おまけ
朝、自室から廊下に出ると、どこからかカリカリと引っ掻く音がした。玄関を見ると、コバルトが扉を引っ掻いていた。磨りガラスが朝日を通している。コバルトの黒い背中が艶やかに光っていた。
庭の花を食べないように室内飼いをしているから、滅多に外に出ようとしないのに。
呼んでも見向きもしなかった。
いつもならこの時間は紺ちゃんの布団に入っているはず。起きるのは僕が出勤した後。だからコバルトも普通なら二階にいる。
確認したら、紺ちゃんの靴がなかった。
昨日、僕は自分の部屋でリリちゃんの過去動画を見ていたら、いつの間にか寝落ちしていた。だから紺ちゃんがいつまで起きていたのかは知らない。
どこかへ出かけたんだろうか。だからコバルトが外に出たがっているんだろうか。
分からないけれど、靴がないし、コバルトの様子からしてそうとしか思えなかった。だとしたら、どこへ行ったのだろう。
結局、家を出るまで紺ちゃんは帰ってこなかった。家を出る時、またコバルトが一緒に外へ出ようとしたけれど、謝ってゲージの中に入れた。
悲しそうに鳴いたから、ちょっと堪えた。
仕事と買い物を終えて帰ったら紺ちゃんがリビングのソファで横になっていたから、そこでようやくどこに行っていたのか聞けた。
「海に行ってた」
「海?」
「海沿いにある公園」
脇にすっぽりと収まっているコバルトを撫でながら、紺ちゃんは溜息をついた。
「急に海が見たくなったから、見に行った」
「取材じゃなかったんだ」
「今は書いてない。落ちたばっかだし。ネタもないし」
落ち込むわけでもなく、淡々と述べる。
少しだけ間があり、紺ちゃんは首を持ち上げてキッチンにいる僕を見てくる。
「心配させた?」
「いや、そういうわけじゃないんだけど。コバルトがめちゃくちゃ外に出たがってたし、時間も時間だったから、どこに行ったのかなって思っただけ。普段そういうこと、しないから」
庭に出ると、ひんやりとした空気が腕を撫でた。もう半袖は肌寒い。日中は暑いのに、夕方になると急に冷える。日が落ちるのも早くなった。この時間、夏はまだ明るかったのに、今はもう空が赤い。
暗くなってくると、ガーデンライトが欲しいと思うようになる。毎年、同じことを思うのに、まだ買っていない。今年も買わないような予感がする。
紺ちゃんもコバルトを部屋に置いて縁側に出てきた。さむ、と呟く。
相変わらず紺一色で、紺色のカーディガンを羽織っている。
葵が終わったあとに種を蒔いたコスモスがだいぶ伸びた。紺ちゃんがリクエストした花だった。
思ったより高くなった。僕の顔の高さまである。ピンクや白の花が庭を飾っていた。葵が終わったあとは寂しくなりがちの庭も、今年はしばらくはまだ寂しさを感じなくて済みそうだった。
「見たかった海ではなかったな」
「どういうこと? 海は海じゃないの」
「私がずっと見てきたのは瀬戸内海だったわけで。やっぱり違うなって。あと周りの風景が都会すぎる」
聞いてもよく分からなかった。僕は紺ちゃんよりもだいぶ知見が浅い。
海なんか見に行かない。行こうとも思わない。職場のすぐ近くにも海辺の公園はあるけれど、わざわざ行くところでもなかった。
紺ちゃんは海が近い場所で長年生活していたから、そう思うんだろうか。
「実家に帰ったら? もう長いこと帰ってないでしょ」
「わざわざそれだけのために向こうまで行くのも大変じゃない。鞆の浦とかまた行きたいけど」
「そっか」
書くかー……、と、伸びをしながら呟いていた。実際に行けないのなら、書いて解決するというのが紺ちゃんらしい。
もう実績とか、賞とか、そういうものへの執着はなくなって、好きに書けているのだという。そっちのほうがいいものが書けているのだと土井谷さんにも言われたらしい。土井谷さんに褒められた日は、帰ってからもご機嫌だから、聞かなくても分かるようになった。そういうのが最近増えている。
「ほんとに、突然、海ってなったんだ」
「あ、そうだ、海行こうって。明け方になって思った。今日は外に行きたい気分になったからすぐに行ったわけ」
「自由だなあ」
