おまけ

 寝苦しくて目が覚めた。枕元に置いていたスマホを手に取ると、白い光が目を突き刺してくる。午前三時過ぎ。起きるにはまだ早いけど、もう一度寝るにも中途半端な時間だった。
 水を飲もうと思って身体を起こす。耳にイヤホンが入ったままだった。昨日はリリちゃん限定復活ライブがあったから、それを一人で見ていた。バーチャルの身体を脱いだリリちゃんだけど、ファンの中には僕のようにバーチャル時代のリリちゃんを愛している人がいる。そういうファンのために、リリちゃんは稀にバーチャルリリちゃんを復活させてくれていたのだ。この復活配信には越智さんが絡んでいるという裏話を僕は知っている。
 楽しみにしていた配信だけれど、途中からの記憶がないから、寝落ちしたんだろう。夏の暑さと職場の暑さで体力を消耗していたんだ。
 マウスを少し動かすと、スリープしていたPCが静かに起動して、モニターが光った。配信が終了した真っ黒の再生画面が表示される。今から続きを見る元気はなかったから、パソコンの電源を落とした。
 イヤホンを外すと、二階から足音が聞こえてくる。まだ起きているのだろうか。三時過ぎなのに。
 キッチンに行って水を飲んでいると、紺ちゃんが顔を出した。あまりすっきりしていない顔だ。
 のろのろと僕の隣に来て、冷蔵庫から麦茶を取り出す。紺ちゃんお気に入りの、うっすいやつ。無地のロングTシャツ一枚から伸びる生脚がちらりと見えて、目を逸らした。
「起きてたの」
「うん」
「寝れないの」
「なんかね。原稿も進まないし。でも眠くないから、部屋でぼーっとしてた。お腹すいた」
 冷蔵庫を開けても、すぐ食べられるようなものはない。晩ごはんは食べ切れる量しか作ってないから余りもない。
 棚の中には少しだけお菓子が入っているけれど、チョコレートとか、ポテチとか、そういうのばっかりだ。こんな時間に食べるものじゃない。
「この時間に食べるものなんか、何もないよ」
「お腹いっぱいになったら寝れるかなって思ったんだけど」
 コンビニ行こうかな、と呟いているけれど、何を買うつもりなんだろう。一応、コンビニは徒歩圏内にあるけれど、この時間に一人で徒歩ではあまり行かせたくない。奥沢は閑静な住宅街ではあるけれど、絶対安全とも言えない。
 がさごそと棚の中を漁っていると、袋ラーメンが一つだけ出てきた。さっぱりした塩のやつ。
「あ、それ食べる」
「ラーメン? この時間に?」
「夜食の定番でしょ。え、何、智はこういうのしないの?」
「しないよ。お腹すく前には寝てるし」
「そうだった」
 一緒に寝るときも、僕が先にベッドに入って、紺ちゃんより先に寝てしまっているし。紺ちゃんがいつ寝ているのか分かっていない。キーボードを打っている音を聞いていると、いつしか寝てしまっている。
 僕は紺ちゃんみたいに夜ふかしはしないタイプなのだ。リリちゃんの配信が深夜にあったときは諦めて寝ることも多々ある。スパチャだけはリアタイで投げるけれど、動画を見るタイミングは自由だ。それに夜ふかししたくとも、できない。仕事がある。
 鍋をコンロにかけ、沸騰するのを待っている間、紺ちゃんは自分で作ると申し出てくれたけれど、いいよといって断った。
 野菜はいらないというから、麺だけの簡単なラーメンになる。これがいいのだと紺ちゃんは言う。柔らかい麺がいいとリクエストされたから、ちじれた麺をほぐしながら、ちょっと長めに煮る。
「智は雑な生活を知らないから分からないのよ」
「別に丁寧な生活を送ってるつもりもないけど」
「そうは言うけど、だいぶ丁寧だと思うよ。生活が趣味なだけある」
 趣味といえば趣味だけど、気が付いたらそうなっていただけで、別に意識的にしているつもりはない。けれど、紺ちゃんがそう言うのなら、そうなのだろう。言葉にするのが得意な紺ちゃんが、そう言うのなら。
