1章  アルルと封印された魔法の巻物

 翌日のお昼前。自分の部屋でうとうととしていたら、エステル先生がものすごい勢いでやってきた。
 昨日、エステル先生は「準備をしますので、明日にしましょう」と言ってくれて、私はその日の勉強は休むことができたのだけれど。その手にある大量の本を見ただけで、お腹いっぱいになってしまった。
 まあでも。せっかく気になることなのだから、ここで聞いておくのもいいかもしれない。興味があるものなら頑張れる気がする。
「アルル様、しゃんとしてください。さあ、椅子に座って」
 エステル先生に言われるまま、学習机に行く。
 先生は壁に地図をかけた。テオ先生が見せてくれたのと同じものだった。三日月状の大きな大陸が海に浮かんでいる。新月に向かう三日月の形だと先生は例えた。その三日月に囲まれた海の少し上あたりを指差した。
「国を語るには、まず国土の話からしなければいけません。我がグランベル王国は、アステリア大陸のほぼ中央に位置します。これはご存知ですよね」
「知ってる。で、左右は仲良しの国でしょ」
「左右ではなく、東西です、アルル様」
 エステル先生に修正されて、ムッとしてしまった。
「北は山脈、南は海よ」
 どうよ。このくらいは知っているわ。地図をよく見れば分かるもの。
 でも、エステル先生は、満足してくれなかった。
「ミハラマ山脈と、ハルゲナ海でございますよ。まあ、いいでしょう」
 東西は仲の良い国、北は簡単には越えられない深い雪の積もった大きな山脈、南は三日月に囲まれた海。敵の侵入を許さない場所にあり、グランベル王国は平和な時代を歩んでいる。
 その平和な時代は、戦いの時代があったからこそ生まれたもの。ここから先はテオ先生が教えてくれたことといっしょだった。エステル先生も詳しく魔神の話をしてくれた。この地で荒れ狂っていた水晶と氷の魔人は、ミハラマ山脈で生まれたらしい。
「その魔神って、今はどうなってるの?」
「地下深くで眠っていると言われていますが、実際のところは分かりません。でも大丈夫です。目覚めたとしても、地下深くなので、地上には出られないでしょう。この城が封印石の役目を果たしておりますから」
 先生は地図を丸め、私の向かいに座った。
 大人の男の人と、女の人の肖像画を見せてくれた。なんとなくお父様とお母様に似ている気がする。これが黄金の錬金術師と、白銀の魔女。凛々しい顔、たくましい体をもった錬金術師と、知的なまなざしをもつ魔女だった。
「これが初代王と王妃です。グランベル王家のはじまりです。お二人は、魔神を封印したのち、お互いの力を使ってグランベル王国を栄えさせました。それまで全く関係のない錬金術と魔法が融合し、新たな技術が生み出されたのです。それはガリア様の時代まで続きました。ですが――」
 先生は、つらそうな顔をして、口を閉じてしまった。
 テオ先生が言った通り、お母様がいなくなったのは、みんなにとって悲しいことなのだ。悲しいのは私だけじゃない……。
「メリアナ様の行方が分からなくなり、ガリア様は、魔法が原因ではないかとお考えになられました。ガリア様は、魔法で誰も傷つくことがないよう、魔法に頼らない国にされようとしています。新たなグランベル王国の時代が訪れようとしています。この次はアルル様です。よくお考えになられておいてください」
 先生はちょっと涙ぐんでいた。思い出して、つらくなってしまったのだろう。お父様の悲しみを、実際に見ていたから余計に。お父様は私には悲しんだ様子なんて見せなかったのに。
 地下に魔法に関する書物を投げ込んだお父様。お母様がいなくなって悲しむお父様。
 ちょっと反省してしまった……。
 でも。でも、お父様。
「でもね、エステル先生。私、魔法、必要だと思うの」
 ドレスを握り、私はうつむく。
「魔神を封印できたのは魔法があってよ。ここまで大きくなれたのも、魔法と錬金術が協力したからよ。それをなかったことにするのはおかしいと思うの。お母様のことは残念だけど……、私、諦めてないの。お母様のこと」
 どうしたらいいか分からないけれど。でも、まだお母様がどこかにいるって信じたい。
 だからこそ、魔法が必要なの。
 私がわくわくしたいからとか、そういう幼い理由じゃなくなってきた。この国のためにも、必要なんだって思えた。このお話が聞けてよかった。