「それは智もでしょ。突然、猫飼いたいとか言い出すし。結婚の理由だって猫だったし。指輪だって要らないって言ってたのに突然私のだけ買ってくるし。結構、自由やってると思うけど」
「それもそうか」
足を投げ出してぶらぶらさせながら、紺ちゃんは空を仰いだ。
「もう一回、海行ってこようかな。今度はお台場あたり。智も来てよ」
「それさ、連れ回されたりしない?」
「しないしない。別に買い物とかするわけでもないし。特に目的地もないし。海沿いを歩くだけ。疲れたら帰る」
「ほんと自由だね」
「それがいいんでしょ」
お腹すいた、と言って、紺ちゃんは部屋に入った。
本当に、コバルトにそっくりだと思う。コバルトが紺ちゃんにそっくりなのか、紺ちゃんがコバルトにそっくりなのか分からなくなってくる。
それがいいんでしょ、と聞かれたら、そうだね、と答える。今のこの感じを変えるつもりはないし、変えたいとも思わない。
それぞれが好きにやって、たまにそれぞれに付き合う。それがちょうどよかった。
朝、お台場の海浜公園に行った。僕らの他に、散歩やジョギングをしている人がいる。
冷たくて、澄んだ空気に囲まれていた。秋の、さわやかな朝だ。
独特な潮の香りが風に乗ってやってくる。ちょっと生臭い、というのが僕の素直な感想だった。普段はアスファルトと土と植物のにおいに囲まれているから、慣れなかった。
ゆりかもめや高速道路、ビルに囲まれた公園だ。紺ちゃんの言う「都会すぎる」を象徴するものだと思った。でも、僕にとって、これは普通の光景だった。奥沢は住宅が多くてここまでではないけれど、都心はどこもそうだからだ。
僕にはよく分からない。僕は東京から、もっと言えば世田谷からあまり出ない。修学旅行の記憶はもうほとんどないし、田舎のイメージが具体的に浮かばない。四方が山に囲まれていて、どこもかしこも緑な景色……とか、そういうベタなものしか出てこなかった。
海となればもっと分からなかった。瀬戸内海って言われても、場所くらいしか分からない。
「海って、ほんと、場所によって変わると思う」
「よく分かんないな、それ」
髪をなびかせながら、紺ちゃんは僕の少し先を歩く。視線はずっと海にあった。朝日の下にいる紺ちゃんを、初めて見たかもしれない。
「海というか海岸というか。雰囲気が全然違う。波も違うし」
高知から見る太平洋、鳥取の砂丘から見る日本海、鞆の浦から見る瀬戸内海、それから、ここで見る東京湾。学生の頃に、色々見てきたらしい。
「そういうの、好きなんだ」
「別に、海自体が好きというわけじゃない。それぞれの海に紐づいている人たちを想像するのが好き」
「そうなんだ」
それは作家さんならではの感性なんだろうか。人を書いているからこその。
海を見ているのかと思いきや、人を見ている。海に想像というレイヤーを重ねて見ている。
僕らは黙って、潮風を浴びながら歩いた。波の音に重なって、人の声もまばらに聞こえてくる。紺ちゃんはそういうのもすべて聞いている。
僕みたいに、なんとなく、目に入ってくるものを見ているんじゃない。すべてを吸収して、さらに想像を重ねている。
本当に好きなんだなと思う。こうやって想像を広げて、それを文章に落とすことが。それを支えることができているのが嬉しい。紺ちゃんには、ずっと、思いっきり書いていてほしい。
「まあ、都会の海もそれはそれで。うん。満足した」
「もういい?」
「うん。書きたいものが見つかったから。ごめん、付き合わせて」
紺ちゃんから手を伸ばしてきたから、その手を握った。
「いいよ、帰ろっか」
帰ったら、すぐに二階に上がって、原稿に向かうんだろう。書くことが決まったあとは、紺ちゃんはずっと原稿だ。
でも、別に、それで寂しいとは思わない。いてくれるだけで良かった。好きなことを思いっきりしてくれるのが嬉しい。
帰ると、コバルトが真っ先に紺ちゃんに飛びついた。そのまま抱っこして二階に上がっていく。
すぐにコーヒーちょうだいって降りてくるだろうから、先に淹れておくことにする。
ゆっくりした時間だった。朝は思ったよりも長い。
