2章 アルルと錬金と魔法の大きな船
日が暮れ、私は窓際に座って外を見ていた。
トットは飛行船の操縦を自動運転に切り替えて、エンジン室で眠っている。マルクは部屋の隅で薄い毛布を体に巻いて横になっていた。私はなんだか眠れなくて、こうやって椅子に座ってぼんやりとしている。
空一面に星が広がっている。それを見ていると、星空に吸い込まれそうな気がする。
膝の上にはフリューゲルがいる。体を丸めてすやすやと眠っていた。私のために魔法を使ってくれた時からフリューゲルはずっと眠っていた。マルクの話だと、眠って力を回復させているらしい。
魔法って、魔法の生き物って、もうみんないなくなってたものかと思っていた。魔法生物のことを教えてくれたエステル先生もそう思っているようだったから。
でも、今日、私は魔法の生き物と出会った。フリューゲルもそうだったし、ドワーフたちもそうだ。
まだ魔法が残っていて、祝福を持った魔法の生き物たちも存在する。それがとても嬉しかった。
城に帰ったら、エステル先生に教えたい。あ、でも、ドワーフたちはあえて身を隠しているから、どこにいたかまでは教えては駄目か。でも、ドワーフたちがいて、お父様のこともちゃんと覚えていたってこと、城に帰ったらお話する。
いきなりの出立になってしまったから、ドワーフたちとはきちんとした挨拶ができなかった。帰りにもう一度、オレゴの谷には行きたい。この船を造ってくれていたドワーフたちにきちんとお礼が言いたい。それに、この船も返さないといけない。
魔物からフリューゲルを救ったあと、トットは一度オレゴに戻りますか、と言ってくれたけれど、マルクは首を横に振った。私も早く山脈に向かいたかったし、マルクも何か急いでいるようだった。山脈を悪しきものから守ってくれているお母様のことが関係しているのかもしれない。けれど、マルクはやっぱり理由は言わなくて、トットも深く聞かなくて、急いでいる理由は分からなかった。
今までずっとマルクと徒歩の旅で、気が張っていたからか、あまりお城のみんなを思い出すことはなかった。でも、飛行船の中はとても快適で、お城のことを思う余裕がある。
お父様やエステル先生、テオ先生、図書館の猫たち。飛行船から落ちた時も、地下の像に襲われた時も、思い浮かんだのは城のみんなだった。
城にいた頃は、こんな場所から出ていきたいって思っていたけれど、いざ出てみると、やっぱりみんな大切な人たちで、私の居場所の一つなんだわって実感する。
寂しいかも――なんて。誤魔化そうとしたけれど、誤魔化しきれない寂しさが自分の胸の中にあった。
今すぐ帰りたいってわけじゃないけれど、二度と帰りたくないというわけでもない。
旅が終わったら、必ず帰る。魔法を見つけて、お母様を見つけたら、絶対に帰る。
私はもう一度、この旅の目的を胸に刻んだ。
今は王女であることを忘れていられるけれど、でもその身分は、どこに行ってもつきまとう。逃れられないものなんだって、薄々気がついている。
だから、ちゃんと旅が終わったら、帰って、やることやるって決めた。エステル先生とお父様にごめんなさいって言って、それから、立派な女王になるために勉強する。
この旅はきっと、私の財産になる。
フリューゲルが私の膝の上でもぞもぞと体をくねらせた。私は彼女の頭を撫でてあげる。体を起こして、大きなあくびをする。
フリューゲルは喋ることができない。おはよう、も言えない。けれど、私を見上げて、にこりと微笑んだ。フリューゲルの体はひんやりとしていて気持ちがよかった。
「寝れないのか」
手遊びをしていると、背後からマルクに話しかけられた。
「あ、うん……」
あくびをしながら、私の隣の椅子にドサッと座ったマルクは、髪の毛がボサボサだった。
あれから、フードを被っていない。歪な形をする耳が丸見えになっていて、私はつい彼の耳に手を伸ばしてしまった。
