5章 アルルと白銀の祝福

 トットと人間の姿に戻ったマルクはお母様と一緒にあたたかい飛行船に戻った。
 私もすぐに行こうと思ったけれど、その前に、もう一度、黒竜の顔が見たかった。ミストラザイードが私に付き添ってくれている。
「悪気があるわけじゃないのね」
「そうだ。本能のままに生きている、子供のような哀れなドラゴンだ。眠っている間は可愛いのだがな」
 穏やかな顔をしていた。
 死んでも、白銀の残滓が残ってしまう。だから殺すことも難しい。眠りが今の彼にとっての救い。
 この封印が最後の封印になってくれればいいな、なんて思うけれど、そう簡単に彼を救う方法は見つからないだろう。でも、マルクが言っていた通り、諦めてはいけない問題なんだろうなと思う。放置していい問題でもない。
 私は氷にそっと手を差し出した。
「いい夢を見ていることを願うわ」
 ミストラザイードも一緒に頭を垂れる。
「いつも、白銀の魔女は、封印のあとにそうやって祈りを捧げてくれていた。白銀の祝福を得ずして封印にきてくれたこと、感謝する」
「私はお母様を助けたかっただけ。魔法も諦められなかったの。こんなことになるとは思っていなかったけれど……」
 ペンダントはもう反応してくれなかった。
 やっぱり、私は自由に魔法を使うことはできないみたい。
 でも、それでも良かった。
「じゃあ、行くね。もしかしたら、また来るかも」
「ああ。今度はメリアナと来たら良い。そなたが女王になった暁には祝ってやろう」
「城下町の人たち、驚きそうだけど」
 ミストラザイードはふっと笑って、飛び立った。これからまた、どこかに潜んでいる魔物を倒しに行くのだろう。
 飛行船に戻って、眠っているお母様の手を握った。
 血が通っていて、あたたかかった。生きている。お母様がいる。それだけで感極まって、また泣きそうになったけれど、お母様に涙は見せたくなかったから、ぐっとこらえた。
 メンテナンスを終えたトットが、さむ、と呟きながら船内に戻ってくる。浮袋やエンジンに特に問題はなかったようだった。
「じゃ、飛びます――王都に向かったらいいですか?」
「うん。お願い」
「了解です」
 穏やかな空の下、飛行船はふわりと浮かび上がり、南に向かって進んでいく。
 マルクは窓際に座って、お母様の様子をちらちらと見ていた。そんなに心配なら、手でも握ってあげればいいのにと思ったけれど、それは言わなかった。
 二日経ったあと、お母様はようやく目を覚ました。
 お母様の中で、私はずっと幼いままだった。だから、すぐに私のことは分かってくれなかった。
 お母様は自分が助かったことすらすぐに理解できなくて、しばらくぼうっとしていた。トットの持っていた残りの錬金石は、お母様の失われた魔力の補給のために使われた。
 それがあってようやくお母様は言葉を取り戻し、状況を理解することができた。
 休憩のために一度、小さな村のそばに降りて、お母様と一緒に散歩をした。トットは留守番だったけれど、マルクも一緒になって後ろを歩いていた。山脈の冷たさを忘れてしまうほどの陽気に包まれた、春のグランベル王国の空気を胸いっぱいに吸う。
「ここは、私とテオの故郷なの。私の両親も、テオの両親も、もう他界しているけれど」
「そうだったの……」
 お母様はにこりとして街の人々に挨拶をしてまわった。
 お母様が無事だったことに涙する人々が多く、まるで神様が降臨したかのような顔をして拝んでいた人もいた。
 人の輪から離れて、なだらかな丘を歩く。気持ちいい風が吹いていた。
「アルテラザイード」
 銀の髪をなびかせながら、お母様はマルクを真名で呼んだ。
「はい」
 お母様のまえに跪いたマルクは、深々と頭を下げる。
「もう私のことは気にしないで。実を言うと、助かるってことだけは分かっていたの」
「は、い……え?」
 きょとんとする私とマルクに、お母様は笑った。
「白銀の魔法使いは、私以外にもう一人、いるじゃないの。自分の力は何の役にも立たないとか言って、地下に引きこもっているけれど」
 青空を見上げたお母様は、それ以上何も言わなかった。
 マルクは始終困った顔をしていたけれど、私は、あ、と思った。
「助かるというのだけは分かっていたけれど、誰が助けてくれるかは分からなかった。アルテラザイードがアルルと一緒になって山脈に戻ってくるとは思っていなかったわ。ありがとう、二人とも。なんとなく、覚えているの。アルルやアルテラザイードやトットと一緒に冒険していた時のこと。フリューゲルだったときのこと。アルルが私のことをずっと思っていてくれたことも」
 くるくる飛び回っていた無邪気なフリューゲルがいなくなって寂しかったけれど、お母様の中に、ちゃんと記憶として残ってくれているのが嬉しかった。
 お母様は私とマルクを同時に抱きしめた。
 私も、マルクも、まるで子供みたいに、お母様にしがみついた。たくさんの気持ちで溢れて、言葉にならなかったから。


