あの時から私は待ってと言いたかった

 三年生の引退は秋。
 それまで、高野は青森の隣で吹き続けてきたし、ずっと好きですと言い続けてきた。
「すっかり僕のファンだな」
「ファンとかそんなんじゃないです。青森さん全部が好きです」
「あはは」
 熱心だな、と言いながら、青森はマイペースにペットを吹いていた。こんなに毎日、自分の気持ちをぶつけていても、青森は身をかわしてしまう。だから音でぶつけていた。
 青森の全てを吸収しようと思っていた。姿勢も、表情も、呼吸も、全て。
 追い越すのは難しいかもしれないが、せめて、追いつきたかった。青森は待ってくれなかった。吹けば吹くほど、遠くに行ってしまう。高野が一歩進んだ時には、青森は既に三歩以上進んでいた。
 青森の全てを見ていると、青森に吸われそうになる。青森を吸収したいのはこちらなのに。それが苦しかった。青森の奏でる音に、自分の音を重ねる。全く一体になってくれない。青森の音色と一体になれるほどの技量は高野にはなかった。だが、心地よかった。青森の音色を、息遣いを、誰よりも近くで感じられていることに、酔っていた。
 青森はいつも涼しい顔をしているのに、青森のトランペットの音色は表情に富んでいた。激しく吠えることもあるし、のどかに歌うこともあった。切ない恋を歌うこともあった。恋の歌は吹奏楽コンクールの自由曲だった。
 青森は恋などしているのだろうか、と度々思った。恋をしたから、恋を知っているから、そんなに切なく恋をトランペットで語れるのだろうか。知りたかったが、怖くて聞けなかった。顧問から、高野の奏でる恋の音色は苦しいと言われ、すぐ青森だけで演奏するよう指示された。青森のソロだ。この時は高野は心の中で笑っていた。自分は苦しいのかと。自覚はなかったが、音は嘘はつかないらしい。
 切ない夏も、すぐ終わった。結果はダメ金。誰もが悔しがった。青森は悔しがっているのか、そうでないのか、分からない顔をしていた。隣で高野は青森のソロを聞いていたが、今までの練習以上のものだった。ベストが出せたから、それで満足したのかもしれない。
 暮れゆく夕方の空に、青森の音が吸われていく。月が見えていた。きっと、町の人たちもこの青森の音を聴いている。だが一番近くで、息遣いまで聞こえるほど近くで聴いているのは、そしてその音に一番近いのは自分だ。関口ではない。同じファーストの自分なのだ。ここには誰も入らせたくなかったし、実際、入らせなかった。幸いにも二年生のトランペットは不在だった。高野が青森を独占することができていた。
 だが、それができるのは、青森が引退する秋まで。短かった。
 定期演奏会の一週間前、高野は青森に尋ねた。
「大学に行っても、ペット、やるんですか」
 青森は、手すりにもたれかかって、空を見ていた。赤色に染まる空を見て、青森は溜息をついた。
「やらない」
 衝撃だった。こんなにうまい奏者が、簡単にそう言ったのだ。
「え」
「やらないよ。大学に行けば、僕よりずっとうまい奏者がいる。ペットを専門にしている人だっている。僕はアマチュアではうまいかもしれないけど、アマチュア以上にはなれない。打ちのめされる前に、気持ちよくやめる」
 井の中の蛙のままでいたいじゃん。
 青森はそう言って振り返った。
「高野さんは? 大学に行っても、ペット吹き続けるの?」
「分からないです。追いかける人がいないのなら、やめるかも」
「そっか。確かに。高野さんは僕一筋だったもんね。あ、でも、次のファースト担当が入部するまでは、高野さんが守ってよ」
「分かってます」
 きっと、顧問から怒鳴り散らされながら吹くことになるだろう。
 追いかけても、追いかけても、追いつかなかった。数日後には、引退してしまう。
 待ってくれなかった。青森は高野よりも先に大学に行き、社会に出てしまう。どこかで待ってくれないかと言いたかった。言えなかった。
 飄々としている青森は、高野を一度だって待ってくれなかった。これからもそうだろう。
「大学はどこにするんですか」
「東京の工学。レンズの研究がしたい」
 トランペットと同じくらい、カメラが好きなのだと教えてくれた。トランペット以外の青森の要素を、ここで初めて知った。青森にはトランペットしかないのかと思っていたが、そうではなかった。
 精密機械にも興味がある。作りたい。それがペットをやめる青森の、次にやりたいことだった。
 定期演奏会が終わり、青森は部活に来なくなった。定期演奏会が終わると、部活の空気は少しだけゆるくなる。
 高野は青森の進路について調べてみた。工学は全く分からない分野だったからだ。文理選択をする前に知れてよかったと思った。自分でも気持ちが悪いと思う。片思い相手に影響され、進路を考えるなんて。
 青森が志望する大学も聞いていた。青森はレンズの研究を望んでいたが、高野は電子工学に興味があった。同じ大学で学ぶことができる。大学までは追いかけることができるかもしれない。追いかけてみようと思って、理系を選んだ。
 冬空の下、いつもの場所でペットを吹いていると、青森が高野の元を訪れた。三年生は自由登校だったから、驚いてまたペットを落としそうになる。
「合格したよ」
 青森は簡単に合格を告げた。
「おめでとうございます」
 一瞬、残念に思った自分がいた。浪人生となって、待ってくれないかな、なんて思っていた。だが、青森はそんなことしない。待ってくれないと分かっている。
「私、追いかけますから」
「熱心だな、ほんとに」
 追いかけられること自体は、嫌そうではなかった。だから、自分が諦めるまでは、追いかけようと思った。
「待たないよ、僕」
 宣言通り、青森は先に卒業し、大学へと進んだ。卒業式の日に、必死に頼み込んで、青森の連絡先をもらった。
 それだけをモチベーションにして、高野はトランペットの青森の席を受け継ぎ、青森と同じ大学に進むために必死に勉強した。青森が卒業した後の二年間、がむしゃらに青森の背中を追いかけていた。それ以外のことは記憶にない。
 無事、青森と同じ大学に入って、キャンパス内で青森の姿を見た。声はかけられなかった。学部は同じだが、コースが違った。青森は高校時代から大人びていたから、そこまで様変わりはしていなかった。涼しい顔をして、一人でキャンパス内を歩いていた。それを高野は遠くから見ているだけだった。稀にSNSでメッセージのやり取りをするだけだった。
 宣言通り、トランペットはきっぱりやめていた。だが、まだ追いかけられると思った。
 青森の入社した企業は医療系精密機械メーカー。自分の専門である電子工学の知識も充分に活かせるものだった。
 青森は待たない。それを分かっていて、青森の道筋を高野は辿り、追いかけていく。
 いつか追いつくはずだと信じてやまなかったのだ。
 自分は青森しか見えていなかった。青森の人生を追うだけの、つまらない人間が出来上がったのである。
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