遠鏡はバッグの中に入れっぱなし。そのバッグには埃が積もっている。
 活動を終えた松山は一度も顔を見せに来ない。就活で忙しいのもあるし、サークルに思い入れがないのも分かる。遥もこのサークルを継続させたいと思うほど熱心ではなく、春に新入生を呼び込むこともしなかった。自分が四年生になった時に、この部屋の鍵は学生支援課に返却するつもりだった。
 今年度に入ってから、教職課程の講義が増え、フルコマの日も増えた。教育理論の講義は正直、面白くなかった。それは花澄も同じである。
「親にすすめられたから一応取ってみたけどさあ。眠いよね」
 食堂の机に突っ伏す花澄の腕の下には、次の講義で使うレジュメとノートがある。
「寝てたからなんもメモ取ってないわ。遥、ちょっと見せてよ」
「そんな大したメモしてないよ。持ち込み可だし、なんとかなるって」
「そっかなあ。まあ単位もらえればいっか。あーあ、早く試験全部終わらせて、ばーっと遊びたい」
「インターンは?」
「ほどほどにする。来年、教育実習あるのもやだー。四年になって実習とか嫌すぎる〜。海外に遊びに行きたい〜」
「行けばいいのに。そのためのバイトもしてるんでしょ」
「なんかねえ。勇気が出ないというか。今年の夏も結局予定入れなかった。いつかは行きたいんだけどさ。なんでだろうね。行きたいんだけど、じゃあ行こう、とはならないんだよね」
 突っ伏したまま動かなくなった花澄の気持ちはなんとなく分かる。
 行きたいけれど、行けない。
 大きな願望だけあって、それを行動に移すだけの気持ちが足りていない。願いだけがどんどん膨らんでいく。言うだけで、行動には移さないし、努力もしない。
 資金だけは集めている花澄のほうがましに思える。
 食堂を出る際、今年も七夕の笹と短冊が置かれているのを見た。去年と同じように二人は短冊を取り、ペンを握った。
 花澄の今年の願いは『海外に行きたい』だ。去年と変わらない。
 遥の願いも去年と同じ。中学生の頃からずっと同じ。会いたい人に、会いたい。
 お互いに変わらないね、と自虐気味に笑った。
 何も変わっていない。ただ、時間が過ぎただけ。
 もっと足を動かして誠司に繋がる道を探すべきなのに、いつしか遥の足は止まってしまっていた。
 前期の講義が終わり、夏休みはインターンで消えていく。聞いたことのある企業のインターンに参加してみたが、遥の心を踊らせるものはなかった。
 今年の観測会はさすがにもう一人では無理だと判断して、行わなかった。ペルセウス座流星群は自分の家の庭から見た。
 流れていく星に願ったって無駄なのだ。自分で叶えなければ。七夕の願い事だって、自分で努力できる範囲のものがいいと伝えられている。願いを叶えるのは、自分自身だ。自分はそれが分からないほど馬鹿ではない。
 後期の履修登録をしながら溜息をつく。二年生の時に共通科目と基礎分野の講義がだいたい終わり、専門分野の講義が増えている。それは楽しみなのだが、間に挟まる教職課程の講義にうんざりした。
 これまでの単位を捨てて、教職課程を諦めようかとも思ったのだが、それはそれで時間を無駄にした気がしてできなかった。
 教育学部棟の二階には理科実験室がある。初等理科の講義に参加するために、花澄と一緒に教育学部に来ていた。実験室は高校の理科室を思い出させるような、広い教室だった。
「先輩が言ってたんだけど、この講義の先生、めっちゃゆるいらしいよ」
 スマホを操作しながら花澄が呟く。
「ゆるいって何が」
「テストも簡単だし、持ち込み可。レポートは講義の振り返り。講義も観察とか実験とかがメインで、座学は少なめ。助かる〜。私マジで数学と理科できんから」
 遥は苦笑した。
 自分たちの周りには教育学部生たちが座っているものだと思っていたが、がらんとしていた。履修登録の時に人数を見てみたが、もっと多かったはずだ。
 チャイムが鳴り、花澄はスマホをカバンの中にしまう。数分後、やっと担当教員が教室に入ってきた。腕にはぐちゃぐちゃになった白衣がある。
「やれやれ、すみません。附属小に行っていたもので。三年生が教育実習中で。様子を見に行っていたんですよ」
 大きいタオルで顔を拭いている教員の手には黒縁のメガネがある。
「ちょっと遠いのはいけませんよねえ。学生たちも実習で通うのは大変でしょう。あそこ、星はよく見えるんですけどアクセスが悪すぎます。私は車があるのでいいんですが」
 溜息をつきながらメガネをかける。
 遥は、つい、大きな声を出しそうになった。
「じゃあ、レジュメを配ります。今日は三年生がいないので、簡単なガイダンスをして早めに終わろうと思います。あ、暑くて休みたいからじゃないですよ。三年生がいないから進められないだけです。みなさんも早く終わりたいですよね」
 隣で花澄が、んふふ、と笑いをこらえている。
 それどころではなかった。
 前から回ってきたレジュメの表紙には、教員の名前が書かれている。
「金子といいます。教育学部で理科、特に物理を担当しています。趣味は星の観察と撮影。昔は子供と一緒にキャンプに行って星をよく見ていたんですけどねえ、最近、断られちゃって。あはは。この中に附属中出身の方はいますか? 数年前まで、附属中で観測会をしていたんですけど」
 手を上げようとしてやめた。恥ずかしい。花澄もニヤニヤしているだけで反応はしなかった。
 金子の雑談に花澄が笑っているが、遥は笑えなかった。
 泣きそうだった。
 自分が教職課程を取る理由ができた。
 あのとき、観測会にいた先生が目の前にいる。黒縁メガネの、優しそうなおじさん先生。
 ここにいたんですか、先生。
 十分にも及ばないガイダンスのあと、遥は椅子を蹴り飛ばす勢いで立ち上がり、金子の元に向かう。
「あ、あの」
 声をかけると、金子はメガネを押し上げながら遥の顔を見る。
「教育学部では見かけない顔ですね。どちらの学生ですか? ガイダンスの内容に分からないところがありましたか」
「いえ、そうではなく。あの、私、理学部の木上遥といいます。附属中で観測会に参加したことがあって。ペルセウス座流星群と月食が重なる年の」
 一瞬だけ遠い目をした金子は、過去の中に何かを見つけたようで、ああ、と声を漏らした。
「そういえばそんな年もありましたね。覚えていますよ」
「あの。そこにいたサークルの人についてお聞きしたくて。知らなかったらいいんですが……、成島誠司さんって方なのですが」
「なるほど。でしたら、五限の後に研究室にお越しください。この階の西の端にあります。すみません、このあと別の講義がありまして。木上さんも忙しいでしょうから。夜間の講義はありますか?」
「ありません。わかりました。では五限の後、お伺いします」
 知らないで終わらなかった。知らないのなら研究室に行ってわざわざ話をするまでもない。ということは、あの先生は知っているのだ。やっと手がかりを見つけることができた。
 どきどきする胸を押さえながら頭を下げ、花澄のもとに戻る。
 遥の表情を見た花澄は、何かを察したのか親指を突き立てた。
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