あの時から私は待ってと言いたかった
あの時も、高野は今と同じように、髪をうなじでひとつに結い、ぴかぴかの制服に身を包んでいた。中学生の頃はセーラーだったから、ブレザーになって心が踊った。
中学時代から吹奏楽部だった高野は、高校に入ってもすぐに吹奏楽をすると決めていた。楽器も中学と同じくトランペット。経験者だから、希望通りになった。楽器が決まって、はじめての合奏。久しぶりに楽器に息を吹き込むのが楽しみで、早めに音楽室へと向かった。
自分の場所に行くと、思わず、手に持っていたトランペットを落としそうになった。
自分の席の隣に、仮入部の時にはいなかった男子生徒がいた。痩身で、落ち着いた雰囲気を漂わせていた。長めの前髪から覗く目にはやや冷たさを感じた。綺麗だと思った。こんな人がパートにいるとは聞いていなかった。パートリーダーの女子の先輩、関口はまだ来ていない。
彼はマウスピースのアップを終わらせ、ピストンバルブを押さえて指のアップをしながらトレーニング用の譜面をめくっていた。
思わず見惚れていた。その男子生徒に。名前が知りたくて名札を見たかったが、上着は脱いでいて椅子にかけていた。
黙って椅子に座るわけにもいかず、今だ、と心に決めて声をかける。
「あの、一年の高野です、よろしくお願いします」
譜面から顔を上げ、高野をまじまじと見てくる。何のことか分かっていないような顔をしていた。それから視線を前に戻し、譜面の奥にある遠い何かを見つめるような目をしていた。
「あ、そうか」
次に高野に向けてきた顔は、柔らかな笑みを浮かべていた。艶のある綺麗な髪が、窓から吹き込む風でさらりと揺れる。
「新入部員か。いらっしゃい。三年の青森。パートリーダーは関口さんに任せてるけど、僕がファースト。経験者って聞いてる。よろしく」
どこか掴みどころのない口調。高野はどぎまぎしながら頭を下げ、隣に座り、譜面台を組み立てた。経験者ということで、自分もファーストを担当することになっていた。
青森はすぐにトレーニングをはじめたので、自分も中学生の頃から続けているトレーニングメニューで音出しをする。その間、続々と部員たちがやってくる。関口はセカンドの席に座っていた。最後に顧問の教員が指揮台にやってきた。顧問が専門としている楽器はチューバだった。指揮台に置いていた椅子に座り、生徒と一緒にトレーニングをする。
時間が来ると副部長が号令をかけ、全体トレーニングがはじまる。この吹奏楽部のトレーニングメニューが分かっていない高野たち新入部員は、そこから聞くだけになる。
三十分ほどのトレーニングが終わり、顧問がチューバを置いて立ち上がった。
「いやあ、増えたねえ」
いつもの、と声をかけると、先輩部員たちは急いで楽譜をめくりはじめた。曲名を言わないということは、例年行っている何かが始まるのだろう。青森はどこか真剣な眼差しで楽譜をめくっている。指はしきりにバルブを押さえていた。ぱすぱす、と金属が擦れる音が聞こえてくる。
顧問が前髪をかきあげ、指揮棒を軽く握りしめた右手を上に振り上げる。指揮の視線は青森にあった。
青森の息遣いが聞こえてきて、はっとして隣を見た。
指揮が空を突くように振り下ろされた瞬間、青森のペットが高らかに鳴った。見事な高音のファンファーレ。花形だった。
興奮した。今まで様々な学校の部の演奏を聞いてきたが、こんなに素晴らしい奏者とは今まで出会ったことがない。
部全体の技術も高い。ファンファーレの後の木管のゆったりとしたメロディー、金管の歌うようなオブリガート、繊細な打楽器の音色、どれも素晴らしい。
だが、青森は飛び抜けていた。この人のソロが聞きたい。こんな感情は初めてだった。
曲は最高潮を迎える。金管たちの唸るような音、木管の目まぐるしい旋律、びりびりとするようなティンパニーの鼓動。その中で、青森は誰よりも高らかにペットを鳴らしていた。
手に汗を握っていた。曲が終わると、どっと疲れた。疲れるほど聞き入っていた。青森のペットに酔っていた。
「新入生は、今の演奏に追いつき、追い越すように。じゃ、パート練ね」
顧問が音楽室から出ていくと、それぞれのパートが練習場所へと向かっていった。
ペットの指定の場所は北校舎三階だった。この校舎は外廊下で、空がよく見えた。第二理科室から椅子を借り、廊下に並べた。そうしている間に、青森の姿が消えていた。
「くはー! 青森め、また逃げたな!」
関口が空に向かって吠えていた。こういうことは頻繁にあるのかもしれない。関口がセカンドなのにパートリーダーをしている理由がそこではじめて分かった。
だが、青森はサボっているわけではない。場所は分からないが、音が聞こえてくるのだ。きっとパート練習が苦手なのだ。やはり、彼はソロのほうが似合っている。どうして吹奏楽部に入っているのか疑問になるくらいだった。
「ごめん、高野さん。これから初心者向け練習やるから、自主練しててくれる?」
