5章 アルルと白銀の祝福

 飛行船がふわりと浮かんだ。ゴーグルをかけているトットが操縦席から親指を立てて合図してくる。そろそろ行こうの合図だった。
「天気がいいうちに行ってしまったほうがいいな」
 ドラゴンの姿になったマルクは、私に背を向けて、乗りやすいように伏せてくれた。
 その背にまたがり、首にしがみつく。フリューゲルは私の髪の毛を握った。
 翼がはためき、私たちは空に舞い上がった。
 冷たい風に、私はぎゅっと目をとじた。痛いほどだった。ゆっくりと瞼を持ち上げると、グランベル王国を眺めることができた。
 雪に覆われた山脈とは違って、緑の広がる、美しい国。蛇行する川。丘にある街。遠くにはハルゲナ海も見える。この景色はきっと、お母様も見た景色。
 お母様もこうやってマルクの背中に乗って黒竜の元に向かったんだわ――、私は今、お母様と同じことをしているんだ。
 死にたくないと思いながら黒竜の元に向かったお母様を思うと、胸がつきんとする。
 私もこれまでの旅で何度も走馬灯を見た。お城のみんなの顔を思い出しながら、死を覚悟した。けれど、お母様と比べたら私の覚悟なんて、まだまだ甘いものだったのだろう。
 国の大勢の人々の命、平和をかけて、マルクと飛ぶお母様は、今までの歴史の中でもっとも気高い白銀の魔女だと私は思いたい。この国のはじまりをつくった、いにしえの白銀の魔女と肩を並べてもいいくらいの魔女だと誇りたい。
 まだ失いたくない。まだお母様に甘えていたかったし、お父様も、国のみんなも、マルクも、お母様を必要としている。
 マルクの翼は力強く羽ばたき、ぐんぐんと上昇していく。飛行船もマルクのスピードに負けじと一緒に付き添うように飛んでいた。トットの舵を握る手が見えた。マルクもたまにぐらっとするほど気流が乱れていて、トットも操縦に必死だった。けれどドワーフの意地というのもあるみたいで、険しい顔をしながらも必死についてくる。
「漏れ出す魔物の量が増えている。振り落とされるなよ」
 遠くにミストラザイードの姿が見えた。空中戦を繰り広げている。醜い姿をした黒い魔物たちが地上から飛び立ち、襲いかかっていた。そんな魔物に向かってミストラザイードは炎を吐いている。爪で切り裂き、足で蹴飛ばして地面に叩きつけている。
 襲われているのはミストラザイードだけではない。私たちにも同じように魔物たちが襲いかかってくる。大から小まで様々な形をした魔物たちだ。
 魔物たちはマルクと飛行船を狙っていた。ちょっとは賢いのか、飛行船の浮袋を狙っていた。マルクは飛行船の上に向かって飛び、翼や尻尾、足、炎を使って飛行船に触れさせないようにする。
 私はしがみつくのに必死だった。
 巻物の魔法を使おうとすればマルクが「やめろ」と止める。
「なんで!」
「一番大事なときにフリューゲルが力を出せなかったら困る。絶対に使うな!」
 飛行船が襲われているのを見たのか、ミストラザイードがこちらに飛んでくる。
「再封印の気配を感じたのだろうな、本当に卑しい奴だ。同じ魔法から生まれた者だが、反吐が出る」
 言い捨てながら魔物を爪で切り裂くミストラザイードの体に、わずかに血がにじみ出ていた。長きにわたる戦いでうろこが剥がれ落ち、むき出しになった皮膚を狙われたのだ。それでもなんでもないように飛び、戦っている姿は、歴戦の猛者のようだった。
 マルクも負けじといくつもの魔物を落としていく。魔物は数を減らさなかった。
「封印がここまで弱っているとは……」
 マルクが焦ったように呟く。
「それだけじゃない。我々が近づいていることを感じて、内から封印を完全に破ろうとしている。今までもずっとそうだった。白銀の魔法の使い手は、死ぬ前提でここを登った。我々も決死の思いで戦った。何百年と続く儀式で、この風の道はいつも血のにおいがする」