キッチンにコーヒーのいい香りが広がる。紺ちゃんを呼びに、階段に向かった。
庭の花を食べないように室内飼いをしているから、滅多に外に出ようとしないのに。
呼んでも見向きもしなかった。
いつもならこの時間は紺ちゃんの布団に入っているはず。起きるのは僕が出勤した後。だからコバルトも普通なら二階にいる。
確認したら、紺ちゃんの靴がなかった。
昨日、僕は自分の部屋でリリちゃんの過去動画を見ていたら、いつの間にか寝落ちしていた。だから紺ちゃんがいつまで起きていたのかは知らない。
どこかへ出かけたんだろうか。だからコバルトが外に出たがっているんだろうか。
分からないけれど、靴がないし、コバルトの様子からしてそうとしか思えなかった。だとしたら、どこへ行ったのだろう。
結局、家を出るまで紺ちゃんは帰ってこなかった。家を出る時、またコバルトが一緒に外へ出ようとしたけれど、謝ってゲージの中に入れた。
悲しそうに鳴いたから、ちょっと堪えた。
仕事と買い物を終えて帰ったら紺ちゃんがリビングのソファで横になっていたから、そこでようやくどこに行っていたのか聞けた。
「海に行ってた」
「海?」
「海沿いにある公園」
脇にすっぽりと収まっているコバルトを撫でながら、紺ちゃんは溜息をついた。
「急に海が見たくなったから、見に行った」
「取材じゃなかったんだ」
「今は書いてない。落ちたばっかだし。ネタもないし」
落ち込むわけでもなく、淡々と述べる。
少しだけ間があり、紺ちゃんは首を持ち上げてキッチンにいる僕を見てくる。
「心配させた?」
「いや、そういうわけじゃないんだけど。コバルトがめちゃくちゃ外に出たがってたし、時間も時間だったから、どこに行ったのかなって思っただけ。普段そういうこと、しないから」
庭に出ると、ひんやりとした空気が腕を撫でた。もう半袖は肌寒い。日中は暑いのに、夕方になると急に冷える。日が落ちるのも早くなった。この時間、夏はまだ明るかったのに、今はもう空が赤い。
暗くなってくると、ガーデンライトが欲しいと思うようになる。毎年、同じことを思うのに、まだ買っていない。今年も買わないような予感がする。
紺ちゃんもコバルトを部屋に置いて縁側に出てきた。さむ、と呟く。
相変わらず紺一色で、紺色のカーディガンを羽織っている。
葵が終わったあとに種を蒔いたコスモスがだいぶ伸びた。紺ちゃんがリクエストした花だった。
思ったより高くなった。僕の顔の高さまである。ピンクや白の花が庭を飾っていた。葵が終わったあとは寂しくなりがちの庭も、今年はしばらくはまだ寂しさを感じなくて済みそうだった。
「見たかった海ではなかったな」
「どういうこと? 海は海じゃないの」
「私がずっと見てきたのは瀬戸内海だったわけで。やっぱり違うなって。あと周りの風景が都会すぎる」
聞いてもよく分からなかった。僕は紺ちゃんよりもだいぶ知見が浅い。
海なんか見に行かない。行こうとも思わない。職場のすぐ近くにも海辺の公園はあるけれど、わざわざ行くところでもなかった。
紺ちゃんは海が近い場所で長年生活していたから、そう思うんだろうか。
「実家に帰ったら? もう長いこと帰ってないでしょ」
「わざわざそれだけのために向こうまで行くのも大変じゃない。鞆の浦とかまた行きたいけど」
「そっか」
書くかー……、と、伸びをしながら呟いていた。実際に行けないのなら、書いて解決するというのが紺ちゃんらしい。
もう実績とか、賞とか、そういうものへの執着はなくなって、好きに書けているのだという。そっちのほうがいいものが書けているのだと土井谷さんにも言われたらしい。土井谷さんに褒められた日は、帰ってからもご機嫌だから、聞かなくても分かるようになった。そういうのが最近増えている。
「ほんとに、突然、海ってなったんだ」
「あ、そうだ、海行こうって。明け方になって思った。今日は外に行きたい気分になったからすぐに行ったわけ」
「自由だなあ」
「それは智もでしょ。突然、猫飼いたいとか言い出すし。結婚の理由だって猫だったし。指輪だって要らないって言ってたのに突然私のだけ買ってくるし。結構、自由やってると思うけど」
