4章 アルルと白銀の戦士

 黒いうろこに覆われた竜は、私たちに向かって牙を向けていた。口からはどろりとよだれがしたり落ちている。腹を空かせた獰猛な獣みたいだった。
 体の大きさはマルクとそう変わらない。
 黒い竜は腐った卵のような異臭を放っていた。ジクラスの塔で見た魔物もそうだったけれど、体の一部がどろどろとしていた。翼からもぼたぼたと液体が落ちている。
 マルクは私とフリューゲルを翼で守ろうとするものの、霊泉からは出なかった。まだ出ることができるほど回復はしていないのだ。
 封印された黒竜そのものではなく、手下のうちの一体らしい。
「今の俺を食っても何の足しにもならないぞ」
 マルクが威嚇すると、竜はにやりと笑った。
「お前じゃない。そっちの小さいのに用がある」
 地を震わせるような低い声が響く。指さしたのはフリューゲルだった。
「フリューゲル?」
 私の胸元で縮こまっているフリューゲルを見たマルクは、私と一緒に翼で抱き寄せる。
「こいつも特に何の足しにもならんぞ。錬金術も混じってる。食ったところで腹を壊すかもしれない」
 魔物は三日月のような目をより一層細めて、にんまりと笑った。
「そいつ本人には力はないだろうが、山脈の力を引き出す媒体にはちょうどいいのだ。その霊泉よりも遥かに強力な力を山脈から引き出すことができる。目覚めたばかりの”あの方”にちょうどいい」
 マルクの喉がひくっと動いた。
 フリューゲルが魔法のような力を使っていたところは何度か見たけれど、あれらは本人の力ではなく、自分の体を媒体にして使っていた力だったのだ。
 ドワーフたちは「錬金術と魔法の副産物」と言っていたけれど、まだフリューゲルの力を完全に把握していなかった。
「一体いつから知っていた」
「ドワーフの谷に忍び込んだ時から」
 マルクは舌打ちをする。
 フリューゲルが手下に奪われて、飛行船で追いかけた時の話だ。
「あれは俺を狙っていたんじゃ……」
「たまたまお前がその場にいただけだ。不自然な白銀の力の筋を辿っていくと、そいつにたどり着いたのだ。そいつは持続的に山脈から力を得ている。どれだけ願っても山脈は気まぐれでしか祝福を授けないのに、そいつは、絶え間なく力を得ているのだ」
 魔物たちは魔物たち同士で情報を共有していた。
 オレゴの谷でフリューゲルを奪うことには失敗していたけれど、マルクが魔物討伐のために動いていることは分かっていた。ジクラスで力を蓄えた目玉の魔物はフリューゲルがいることを確認し、静かに仲間に連絡していたのだ。
「お前がいにしえの魔法を持って”あの方”の再封印をするためにここに戻ってくることも分かっていた。いにしえの魔女の遺した魔法さえなくなれば、”あの方”を封印する力もしばらくはなくなる。待っていたよ」
 一歩ずつ魔物が近づいてくる。
「……アルル」
 私にだけ聞こえる声でマルクは話しかけてくる。
「フリューゲルと一緒に逃げろ。俺がいなくても、トットの飛行船がある。飛行船で、メリアナ様のところに行け」
 翼を広げ、魔物から私たちを隠す。
「嫌よ」
「頼む。行ってくれ。魔法をメリアナ様のところに持って行ってくれ」
 爪で背中を押される。
 私は足を踏ん張って、首を横に振った。
「嫌よ! そんなの嫌だから!」
 これはわがままじゃない。
 お城で、勉強がイヤって駄々をこねてたのとはわけが違う。
 私はフリューゲルと一緒に翼の前に躍り出た。
 ペンダントを胸元から出し、フリューゲルに願った。
 もしフリューゲルが山脈の力の媒体になっているのなら――テオ先生が言っていた「真の力」を今ここで使えるかもしれない。
 ジクラスで白銀の残滓の彼に黄金の紐を解いてもらったのもそうだ。この巻物は白銀の力に触れた時に反応するのだ。
 フリューゲルは巻物に手を伸ばす。
 魔物が黒い炎を吐いたのと同時に、巻物が大きく光った。
 それまでペンダントの飾りほどの大きさしかなかった巻物が空に浮き、一気に広がった。
 何も書かれていない巻物の表面に、私では読めない銀色の文字が浮かび上がる。
 私たちの前に、大きな雪の結晶が広がり、黒い炎から守ってくれた。
「フリューゲル……!」
 フリューゲルの銀の髪が伸び、体が大きくなって、巻物を手にした。
 大人の女性ほどの背丈になったフリューゲルは、地に足をつき、微動だにしなかった。その姿は、まるでお母様だった。
 結晶を噛み砕こうと魔物が牙を立てるけれど、ヒビすら入らない。
「アルル」
 マルクが私の耳元で囁いた。
「俺の本当の名を教えるから、呼んでくれないか」
 霊泉から前足を出し、マルクは翼を羽ばたかせた。水滴が私の頬を濡らす。
「それから、これから見ることに、あまり驚かないでほしい。あと……俺を嫌わないでほしい」
 本当の名を告げるのが照れくさかったのか、そんなことを言う。
「大丈夫よ、嫌いになることはないと思うわ――アルテラザイード!」
 フリューゲルの持つ巻物の文字が消えて、新しいものが浮かび上がる。すると、マルクの体が燃えるように光った。
 巻物は今度はマルクに力を与えようとしていた。フリューゲルは片手で巻物を支え、もう片方の手の平をマルクに向ける。
 マルクはざっと霊泉から飛び出し、魔物の上に飛び乗った。
 鋭い爪が魔物の皮膚に食い込み、そこからどろりとした血が溢れる。
 マルクの牙が魔物の首に食い込み、魔物は苦しそうに呻き、翼をはためかせ、マルクの体を引き裂こうとした。
 そこにもう一体のドラゴンが現れる。
 ミストラザイードだ。
 魔物の腕をへし折り、マルクと共にその体を地面に叩きつける。
 地面に倒れた魔物はそれでも負けじとジタバタと動き、尻尾で地面を叩きつけていたけれど、ミストラザイードとアルテラザイードの前では力にならなかった。
 翼も折られ、首にも背中にも牙と爪を立てられる。
 血を全て流したあと、魔物は動かなくなった。
 巻物は光を失い元の大きさに戻り、フリューゲルも元の小さな体になる。落ちていくその体と巻物を私は手の平で受け止めた。
 フリューゲルは気絶するように眠っていたけれど、苦しそうな顔はしていなかった。大きな力を流して疲れてしまっているだけのようで、ほっとする。
 巻物から力を得ていたマルクも、その場に倒れる。
「マルク!」
 彼の元に駆け寄り、首を撫でた。
 ミストラザイードは口に残ったへどろをべっと地面に吐き捨て、倒れたマルクを見下ろしていた。
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