マルクは私の手を払いのけようとして、やめた。溜息をついて、私に触られていた。
耳の先がやや尖っていて、丸みを帯びていなかった。
「気になるだろ」
「う、うん。フード被っていた理由って、これなの?」
「そうだな」
「生まれつき?」
「そうとも言えるし、そうとも言えない」
また曖昧な答えだった。マルクが少しくすぐったそうにするので、私はごめん、と謝って耳から手を離した。
「隠さないのね」
「けどもう見られたから隠してもしょうがないだろ。フード暑いんだよ」
暑い、という言葉に反応したのか、フリューゲルは飛び上がってマルクの頬に手を伸ばした。魔法を使おうとしているのを察したマルクは「よせ」と短く断る。
「お前の魔法は弱い。無理するな」
マルクに魔法を使うことはやめたけれど、その代わり、フリューゲルは私達の前に、一つの氷の花を咲かせた。
花弁が幾重にも重なっている、手のひらほどの氷の花だった。宙に浮くその花は、私たちのまわりの空気を冷やしてくれた。
「やめろって言ったのに」
フリューゲルはいたずらっぽく笑い、トットが眠っているエンジン室へ飛んでいってしまった。
見送ったマルクは溜息をついて氷の花を見ていた。
「あいつ、何のために生まれたんだろうな」
「意味なんてあるの?」
「俺にはある」
マルクは何か言おうとして、息を吸って、それから飲み込んだ。何かと一緒に、飲み下してしまって、その口からは何も出てこなかった。
マルクが一瞬だけ――ほんの一瞬だったけれど、私に何か話そうとした。
いつか、その口から聞かせてほしい。マルクのこと。
「私、王女として生まれた意味なんて考えたこと、なかった」
「だろうな。馬鹿だしな」
そのマルクの意地悪な言葉は、今は気にならない。事実だし。そう、私は馬鹿なのだ。向こう見ずで飛行船から落っこちるくらいの馬鹿。
だから、今、考えている。
お父様は黄金の錬金術師、お母様は白銀の魔女。いにしえの錬金術師と魔女をなぞるような夫婦の間に生まれた私。
お父様の作り上げた国を受け継ぐのは私しかいない。それから先の国は、私が引っ張っていくことになる。
お父様は悲しみに暮れ、魔法もお母様のことも諦めた。
でも、私は、魔法を諦めない。
もう一度、もう一度グランベル王国を、魔法と錬金術の力で幸せにしたいんだ、私。魔法がなくなったグランベル王国が別に不幸になったわけじゃないけれど、魔法があれば、もっと豊かになるって思うもの。
「マルクは、魔法があったら、何をしたいの?」
「自分の責務を全うするだけ。それしかない。今も、自分の責務を全うするためにお前といる。魔法が俺には必要だが、俺は使えなくていい。魔法があればそれでいいんだ」
「責務?」
「……役目がある。まだ言えない。いつか……教えることになるかもしれない」
マルクは立ち上がって、私に向かって毛布を投げつけてきた。
「寝ろ。明日は色々調達したいものがある。お前もそんな薄っぺらい服で山脈に行くわけにはいかないだろ」
「確かに」
山脈は雪が降り積もる山だ。こんな薄いワンピース一枚で向かうようなところではない。どこかで上着なり底のある靴なり調達しないと、飛行船から降りることができない。
マルクの話では、ここから少し北に向かったところに商業都市があるらしい。そこで必要なものを必要なだけ買い込んでから、北に向かうようだった。
「そういえば、お金は?」
「トットがなんとかする」
なんとも曖昧な返事だった。マルクがそう言い切れるだけの何かがあるのだろう。
私が毛布にくるまって、部屋の隅で横になると、マルクは扉を開けて、足を外に投げ出して座った。飛行船は低速で飛んでいて、風がやさしく入ってくる。
マルクの背中はどこかさみしげだった。三編みがやさしく揺れている。彼も故郷を思い出しているのだろうか、なんて思いながら、私は眠りに落ちた。
