1章  アルルと封印された魔法の巻物

 エステル先生が少し丸くなった。教えなければならないことを無理矢理教えようとしていたエステル先生だったけれど、国のなりたちを教えてもらってから、私の興味に合ったものから教えてくれるようになった。
 魔法のことも、ちょっとだけ。白銀の魔女、魔法使いのことを教えてもらった。それはお母様に関係することでもあった。
 白銀の魔女、魔法使いは、突如として生まれるそうだ。血筋は関係ないのだという。だから、白銀の髪をもつお母様やテオ先生の出身地はエステル先生には分からない。お父様は知っているのかもしれないけれど、聞いたことなかったし、教えてくれそうもない。お父様にはまだ、お母様の話をしてはいけない気がする。
 そういう人が必ずしも魔法を使えるとは限らないけれど、何らかの優れた能力があるから、必ず数人は城に来る。だからお母様とテオ先生はグランベル城に来て、お母様はお父様と結婚して、テオ先生は地下図書館の司書になっているのだ。
 白銀の魔女や魔法使いは、きまって、氷の魔法が得意だということも教えてもらった。それは、国の北方にそびえ立つミハラマ山脈に理由がある。ミハラマ山脈は氷と水晶で覆われた神秘的な山で、人は入ることすら困難だった。山脈はたまに人に祝福を与える。祝福を得た人が魔法使いとして生まれる。きっと、この国を拓いた、いにしえの白銀の魔女も、ミハラマ山脈の氷と水晶のようにきらきらしていたんだわ。お母様みたいに――。
「白銀の魔法使いもめっきり減ってしまいました。今現在、メリアナ様とテオしか白銀の魔法使いは存在しないと言われています。前まではもっとたくさんいたんですけどね」
「なんでそこまで減っちゃったの?」
「残念ながら、私どもでは解明できていないのです」
 それから、麓で山を守るドラゴンたちがまだ生き残っているかもしれない、という話を聞いて、私は驚いて椅子から立ち上がってしまった。
「ドラゴンなんているの!?」
「アルル様」
 たしなめられて、私はしずしずと椅子に座り直す。ドラゴン。その言葉を反芻した。絵本で何度も見たわ。熱い炎を撒き散らす、大きなトカゲ。トカゲに翼が生えているのだ。そんなのが実際にいると聞いただけでも興奮してしまう。
「彼らも数十年前から見かけなくなってしまったのです。絶滅してしまったのかもしれないし、今もまだどこかに息を潜めて生きているのかもしれないし。グランベル王国にはかつて、魔法生物もいたのですよ。大きなものから小さきものまで」
「やっぱり魔法がなくなったから、いなくなっちゃったのかしら。お父様が魔法を捨てたから、山脈は国を見限っちゃったのかしら」
「それは……」
 もしそうだとしたら、お父様の行いは魔法生物たちを苦しめていることになる。だからエステル先生はそうです、とは言わなかった。言えないのだろう。エステル先生はお父様の味方だから。お父様の悲しみを知っている人だったから。
「魔法の話はここまでにしておきましょう。くれぐれも、山脈に行きたいなどとおっしゃらないでくださいね。あそこは人が立ち入れない危険な場所です。錬金術をもってしても、山を越えるのは困難ですから」
「分かりました。エステル先生、ありがとう」
 私が素直にお礼を言うと、またエステル先生は頬を染めて、瞳を潤す。そんなに嬉しいことなのだろうか。私が興味があることしかまだ勉強していないのに。
 机の上に広げた歴史書をまとめて、先生は私の部屋から出ていった。マントを翻して颯爽と去っていくエステル先生は、ちょっとだけかっこいいって思った。目がきつくて、化粧の濃いおばさんって思っていたけれど、城にいる理由はちゃんとあった。エステル先生は、とっても物知りで、とっても賢くて……。逃げていてごめんなさいって、いつか言おうと思っているけれど、まだ言えていない。ありがとうって言うのが、精一杯だった。
 このあと、エステル先生はお父様と政治の話をする予定が入っているらしい。エステル先生とお父様と、それから大臣たちとみんなで会議をする。