「考えるわ、私。ありがとう、エステル先生」
「あ、アルル様……とんでもない……!」
 感激したのか、ぶわっと大粒の涙を流し始めたエステル先生に、私は困ってしまった。
 

 その晩、お父様のお部屋に行った。忙しいお父様の邪魔をするのは駄目なのは分かっている。でも、お父様に会いたくなって、それから肖像画のお母様にも会いたくなったから。
 ドアをノックすると、お父様の低い声が聞こえたわ。
「アルル。まだ寝ていなかったのか」
 ベッドに寝そべって本を読んでいたお父様のお膝の上に乗る。恥ずかしいけどそうしたかった。
 まだお父様に甘えられる素直なアルルが残っていて良かった。
「エステル先生に、国のはじまりのこと教えてもらったわ」
「そうか。それは良かった」
 お父様は本に栞を挟んで、私の頭を撫でてくれた。お父様もまだ私を子供扱いする。でも、今は嫌ではない。
「お母様のことも……お父様のことも……、教えてもらったの」
「そうか。どこまで」
「お父様がとても悲しんだことも、地下に魔法の本を投げ込んだことも。ごめんなさい、お父様。お父様も悲しかったんだって、私、思ったわ。お父様の方が、私よりずっと悲しかったんだって。ひどいこと言ってごめんなさい」
「それは比べるものではないよ、アルル。だが、謝りにきてくれてありがとう」
 お父様は起き上がって私を抱きしめてくれた。ちょっとだけ、薬品と金属のような香りがする。これは錬金術の香りだわ。お父様は、偉大な錬金術師だ。いにしえの黄金の錬金術師の血を継ぎ、王家の知識も受け継いでいる研究者だった。今日も、何か研究をしていたのだろう。枕元にある本も、錬金術の本だった。
「私も分からなかったのだ。メリアナがなぜいなくなったのか。今も分かっていない。考えられる理由が魔法しかなかった。あの時の私は、半ば、自暴自棄になっていた。魔法があるからだ。魔法があったから、メリアナはいなくなったのだ。今も、あの時の魔法に対する怒りは残っている。私はあれから、魔法が怖くなってしまった。すまないアルル。アルルにとって、母を感じられるのは魔法しかないのに」
 私は、お父様の薬品で荒れた手を握った。錬金術だけで一生懸命に国を支えようとしているのが分かる手だった。
 でも、お父様の手がこれ以上荒れてしまうのも、心が痛む。
 お父様の気持ちは分かった。でも、魔法をなくしたからといって、お父様の心の傷は癒やされるわけじゃない。
 今のお父様を慰められるのも魔法のはず。お母様が使っていた、あの優しい魔法。
 優しくて、あたたかい魔法を、お父様に思い出してほしい……。お父様も、きっと、愛していたはずなのに。
 やっぱり、諦められない。
 このことは、今はお父様には内緒にしておこう。お父様をこれ以上、心配させたくないから。エステル先生にも、お父様には内緒にしておいてってお願いしてる。
 お父様におやすみなさいと言って、ベッドから出る。お母様の肖像画の前に立って、お祈りしたわ。
 優しく微笑むお母様。きっと、まだ、世界のどこかにいるって信じたい。信じる。
 それから、お父様のお部屋から出て、王室図書館に行った。テオ先生はもう眠っているのか、カウンターにはいなかった。猫たちも、テオ先生のところにいるのだろう。図書館はしんとしていた。
 お父様とお母様が、ここで資料を探しているところを想像してみる。お父様とお母様はとても仲良しだったから、二人で同じ本を読んでいたのだろう。
 それを想像したあとに図書館の中央に行くと、悲しみに暮れるお父様の背中が見えた気がした。
 両手にたくさんの本や巻物を持って、この扉の下に投げるお父様。きっと泣いていた。深い悲しみに暮れて、でも国の王様だから、毅然としていなければならなくて、お母様をわざと忘れようとして――愛する魔法と思い出を、この下に捨てたのだ。
 扉を開けると、ギッと軋む音が響く。闇が広がっていて、私はやっぱり怖くなった。
 ほんの少しの勇気さえあれば、この下にあるかもしれない魔法を取りに行けるのに。私は、自分が思っている以上に、臆病なのかもしれない。
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