トットは飛行船の操縦を自動運転に切り替えて、エンジン室で眠っている。マルクは部屋の隅で薄い毛布を体に巻いて横になっていた。私はなんだか眠れなくて、こうやって椅子に座ってぼんやりとしている。
空一面に星が広がっている。それを見ていると、星空に吸い込まれそうな気がする。
膝の上にはフリューゲルがいる。体を丸めてすやすやと眠っていた。私のために魔法を使ってくれた時からフリューゲルはずっと眠っていた。マルクの話だと、眠って力を回復させているらしい。
魔法って、魔法の生き物って、もうみんないなくなってたものかと思っていた。魔法生物のことを教えてくれたエステル先生もそう思っているようだったから。
でも、今日、私は魔法の生き物と出会った。フリューゲルもそうだったし、ドワーフたちもそうだ。
まだ魔法が残っていて、祝福を持った魔法の生き物たちも存在する。それがとても嬉しかった。
城に帰ったら、エステル先生に教えたい。あ、でも、ドワーフたちはあえて身を隠しているから、どこにいたかまでは教えては駄目か。でも、ドワーフたちがいて、お父様のこともちゃんと覚えていたってこと、城に帰ったらお話する。
いきなりの出立になってしまったから、ドワーフたちとはきちんとした挨拶ができなかった。帰りにもう一度、オレゴの谷には行きたい。この船を造ってくれていたドワーフたちにきちんとお礼が言いたい。それに、この船も返さないといけない。
魔物からフリューゲルを救ったあと、トットは一度オレゴに戻りますか、と言ってくれたけれど、マルクは首を横に振った。私も早く山脈に向かいたかったし、マルクも何か急いでいるようだった。山脈を悪しきものから守ってくれているお母様のことが関係しているのかもしれない。けれど、マルクはやっぱり理由は言わなくて、トットも深く聞かなくて、急いでいる理由は分からなかった。
今までずっとマルクと徒歩の旅で、気が張っていたからか、あまりお城のみんなを思い出すことはなかった。でも、飛行船の中はとても快適で、お城のことを思う余裕がある。
お父様やエステル先生、テオ先生、図書館の猫たち。飛行船から落ちた時も、地下の像に襲われた時も、思い浮かんだのは城のみんなだった。
城にいた頃は、こんな場所から出ていきたいって思っていたけれど、いざ出てみると、やっぱりみんな大切な人たちで、私の居場所の一つなんだわって実感する。
寂しいかも――なんて。誤魔化そうとしたけれど、誤魔化しきれない寂しさが自分の胸の中にあった。
今すぐ帰りたいってわけじゃないけれど、二度と帰りたくないというわけでもない。
旅が終わったら、必ず帰る。魔法を見つけて、お母様を見つけたら、絶対に帰る。
私はもう一度、この旅の目的を胸に刻んだ。
今は王女であることを忘れていられるけれど、でもその身分は、どこに行ってもつきまとう。逃れられないものなんだって、薄々気がついている。
だから、ちゃんと旅が終わったら、帰って、やることやるって決めた。エステル先生とお父様にごめんなさいって言って、それから、立派な女王になるために勉強する。
この旅はきっと、私の財産になる。
フリューゲルが私の膝の上でもぞもぞと体をくねらせた。私は彼女の頭を撫でてあげる。体を起こして、大きなあくびをする。
フリューゲルは喋ることができない。おはよう、も言えない。けれど、私を見上げて、にこりと微笑んだ。フリューゲルの体はひんやりとしていて気持ちがよかった。
「寝れないのか」
手遊びをしていると、背後からマルクに話しかけられた。
「あ、うん……」
あくびをしながら、私の隣の椅子にドサッと座ったマルクは、髪の毛がボサボサだった。
あれから、フードを被っていない。歪な形をする耳が丸見えになっていて、私はつい彼の耳に手を伸ばしてしまった。