 私はあくびをして、ふかふかのベッドに倒れた。ベッドからは大きな窓の外に広がる青空が見える。
 ここ、首都グランベルはほぼ国の中央の平野にあって、海も見たことがなければ、大きな山も見たことがなかった。私が見たことがある城の外は、城下町のマーケットと、マーケットのそばを流れる運河をゆったりと行き交う貿易船やゴンドラ。私は城の外をちっとも知らない。勉強で知ったとしても、本当の目で見たことがない。もうちょっと大きくなったら、お父様みたいに各地を視察することもするのだろうけど、それまではずっと城での生活。これからも城での生活。
 アルル、本当にこれでいいの。私は私に問いを投げかけていた。
 お母様を探しに行きたいんじゃないの。どうしてこんなところでじっとしているの。
 本当は、外に出たいんでしょ。
 私の心の奥にいる、もうひとりの私のような何かが、そう言ってくる。私の本当の気持ちに触れると、いつも胸が痛くなる。そうしたいけれど、そうできない自分が嫌になる。


 夜更け、私はなんだか眠れなくて窓際でちかちかと瞬く星を見ていた。錬金石よりも光の色は少ないけれど、煌々と輝く星の輝きは、錬金石よりも勝るものがあると思う。
 星たちは、この世界の全てを知っているんだろうな――いつも空からこの地を見ているから。そんなことを考えては、溜息をついてしまう。
 今日も私は地下に行く勇気を絞り出すことができなかった。ベッドから出て、地下に行こうか、どうしようかと部屋の中をうろうろして考えていたけれど、結局勇気がでなくて、窓際の椅子に座ってぼうっとしている。
 はあっと、また大きな溜息をつき、空を見上げた時だった。
「――えっ!?」
 目の前に、人がいた。真っ赤に燃える瞳が、じっと私を見ていた。すっとした切れ目。何もかも見透かされているような気がして、驚いて、椅子を蹴飛ばして後ろに後ずさる。
 あの、マーケットで私のショールを盗んだ青年が、窓の前にいる!
 窓の下に足場なんてないのに。いや、窓の枠に立っているのだ。マーケットの時も一瞬で屋根の上にいたし、彼は私よりもずっと軽やかに身体が使えるのかもしれない。
 ダンダンと窓を叩く。開けてくれ、と言っているのか、口をぱくぱくとしていた。従者たちを呼ばなきゃって思ったけれど、私の身体はそうはしなかった。なぜだろう。あの赤い瞳に、心を奪われてしまっていたのだろうか。
 窓を開けると、するりと部屋の中に入ってきて、モスグリーンのマントについた土埃を払った。ぴっちりと足に密着したカーキのパンツと、革の厚底ブーツにも、土埃がついている。壁をよじ登ってきたのかしら。
「ちょ、ちょっと。私の部屋を汚さないでくれる?」
「ん? あ、ああ。ごめん」
 素直に謝られた。泥棒のくせに。マントのフードを被ったまま、私に何かを差し出してきた。
「これ、もう不要になったから返す。城に忍び込むのに必要だっただけ」
 彼が盗んだ、私の大切なショールだった。破れたり、汚れたりはしていなかった。
 何に使ったのかと聞くと、城に入るために使ったのだと答えられた。
「泥棒のくせに?」
「泥棒だと思っているのはお前だろ。お前がそう思うのなら、勝手にそう思ってくれていていいよ。でも、門番はそんなこと知らないよ。王女様のお忘れ物ですって言えば、すぐ入らせてくれたよ」
 門番たちはもう少し、警戒心をもったほうがいいと思う。今のグランベル王国は平和そのものだから、疑うことを忘れてしまったのかもしれない。
「城に何しに来たの」
「魔法」
 城に入ってすぐ、こそこそと城の中を探索していたけれど、どこにも見つからないから困っていたと話した。それで、私の姿を見つけて、この部屋に入ってきたということか。
「魔法? だったら、全部、ないわよ」
 残念でした、とちょっと意地悪っぽく言うと、彼は目をきっと釣り上げた。
「は!? そんな、国の大切な魔法だろ!?」
「お父様が魔法に関するものは全部地下に捨てたの。魔神の眠る地下にね。私はその場所を知っているから、教えてあげることもできるし、連れて行ってあげることもできるけれど……、本当に行くの? 魔神がいるかもしれない場所よ」