 まず城から真っ先に出てきたのはお父様だった。飛行船が中庭に着陸する前から、お父様が待ってくれていた。
 その後ろにテオ先生とエステル先生がいた。テオ先生はずっとにこにこしている――いいえ、にこにこしているのではなくて、久しぶりに地下から出てきて、外の光が眩しいだけなのかもしれない。
 お母様が船から降りた瞬間、お父様は駆け寄ってお母様のことを力いっぱい抱きしめた。
 テオ先生もエステル先生も、肩をすくめている。
「全部、僕から説明しておいたんですよ」
 テオ先生はけろっとした顔でそう言った。黒猫を抱きしめていた。
「お前か、もう一人の魔法使い」
「あ、挨拶が遅れました。テオです。山脈の祝福を中途半端にいただいてしまった、中途半端な魔法使いの占い師の司書をやってます。白銀の戦士、アルテラザイード様ですよね。せっかくなので、ドラゴンの姿になってくれませんか。ここには国の一番の学者であるエステルがいます。その姿を見せてあげてください」
 マルクは渋々うなずいて、真っ赤な体を晒した。後ろでエステル先生が仰天して、ふらりとしている。さらに船から降りてきたトットを見て、顔を青ざめさせていた。
 いなくなったと思っていた魔法の存在が目の前に現れて、驚きと興奮で立っていられなくなっているみたいだった。それがおかしくて、くすりと笑ったあと、テオ先生に尋ねた。
「テオ先生の占いって、占いじゃないでしょ。全部、知ってたのね?」
「やだなあ、アルル様。全部じゃないですよ。起こったことは全て分かりますが、未来のことは、当たったり外れたりするんですよ。それって、占いも一緒でしょ? というか占いと変わらないでしょ?」
 マルクは鼻で笑った。
「魔法が使えないのは、予知に全力注いでいるせいなんじゃないか?」
「あはは。そうかもしれませんね。でも、僕も、諦めきれなかったんですよ。幼い時から一緒に育ってきた人が死ぬなんて、受け入れられなかったんです。そろそろ図書館に戻ります。また地下に来てくださいね。焼き菓子を準備して待っていますから」
 テオ先生はローブを翻し、城に戻っていった。彼の美味しい焼き菓子とお茶を想像すると、急にお腹が空いてきた。
 マルクは溜息をついて人の姿に戻り、卒倒しそうだったエステル先生を支えてあげていた。
「アルルたちも城に入りなさい。それから、ええと……、ドラゴン殿とドワーフ殿も」
 お父様がそう声をかける。マルクとトットはすぐに帰るつもりだったのか、声をかけられて一瞬動きを止めた。
「ガリア様はあなた方にお礼がしたいのです。お部屋も用意していますから」
 マルクの腕に支えられ、なんとか意識を保っているエステル先生がそのように言うので、私たちも城に戻る。
 久しぶりの我が家。帰ってきたんだなって実感する。
 私は帰ってきた。お母様と一緒に。これで、旅は終わった。
 自分の部屋に戻って、ベッドに倒れ込む。ふかふかの、お城のベッド。しばらく離れていただけで、私のベッドはどこかよそよそしかった。
 ごろりと寝返りをうち、息を深く吸って、吐いた。
 目をとじて、これまでの冒険を思い出す。なんだか夢のような旅だった。

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