マルクは私の手を払いのけようとして、やめた。溜息をついて、私に触られていた。
耳の先がやや尖っていて、丸みを帯びていなかった。
「気になるだろ」
「う、うん。フード被っていた理由って、これなの?」
「そうだな」
「生まれつき?」
「そうとも言えるし、そうとも言えない」
また曖昧な答えだった。マルクが少しくすぐったそうにするので、私はごめん、と謝って耳から手を離した。
「隠さないのね」
「けどもう見られたから隠してもしょうがないだろ。フード暑いんだよ」
暑い、という言葉に反応したのか、フリューゲルは飛び上がってマルクの頬に手を伸ばした。魔法を使おうとしているのを察したマルクは「よせ」と短く断る。
「お前の魔法は弱い。無理するな」
マルクに魔法を使うことはやめたけれど、その代わり、フリューゲルは私達の前に、一つの氷の花を咲かせた。
花弁が幾重にも重なっている、手のひらほどの氷の花だった。宙に浮くその花は、私たちのまわりの空気を冷やしてくれた。
「やめろって言ったのに」
フリューゲルはいたずらっぽく笑い、トットが眠っているエンジン室へ飛んでいってしまった。
見送ったマルクは溜息をついて氷の花を見ていた。
「あいつ、何のために生まれたんだろうな」
「意味なんてあるの?」
「俺にはある」
マルクは何か言おうとして、息を吸って、それから飲み込んだ。何かと一緒に、飲み下してしまって、その口からは何も出てこなかった。
マルクが一瞬だけ――ほんの一瞬だったけれど、私に何か話そうとした。
いつか、その口から聞かせてほしい。マルクのこと。
「私、王女として生まれた意味なんて考えたこと、なかった」
「だろうな。馬鹿だしな」
そのマルクの意地悪な言葉は、今は気にならない。事実だし。そう、私は馬鹿なのだ。向こう見ずで飛行船から落っこちるくらいの馬鹿。
だから、今、考えている。
お父様は黄金の錬金術師、お母様は白銀の魔女。いにしえの錬金術師と魔女をなぞるような夫婦の間に生まれた私。
お父様の作り上げた国を受け継ぐのは私しかいない。それから先の国は、私が引っ張っていくことになる。
お父様は悲しみに暮れ、魔法もお母様のことも諦めた。
でも、私は、魔法を諦めない。
もう一度、もう一度グランベル王国を、魔法と錬金術の力で幸せにしたいんだ、私。魔法がなくなったグランベル王国が別に不幸になったわけじゃないけれど、魔法があれば、もっと豊かになるって思うもの。
「マルクは、魔法があったら、何をしたいの?」
「自分の責務を全うするだけ。それしかない。今も、自分の責務を全うするためにお前といる。魔法が俺には必要だが、俺は使えなくていい。魔法があればそれでいいんだ」
「責務?」
「……役目がある。まだ言えない。いつか……教えることになるかもしれない」
マルクは立ち上がって、私に向かって毛布を投げつけてきた。
「寝ろ。明日は色々調達したいものがある。お前もそんな薄っぺらい服で山脈に行くわけにはいかないだろ」
「確かに」
山脈は雪が降り積もる山だ。こんな薄いワンピース一枚で向かうようなところではない。どこかで上着なり底のある靴なり調達しないと、飛行船から降りることができない。
マルクの話では、ここから少し北に向かったところに商業都市があるらしい。そこで必要なものを必要なだけ買い込んでから、北に向かうようだった。
「そういえば、お金は?」
「トットがなんとかする」
なんとも曖昧な返事だった。マルクがそう言い切れるだけの何かがあるのだろう。
私が毛布にくるまって、部屋の隅で横になると、マルクは扉を開けて、足を外に投げ出して座った。飛行船は低速で飛んでいて、風がやさしく入ってくる。
マルクの背中はどこかさみしげだった。三編みがやさしく揺れている。彼も故郷を思い出しているのだろうか、なんて思いながら、私は眠りに落ちた。