「行く。そこに魔法があるんだろ。魔法を取りに来たんだ。ここで諦めて帰るわけにもいかない」
 案内しろよ、とぶっきらぼうに言われて、私は黙って彼を地下図書館に連れて行った。
 本当はダメなのに。ダメなのに、どうしてかしら、彼を地下に連れて行きたかった。
 彼と一緒に行けば、私もお母様の遺したものを見ることができるかもしれない。魔法を見ることができるかもしれない。階段を降りながら、どきどきしていた。レイラン石が私の気持ちに反応したかのように、ちりちりと輝いていた。
 テオ先生は奥の部屋にいるのか、図書館にはいなかった。猫たちもいない。
 図書館の中央まで彼を連れていき、扉を開ける。真っ黒の空間が広がっている。レイラン石の光も闇に飲み込まれそうなくらいだ。
「ここまでありがとな。あとは俺一人で行くよ」
「ま、待って! 私も行く」
「王女様はもう寝る時間だろ」
「でもっ、お母様の大切なものがあるわけだし。というか、お母様のものを盗むのは許さないわよ」
 ワンピースのパジャマで来てよかった。私は地下に続く階段に足をかけた。
「私も――魔法がなくなるのは嫌。私が行きたいから行くの。あなたは私のお供でいなさい。一緒にきてくれたら……盗むのは許さないけど、一緒に見ることくらいは許すわ」
「なんだそれ……、まあ、いっか。はいはい、王女様。分かりました」
 肩をすくめ、呆れた顔をして、それから私について階段を降りはじめた。
 マルクという名前らしい。泥棒のようなことをしているから、これは本名じゃないかもしれないけれど。
「魔法を探して、どうするつもりなの」
「言えない」
「なんで?」
「それも教えない。お前、馬鹿っぽいし」
「ば、馬鹿じゃないわ! それに、お前じゃない、アルル。アルル・ツェト・グランベルよ!」
 名前を言うと、はいはい王女様、とまた面倒くさそうに返事をされた。ほんとうに憎たらしい人だ。泥棒ってみんなこんな感じなのだろうか。
「……私もね、魔法が必要なの」
「なんで。王女様には城も、国も、金も、錬金術もあるじゃないか」
「お母様がいなくなって、寂しかったの。お父様も、国民のみんなも、悲しんだ。お母様の魔法は、きっと、私も、みんなも、癒やしてくれると思っているの。グランベル王国から魔法はなくなっちゃいけないと思ってて……」
 見知らぬ人に話す内容じゃないけれど、私は、階段を降りながらゆっくり喋った。じわりと涙が浮かんで、はっとして、手の甲で拭った。
「だから魔法が必要なの。グランベル王国をここまで豊かにしてくれたのは、錬金術と魔法だから」
「ふうん。王女様も大変なんだな」
 アルルって呼んでくれないのは寂しかったけれど、私の話を馬鹿にはしなかった。なんだ、ちょっとはいい人なのかもしれない。いや、ダメよ、アルル。もしかしたら、こいつは最後に裏切って魔法を盗むかもしれない。用心しておこう。
 長い長い階段を降りていった。気が遠くなりそうだった。暗いし、どのくらい地下深くまで降りてきたか分からなかったけれど、下に下に行けば行くほど、空気が冷たくなる。
 眼下に青白く光る空間が広がっていることに気がつく。地下なのに、光がある。ほっとするのと同時に、怖くなってしまった。その青は、氷のように冷たい青だったから。
 そこは、青い水晶に囲まれた地下空間だった。床から地上に向かって突き出す水晶の柱が何本もそびえ立っている。先が鋭く尖っていて、まるで、魔神が地下から地上を攻撃しようとしているように見えた。
「こんなふうになってたなんて」
 私が息を飲んで立ち尽くしていると、マルクがすっと私の前に出た。
「置いていくぞ」
「あっ、ちょっと、ダメよ、待って」
 急いでマルクを追いかける。氷の柱の森を、私たちは黙って歩いた。水晶でできた地下空間はとても広かった。
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