関口の隣には、トランペット初心者の同級生女子が座っている。マウスピースを握りしめていた。
「分かりました。あの、青森先輩、探してきていいですか」
「どうぞどうぞ。たぶん南校舎三階の隅にいると思う」
トランペットの場所が三階なのは、青森が好きだからなんだよね。関口は困ったように言っていた。音楽室が一階にあるから、移動が大変なのだと言いたそうな顔だった。
だが青森の気持ちは分かる。外廊下で、空がよく見えて、かつ響く。北校舎と南校舎が反響板になり、中庭に向かって吹くと、音が気持ちよく響いてくれる。音が空に抜ける快感がある。それは中学校時代からよく感じていた。
だが南校舎は学校の外に向かって吹くことになる。青森は何を見て吹いているのだろう。好奇心でいっぱいだった。
夕焼けの下、渡り廊下を渡って南校舎に行く。南校舎三階は三年生のフロアだが、西の端は教科教材室になっている。青森はその前にいた。
トランペットは椅子の上に置き、手すりにもたれかけていた。春の風に髪を揺らしている。少し冷えるのか、脱いでいた上着を羽織っていた。
絵になっていると思った。声がかけにくい。だが、いつまでも突っ立っていたらそのうち気づかれてしまう。
「先輩」
どきどきしながら声をかける。手汗でトランペットを落としそうだった。青森が振り返ると、一枚の絵画を見ている感覚に襲われた。
「ん、どうした?」
「好きです」
咄嗟に出た言葉がそれだった。自分が何を口走ったか分かった瞬間に顔が赤くなる。だが、青森は冷静だった。
「どうも。僕に追いつき追い越せって、難しいよね。うちの顧問、厳しいから、頑張ってね」
青森はペットのことを言っていると思っていたし、高野もそれで安心した。
「パー練、なんで抜けるんですか」
「え、だって。僕じゃ教えられない」
「レベルが高すぎてですか」
「そうかも。それに、教えるの下手なんだよ。自分がやってること、言葉にできない」
あはは、と気の抜けた笑いをする青森に、またトランペットが滑り落ちそうになる。
青森の挙動の一つ一つに、心が揺れ動いていた。口走っていた言葉は、トランペット奏者の青森にではなく、青森の全てに言ってしまった言葉なのかもしれない。
「ちょっとだけ待ってくれませんか、ちょっとだけでいいので」
「それは無理」
「じゃあ、ずっと隣で追いかけます。教えてもらわなくていいですので、隣にいさせてください」
随分と図々しい一年だと思われただろう。だが、青森はそんな高野を追い払おうとはしなかった。高野が隣でペットを吹くと、感心したような声を出していたのだ。
中学時代から吹奏楽部だった高野は、高校に入ってもすぐに吹奏楽をすると決めていた。楽器も中学と同じくトランペット。経験者だから、希望通りになった。楽器が決まって、はじめての合奏。久しぶりに楽器に息を吹き込むのが楽しみで、早めに音楽室へと向かった。
自分の場所に行くと、思わず、手に持っていたトランペットを落としそうになった。
自分の席の隣に、仮入部の時にはいなかった男子生徒がいた。痩身で、落ち着いた雰囲気を漂わせていた。長めの前髪から覗く目にはやや冷たさを感じた。綺麗だと思った。こんな人がパートにいるとは聞いていなかった。パートリーダーの女子の先輩、関口はまだ来ていない。
彼はマウスピースのアップを終わらせ、ピストンバルブを押さえて指のアップをしながらトレーニング用の譜面をめくっていた。
思わず見惚れていた。その男子生徒に。名前が知りたくて名札を見たかったが、上着は脱いでいて椅子にかけていた。
黙って椅子に座るわけにもいかず、今だ、と心に決めて声をかける。
「あの、一年の高野です、よろしくお願いします」
譜面から顔を上げ、高野をまじまじと見てくる。何のことか分かっていないような顔をしていた。それから視線を前に戻し、譜面の奥にある遠い何かを見つめるような目をしていた。
「あ、そうか」
次に高野に向けてきた顔は、柔らかな笑みを浮かべていた。艶のある綺麗な髪が、窓から吹き込む風でさらりと揺れる。
「新入部員か。いらっしゃい。三年の青森。パートリーダーは関口さんに任せてるけど、僕がファースト。経験者って聞いてる。よろしく」
どこか掴みどころのない口調。高野はどぎまぎしながら頭を下げ、隣に座り、譜面台を組み立てた。経験者ということで、自分もファーストを担当することになっていた。
青森はすぐにトレーニングをはじめたので、自分も中学生の頃から続けているトレーニングメニューで音出しをする。その間、続々と部員たちがやってくる。関口はセカンドの席に座っていた。最後に顧問の教員が指揮台にやってきた。顧問が専門としている楽器はチューバだった。指揮台に置いていた椅子に座り、生徒と一緒にトレーニングをする。
時間が来ると副部長が号令をかけ、全体トレーニングがはじまる。この吹奏楽部のトレーニングメニューが分かっていない高野たち新入部員は、そこから聞くだけになる。
