5章 浅葱智哉

 新幹線に乗るのはいつぶりだろう。中学校の修学旅行以来だったかもしれない。
 福山までおよそ三時間。その間、ずっと紺野さんから連絡が返ってこないかとスマホを握りしめていたけれど、動きはなかった。
 ライブは夕方からで、一回のみだった。二人は昨日、来てくれる人を、本気でもてなす、と意気込んでいたから、こっちはとても楽しみだった。
 楽しみと緊張で、感情がめちゃくちゃになって、新幹線の中では一切寝れなかった。どっちに意識を置いておけばいいか分からなくて、紺野さんのことと、ライブのことで気持ちが反復横跳びをしていた。
 新大阪、姫路、岡山、そして福山。
 いつもの大きな黒のリュックを背負う。リリちゃんはずっとつけっぱなし。
 新幹線から降りると、お城が目に入った。福山城だった。駅の近くにお城があるのが、とても新鮮だった。
 バス乗り場に向かう途中、何人も、黒っぽい服を着ている人とすれ違った。そのどれもが紺野さんじゃないかと思って、ついつい顔を見てしまう。
 市内循環バスに乗って、会場に着く。
 開場の時間になって、スタッフの誘導が開始された。東京みたいにめちゃくちゃ人が多いわけではないので、スムーズに流れていく。
 僕は時間ギリギリまで外にいたけれど、紺野さんは来なかった。
 諦めたほうがいいのかもしれない。リリちゃんと越智さんのライブだけ楽しんで、終わったらすぐに東京に帰ろう。ホテルも予約してないし。そう考えながら入場した。
 何かのライブに行くというのも初めてだったから、グッズとかも特に用意しなかった。もらったチケットはど真ん中の席だったから少し恥ずかしい。
 画面越しに応援していたリリちゃんと越智さんがステージ上に出てくる。
 僕の家に突然遊びにきたちゃらちゃらのリリアさんと越智さんではなかった。二人は、アイドルとシンガーソングライターだった。
 二人はステージの上に、僕らの理想を作り上げていた。
 二人で挨拶の一曲歌ったあと、越智さんは一度バックに戻る。まずはリリちゃんのソロステージ。衣装も、バーチャル時代に着ていたものだった。僕らが推した二次元のリリちゃんが存在していた。バーチャル時代の曲をたくさん歌った。これには大歓喜だった。僕と同じように、周りの人はバーチャル時代のリリちゃんからリリちゃんを応援している。僕らは、ずっと、バーチャルリリちゃんが大好きだ。
 リリちゃんが手を振れば、僕らも手を振り返す。
 感極まって立ち上がった時、ポケットに突っ込んでいたスマホが震えた。マナーモードにするのを忘れていた。
 もしかして、と思って、こそこそとロビーに出る。
『ごめん。今着いた。会えるかな』
 紺野さんからだった。
 それを見た瞬間、走って外に行った。
「紺野さん」
 ロビーの入り口で、スマホを握りしめたまま立っていた。声をかけると、紺野さんは顔を少し歪める。
「ごめん、返事しないし、遅刻するし……」
「いい。いいから。早く」
 紺野さんにチケットを握らせ、僕は再入場のためにスタッフにチケットを見せる。
 ちょうど入ると、僕の一番好きな歌を披露していた。
 紺野さんは隣でちょこんと座って見ていたけど、僕は全力で応援した。
 もう紺野さんには、その姿を何度も見られている。前からキモイと思われていた。今更だ。
 疲れを感じてきたところで、第一部が終わる。
「やっぱり、リリコグッズ、捨てなくて、良かったじゃん」
「うん」
「私も、いいなって思うよ。黒鉄リリコ。きらきらしてるし、かわいいし。歌も上手だし」
「うん」
「遅刻しなきゃよかった。最初から見ればよかった」
 紺野さんがどうして遅れたのかを聞く前に第二部がはじまった。ここからは新星リリコのステージになる。どれも越智さんがリリちゃんのために作った歌だ。
 越智さんが路上で歌っているのを初めて見たとき、僕は紺野さんに振り回されていた。遊びに行きたいからついてこいと言われて、紺野さんの一人遊びに付き合っていた。ずっと帰りたいって思っていたし、越智さんのあのへんてこな歌を聴いてもっと帰りたくなった。