 首に襲いかかってきた魔物に牙を突き立てたミストラザイードは、口から垂れる魔物の血をべっと吐き捨てた。
 私達が飛んできた下には、魔物の死体が黒い道を作っていた。
 雪の下には、これまで幾度となく倒されてきた魔物の死体が埋まっているのだろう。何度も何度も繰り返されてきた儀式。その歴史の上を私たちは飛んでいた。
「完全に倒すことはできないの?」
 ミストラザイードは首を横に振る。
「無理だ。何度か試した魔女とドラゴンがいたが、奴の魔力の量は尋常じゃない。山脈が生んだ悪の奇跡とも言える。討伐を試みた魔女とドラゴンも結局、いつもと同じ封印という手段を使って引き返したのだ。娘、間違っても、ドラゴンを倒すとか思うなよ。封印だけでも手を焼く相手だ。封印の際に力のすべてを使って息絶えたドラゴンも数多い」
「この量からして、もうメリアナ様の封印はギリギリといったところだ。メリアナ様の氷にももうかなり深いヒビが入っているかもしれない。急ごう」
 ドラゴンに守られた飛行船は、じわじわと高度を上げ、山頂に近づいていく。
 襲ってくる魔物が途絶えたところで、休憩のために一度地上に降りる。なだらかな場所を見つけ、飛行船も着陸させた。
 トットが船から出てきて、錬金石をドラゴンに渡していた。
 ミストラザイードはまずそうな顔をしながら石を噛み砕いている。
「なんだこれは。まずすぎる」
「ドワーフ産、魔力の補助食です。人間にとってはただの高価な錬金術の素材なんですけど、ドラゴンには非常食になります。他にも使い道はありますが……説明は省きます。まずいのは錬金の力を使っているからですね。金属の味がすると思います。まあ、僕らは食べたことないんで分かりませんけど」
 ゴーグルを外し、トットは改めて山を一望する。
「雪、だいぶ減ってますね。山肌がむき出しになってるところが多すぎませんか。もっと深い雪に覆われていると聞いていたのに」
「数年前からだよ。急激に弱まった。雪は降るには降るんだが、すぐ溶けてしまう。力が持続しないのだ。ドワーフはいつもの周期的な波だと考えているのか。これを見てどう思う」
「今まではずっと波が弱まっているだけだと思っていましたけど……、ここまでの減り方は知りませんね。もしかして」
 ミストラザイードは小さく頷く。マルクも黙って耳を傾けていた。
「奴が目覚めのために力を集めているのかもしれない」
「だったら」
 私は思わず口を挟んだ。
「だったら、黒竜の封印ができたら、また白銀の祝福は得られるようになる?」
「減少の波の中にはいますから、かつてのように祝福を多く得られることはないでしょうが……、魔法使いやドラゴンが絶滅することはなくなるかもしれませんね。山脈の気まぐれに委ねることになりますが」
「でもいいわ。ゼロになるよりはずっといい」
 魔法がなくなるのは寂しすぎるもの。
 ペンダントを握るのは癖になっていた。
「もう一度、魔法と錬金術で溢れていた国が見たいの」
 ミストラザイードは私をまじまじと見て、ふっと笑った。
「グランベル王家の者が言いそうな言葉だ。王はどうしている。そういえば一度、王が麓に見えたことがあったな。ガリアといったか」
「お母様がいなくなって、悲しみに暮れて、魔法を忘れようとしているの。だから絶対に……お母様を助けたい」
「ならば、もう行こう。アルテラザイードも行けるな」
「はい。いつでも」
 山頂はもう目の前だった。ドラゴンの翼では一瞬だった。
 魔物の波は落ち着きを見せていたけれど、ミストラザイードはこの落ち着きは何かに備えたものだと話していた。マルクもずっと警戒をしている。
 山頂のくぼみにあったのは、きらきらと輝く巨大な氷だった。
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