三十分ほどのトレーニングが終わり、顧問がチューバを置いて立ち上がった。
「いやあ、増えたねえ」
いつもの、と声をかけると、先輩部員たちは急いで楽譜をめくりはじめた。曲名を言わないということは、例年行っている何かが始まるのだろう。青森はどこか真剣な眼差しで楽譜をめくっている。指はしきりにバルブを押さえていた。ぱすぱす、と金属が擦れる音が聞こえてくる。
顧問が前髪をかきあげ、指揮棒を軽く握りしめた右手を上に振り上げる。指揮の視線は青森にあった。
青森の息遣いが聞こえてきて、はっとして隣を見た。
指揮が空を突くように振り下ろされた瞬間、青森のペットが高らかに鳴った。見事な高音のファンファーレ。花形だった。
興奮した。今まで様々な学校の部の演奏を聞いてきたが、こんなに素晴らしい奏者とは今まで出会ったことがない。
部全体の技術も高い。ファンファーレの後の木管のゆったりとしたメロディー、金管の歌うようなオブリガート、繊細な打楽器の音色、どれも素晴らしい。
だが、青森は飛び抜けていた。この人のソロが聞きたい。こんな感情は初めてだった。
曲は最高潮を迎える。金管たちの唸るような音、木管の目まぐるしい旋律、びりびりとするようなティンパニーの鼓動。その中で、青森は誰よりも高らかにペットを鳴らしていた。
手に汗を握っていた。曲が終わると、どっと疲れた。疲れるほど聞き入っていた。青森のペットに酔っていた。
「新入生は、今の演奏に追いつき、追い越すように。じゃ、パート練ね」
顧問が音楽室から出ていくと、それぞれのパートが練習場所へと向かっていった。
ペットの指定の場所は北校舎三階だった。この校舎は外廊下で、空がよく見えた。第二理科室から椅子を借り、廊下に並べた。そうしている間に、青森の姿が消えていた。
「くはー! 青森め、また逃げたな!」
関口が空に向かって吠えていた。こういうことは頻繁にあるのかもしれない。関口がセカンドなのにパートリーダーをしている理由がそこではじめて分かった。
だが、青森はサボっているわけではない。場所は分からないが、音が聞こえてくるのだ。きっとパート練習が苦手なのだ。やはり、彼はソロのほうが似合っている。どうして吹奏楽部に入っているのか疑問になるくらいだった。
「ごめん、高野さん。これから初心者向け練習やるから、自主練しててくれる?」
関口の隣には、トランペット初心者の同級生女子が座っている。マウスピースを握りしめていた。
「分かりました。あの、青森先輩、探してきていいですか」
「どうぞどうぞ。たぶん南校舎三階の隅にいると思う」
トランペットの場所が三階なのは、青森が好きだからなんだよね。関口は困ったように言っていた。音楽室が一階にあるから、移動が大変なのだと言いたそうな顔だった。
だが青森の気持ちは分かる。外廊下で、空がよく見えて、かつ響く。北校舎と南校舎が反響板になり、中庭に向かって吹くと、音が気持ちよく響いてくれる。音が空に抜ける快感がある。それは中学校時代からよく感じていた。
だが南校舎は学校の外に向かって吹くことになる。青森は何を見て吹いているのだろう。好奇心でいっぱいだった。
夕焼けの下、渡り廊下を渡って南校舎に行く。南校舎三階は三年生のフロアだが、西の端は教科教材室になっている。青森はその前にいた。
トランペットは椅子の上に置き、手すりにもたれかけていた。春の風に髪を揺らしている。少し冷えるのか、脱いでいた上着を羽織っていた。
絵になっていると思った。声がかけにくい。だが、いつまでも突っ立っていたらそのうち気づかれてしまう。
「先輩」
どきどきしながら声をかける。手汗でトランペットを落としそうだった。青森が振り返ると、一枚の絵画を見ている感覚に襲われた。
「ん、どうした?」
「好きです」
咄嗟に出た言葉がそれだった。自分が何を口走ったか分かった瞬間に顔が赤くなる。だが、青森は冷静だった。
「どうも。僕に追いつき追い越せって、難しいよね。うちの顧問、厳しいから、頑張ってね」
青森はペットのことを言っていると思っていたし、高野もそれで安心した。
「パー練、なんで抜けるんですか」
「え、だって。僕じゃ教えられない」
「レベルが高すぎてですか」
「そうかも。それに、教えるの下手なんだよ。自分がやってること、言葉にできない」
あはは、と気の抜けた笑いをする青森に、またトランペットが滑り落ちそうになる。
青森の挙動の一つ一つに、心が揺れ動いていた。口走っていた言葉は、トランペット奏者の青森にではなく、青森の全てに言ってしまった言葉なのかもしれない。
「ちょっとだけ待ってくれませんか、ちょっとだけでいいので」
「それは無理」
「じゃあ、ずっと隣で追いかけます。教えてもらわなくていいですので、隣にいさせてください」
随分と図々しい一年だと思われただろう。だが、青森はそんな高野を追い払おうとはしなかった。高野が隣でペットを吹くと、感心したような声を出していたのだ。