「それもそうか」
足を投げ出してぶらぶらさせながら、紺ちゃんは空を仰いだ。
「もう一回、海行ってこようかな。今度はお台場あたり。智も来てよ」
「それさ、連れ回されたりしない?」
「しないしない。別に買い物とかするわけでもないし。特に目的地もないし。海沿いを歩くだけ。疲れたら帰る」
「ほんと自由だね」
「それがいいんでしょ」
お腹すいた、と言って、紺ちゃんは部屋に入った。
本当に、コバルトにそっくりだと思う。コバルトが紺ちゃんにそっくりなのか、紺ちゃんがコバルトにそっくりなのか分からなくなってくる。
それがいいんでしょ、と聞かれたら、そうだね、と答える。今のこの感じを変えるつもりはないし、変えたいとも思わない。
それぞれが好きにやって、たまにそれぞれに付き合う。それがちょうどよかった。
朝、お台場の海浜公園に行った。僕らの他に、散歩やジョギングをしている人がいる。
冷たくて、澄んだ空気に囲まれていた。秋の、さわやかな朝だ。
独特な潮の香りが風に乗ってやってくる。ちょっと生臭い、というのが僕の素直な感想だった。普段はアスファルトと土と植物のにおいに囲まれているから、慣れなかった。
ゆりかもめや高速道路、ビルに囲まれた公園だ。紺ちゃんの言う「都会すぎる」を象徴するものだと思った。でも、僕にとって、これは普通の光景だった。奥沢は住宅が多くてここまでではないけれど、都心はどこもそうだからだ。
僕にはよく分からない。僕は東京から、もっと言えば世田谷からあまり出ない。修学旅行の記憶はもうほとんどないし、田舎のイメージが具体的に浮かばない。四方が山に囲まれていて、どこもかしこも緑な景色……とか、そういうベタなものしか出てこなかった。
海となればもっと分からなかった。瀬戸内海って言われても、場所くらいしか分からない。
「海って、ほんと、場所によって変わると思う」
「よく分かんないな、それ」
髪をなびかせながら、紺ちゃんは僕の少し先を歩く。視線はずっと海にあった。朝日の下にいる紺ちゃんを、初めて見たかもしれない。
「海というか海岸というか。雰囲気が全然違う。波も違うし」
高知から見る太平洋、鳥取の砂丘から見る日本海、鞆の浦から見る瀬戸内海、それから、ここで見る東京湾。学生の頃に、色々見てきたらしい。
「そういうの、好きなんだ」
「別に、海自体が好きというわけじゃない。それぞれの海に紐づいている人たちを想像するのが好き」
「そうなんだ」
それは作家さんならではの感性なんだろうか。人を書いているからこその。
海を見ているのかと思いきや、人を見ている。海に想像というレイヤーを重ねて見ている。
僕らは黙って、潮風を浴びながら歩いた。波の音に重なって、人の声もまばらに聞こえてくる。紺ちゃんはそういうのもすべて聞いている。
僕みたいに、なんとなく、目に入ってくるものを見ているんじゃない。すべてを吸収して、さらに想像を重ねている。
本当に好きなんだなと思う。こうやって想像を広げて、それを文章に落とすことが。それを支えることができているのが嬉しい。紺ちゃんには、ずっと、思いっきり書いていてほしい。
「まあ、都会の海もそれはそれで。うん。満足した」
「もういい?」
「うん。書きたいものが見つかったから。ごめん、付き合わせて」
紺ちゃんから手を伸ばしてきたから、その手を握った。
「いいよ、帰ろっか」
帰ったら、すぐに二階に上がって、原稿に向かうんだろう。書くことが決まったあとは、紺ちゃんはずっと原稿だ。
でも、別に、それで寂しいとは思わない。いてくれるだけで良かった。好きなことを思いっきりしてくれるのが嬉しい。
帰ると、コバルトが真っ先に紺ちゃんに飛びついた。そのまま抱っこして二階に上がっていく。
すぐにコーヒーちょうだいって降りてくるだろうから、先に淹れておくことにする。
ゆっくりした時間だった。朝は思ったよりも長い。
キッチンにコーヒーのいい香りが広がる。紺ちゃんを呼びに、階段に向かった。
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