 紺ちゃんがいなかったら、もう少し、雑な生活をしていたと思うし、この家もすぐに手放していただろう。庭の手入れをするのも、家の手入れをするのも、別に苦じゃないけれど、一人で過ごすというのが苦痛だったから。
 こんな時間にラーメンを煮てるのだって、紺ちゃんがいなければしなかった。
 二人で鍋を見ているこの時間が好きだなと思う。こういうの、きっと紺ちゃんなら、もう少し叙情的に書くんだろうけど、僕は簡単な言葉にしかできない。
 粉スープを入れると、キッチンに香りが広がった。紺ちゃんのお腹がくう、と鳴る。なんだか僕もお腹が空いてきた。このあと寝れるだろうか。時計を見る。もう夜食より朝食にしたほうが良さそうな時間でもある。微妙な時間だった。二度寝はしないほうが良さそうだ。
「分けて食べよう」
「あ、うん。確かにそれがいい」
 半分に分けて、ダイニングテーブルに運ぶ。二人で使うには大きすぎる、両親が残した、重厚な木製のもの。向かい合って座った。
 肩の下まで伸びた髪をひとつにくくって、できたての麺を啜る。僕も一緒になって一口啜った。しょっぱくて、安っぽい味がする塩ラーメンだった。麺は汁を吸ってくたくたになっている。これが紺ちゃんのお気に入りなのかと思いながら咀嚼した。
「夜食ってこういうものなの?」
「こういうもんなの。袋ラーメンを蔑むつもりはないけど、こういう雑な味がいい」
「ふうん、そうなんだ」
 一人だったら、絶対やらないな。それが感想。紺ちゃんが食べたいと言ったから。
 彼女の言う良さは分からないけれど、でも、二人で変な時間にこういうものを食べるという行為そのものは、好きかもしれない。
 夜ふかし気味の紺ちゃんの生活リズムには合わせることができないけれど、いつ起きても紺ちゃんがいるというのが何より嬉しかった。
 半分に分けたラーメンはあっという間に終わった。紺ちゃんはしょっぱいスープまで全部飲み干してしまう。
 紺ちゃんはいつもそうだ。麺類のスープはほとんど飲んでしまう。しょっぱくないのかと聞いたら、しょっぱいからいいのだと言う。紺ちゃんのそういうところも好きだった。
 几帳面そうな顔をしていて、実のところ、結構がさつで大雑把なところが。この家でだけ見せてくれていそうなところが。
 カーテンの隙間から、ほのかな光が見える。もう朝だ。夏の朝は早い。
「食べたら眠くなってきた。寝る」
「休みだったら僕も寝たんだけどな」
「もう起きるの? 二度寝したら? もうちょっと寝れるでしょ」
「絶対、寝過ごすから、もう起きるよ」
 階段まで見送りに行く。仕事が休みだったら、僕も一緒に上がるんだけどな。少し、名残惜しい。
 ふと階段の途中で立ち止まった紺ちゃんは、ふらつきながら振り向いた。
 この風景、前にも見たことがあるな。バーチャルのリリちゃんが引退を決めた時だったっけ。
「ちょっとさみしい」
 寂しいんじゃ、智は。そうじゃろ。
 彼女が欲しかったのも、そうじゃ。寂しかったんじゃ。そうじゃろ。智、寂しいんじゃ。
 前はそう言われたけれど、今度は逆だった。
「紺ちゃんが?」
「ん」
 おやすみ、と言って、だだだと階段を駆け上がっていく。その時、一瞬だけ、ロングTシャツの中が見えた。僕は階段の下でずるずると蹲る。
 今日が休みだったらなあ。紺ちゃんと一緒に昼まで寝るというのも、やってみたい。たまには、雑な生活をしてみたい。自分一人ではしないような生活を。
 溜息をついて、立ち上がる。嘆いていても仕方がない。
 リビングに戻ってカーテンを開けると、夏の朝日が僕を迎えた。今年もたくさんの葵が咲いた。紺ちゃんと一緒に種を蒔いた葵たちだ。すっとまっすぐに伸びる姿を見ていると、気持ちがいい。
 また一日の生活が始まる。
 窓を開けて、庭に出て、ホースを引っ張った。
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