 越智さんはずっと、怖い人だと思っていたし、今もちょっと苦手だと思う。
 でも、越智さんの作った歌は、どれもリリちゃんにぴったりだったし、聞き心地も良かった。紺野さんの言う通り、きらきらしてて、かわいい。
 新星リリちゃんも大好きだ。ここにいる人たちは、みんな、新星リリちゃんを受け入れた人たちで、越智さんのファン。
 リリちゃんも僕らのことを大切にしてくれるし、越智さんも大切にしてくれる。
 僕らは、お互いに、大好きだよと伝えあっている。
 リリちゃんのステージが終わったあとは、越智さんの単独ステージになった。越智さんが越智さんの曲を歌う。
 ゆったりとした曲だった。熱気に包まれた会場を鎮めて、現実に戻っていく僕らの背中を押すような、そんな曲だった。
 それを聴いていた紺野さんが、ぽろぽろと泣いているのを見て、僕はかなり驚いた。
 お酒を飲んでいない紺野さんが泣いているのを久しぶりに見たからだ。この前はいつだったっけ。紺野さんが捨てていた原稿を渡した時だったっけ。
 ライブが終わっても、紺野さんはずっと席に座ったままだった。右手にハンカチを握りしめて、情けない顔で僕を見上げる。
「余韻がやばい」
「そんなに良かったの」
「最後の越智さんの曲、いちばんぶっ刺さった……二人とも、すごいね」
「紺野さん、語彙死んでるオタクになってる」
「うるっさい」
 なかなか立ち上がれない紺野さんの手を握って、会場を後にする。
 紺野さんの綺麗な髪が、秋の爽やかな風に乗っていた。僕らはバスではなく、徒歩で駅まで向かうことにした。
 ライブの感想を言い合うわけでもなく、ただ黙って歩いた。
 横を走る車が途切れた時、ようやく僕は紺野さんに聞いた。
「なんで遅くなったの」
「智と会うかどうかでずっと悩んでた」
「なんで」
 すぐに答えは出てこなかった。どんな言葉を使って伝えたらいいか、頭の中で整理整頓しているような間だった。
 一回溜息をついたあと、ゆっくりと理由を語った。
「なんとなく、智は、たぶん、私と一緒にいたいんだろうなって思ってた。私も同じで、智の家で智と生活しているのが簡単に想像できた。でも、私はどうしようもない女だから、これ以上、智と一緒にいて、ますます智をその気にさせたらまずいって思ったわけ。智に甘えてばかりなのも、なんだか、いけないなって思ったし」
 紺野さんは僕の手を握ったまま、歩道のブロックの上を歩く。
「私、土井谷さんのことがあって、男の人がちょっと怖くなったってのもあって。でも、智はこの一年、私に対して、何の間違いも犯さなかった。人を大切にできる、優しい男なんだなって思ったし、越智さんやリリアさんが智を好きになるのも理解できた。そんな人、私にはふさわしくないって思ったの。智にはもっといい人がいるって。智と同じように、智を大切にできる人が、私の他にいるはずだって」
「そんなことないし、そんな人、紺野さん以外いない。紺野さんがいないと、家が静かで寂しい。うちに来てよ。一人じゃ、寂しい」
 その瞬間、紺野さんはブロックから足を踏み外して落ちてくる。ふらつく細い身体を抱きしめた。
 紺野さんから、僕の家のにおいが抜けきっていた。知らない家の、知らない柔軟剤の香りがする。それが凄く寂しかった。たった数ヶ月離れただけで、こんなにも他人になってしまうのか。
 それが、嫌だ、と思った。
「僕の家は、僕の好きなものでいっぱいにしたい。一年前は紺野さんからうちに来たけど、今度は僕が、紺野さんを招きたい。うちに来て、紺野さん」
「ニートの三十一歳の永遠の落選作家のどうしようもない女でもいいって言うの」
「いい。だから、うちに帰ってきて。紺野さんが好き。紺野さんと一緒に生活がしたい。僕と付き合ってください」
 首元で、紺野さんは小さく頷いた。 

 
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