5章 浅葱智哉

「もう、一人で大丈夫よね。私たち、この家から出ていくことにしたから」
「智哉は日本にいたほうがいいだろう。この家、好きに使ってくれ」
 父と母は、そう言って、僕にこの家を譲った。二人は北欧の家具が好きで、マニアと言ってもよかった。二人は僕を日本に置いて、北欧に移住した。それから一度も帰ってきていない。
「もう、私は不要でしょ。智はもう大丈夫。私はいないほうがいい」
 紺野さんは、そう言って、福山に帰った。その理由は分からなかった。
 また、大きな家が、静かになる。
 僕の好きなものは、いつも、家から出ていく。
 だから、今度は、僕が好きなものを家に招こうと思った。

 ◆


 職場の飲み会が終わって、越智さんをアパートまで送ったあと、スマホで時間を見た。
 予定よりかなり遅くなってしまった。リュックの中に入れていたヘッドホンをつけて、電車の中でリリちゃんの配信を見る。でも、流れが分からなかったから、『いつも配信ありがとうございます』と簡単なコメントをつけて、スパチャを送った。
 家に帰ってきた時、紺野さんはソファに寝転がって、うたた寝をしていた。テレビがついていたから、寝落ちしたんだろう。
 風邪をひいたらいけないと思って、肩を揺すって起こすと、おかえり、と言われた。だから、ただいま、と返した。
 家事全般が苦手な紺野さんは、案の定、晩御飯を食べていなかった。別にいらない、と強がっていたけれど、腹は正直に鳴っていた。
 冷蔵庫の中には、ニラと卵と豚肉があったから、それを適当に炒めて、白米と一緒に出した。
 越智さんのためにコンビニに入ったとき、プリンを買っていたから、僕はそれを食べる。
「一次会だけって言ってたのに、随分と帰り遅かったね」
「越智さんを家まで送ったんです。かなり酔ってたんで。なんか色々愚痴を聞かされました」
「そうなんだ」
「そのあと、泊まっていってって言われましたが断りました」
「えっ」
 紺野さんの箸が止まる。
「なんで。ねえ、なんでなの。泊ってきてよかったのに。せっかくのチャンスだったのに。それ、ぶっちゃけ、告白と同じことだよね。快挙じゃん。浅葱君が誰かから告られるのって、後にも先にもこれだけだったかもしれないのに」
「紺野さんは、好きでもない人と付き合えるんですか」
「試してみる価値があるって言いたいの。越智さん、かっこよかったじゃん。歌ってる曲はちょっと理解できなかったけど」
「嫌ですよ。越智さんみたいなタイプ、正直、怖いから」
 そう言うと、呆れたような顔をした。
「ほんとに彼女欲しいの? あんまり本気に見えないんだけど」
 その質問は、それから何度も繰り返された。
 紺野さんが来てから、マッチングアプリもあまり使わなくなったからだ。
 紺野さんは、この家にいる代わりに、僕に彼女ができるようにとあれこれ言ってくるようになった。マッチングアプリの状況はどうなんだと聞いてきたり、相談所を使ってみないかと提案してきたり。
 十二月に入って、リリアさんに会ってみなよ、と背中を押してくれたのも、紺野さんだった。
 リリアさんからダイレクトメールが来ていたことをずっと黙っていたけれど、無視していいかどうかも分からなかったから、紺野さんに助けを求めたのだ。
「お金取られたり、無理矢理ホテルに連れて行かれたら、それは逃げてきていいから」
 お金は取られなかったけれど、無理矢理ホテルに連れて行かれたから、その通りにして逃げた。
 家に帰ったあと、紺野さんはかなり心配してくれて、どうしたのかと聞いてきたけれど、僕はうまく言えなくて、部屋にこもった。
 部屋には、神棚と呼ばれるクリアケースを置いている。リリちゃんを見ると、余計につらくなって、敷きっぱなしの布団にもぐりこんだ。
 リリちゃんとリリアさんは別なんだと自分に言い聞かせて、しばらくはリリちゃんを応援することにしたけれど、正月を過ぎて、リリちゃんは引退を発表した。
 それを聞いた瞬間、リリちゃんのグッズを全部、燃えるゴミにしたくなった。
 今までの応援はなんだったんだ。激しい怒りに襲われて、いてもたってもいられなくて、部屋から飛び出した。
 紺野さんは、いつものように、縁側に座ってビールを煽っていた。寒いのに。
「それちょうだい」
「は?」
「僕も飲む」
「冷蔵庫に一本まだある」
 確かに冷蔵庫には、一本のビールが残っていた。味は苦手だったけど、飲めなくはないので、紺野さんの隣で胃に流し込んだ。
「なんかあったん」
「リリちゃん、引退だって」
「ああ……、そんなんじゃ。じゃあ、仕方ない」
 たまに、紺野さんは酔うと、地元の訛りが出る。広島の福山って言ってたっけ。
 原稿がうまくいってなくて、今日は飲んでいるとのことだった。紺野さんの後ろには、既に三本の空き缶がある。いくらなんでも飲みすぎだった。
「いつからリリちゃんのこと応援してたの」
「両親が家を出てからだったと思う。二年くらい前かな」
「寂しかったんじゃ」
「さあ……、どうだろう」
「彼女が欲しかったのも、そうじゃ。寂しかったんじゃ。そうじゃろ。智、寂しいんじゃ」
「もういい。紺野さん、飲みすぎ。もう寝て」
 やー、と情けない声を出す三十路を二階に送った。
 階段の途中で振り返って、落ちそうになりながら紺野さんは言った。
「あ、もしかして、私がいるから、本気になれないってこと?」
「違うよ。寝て」
 ははは、と笑って、それからおやすみ、と言って、紺野さんは部屋に戻った。
 部屋に戻ったら、壁一面のリリちゃんが僕を迎えた。
 紺野さんの言う通りだ。紺野さんが言葉にしてくれて、ようやく分かった。
 僕は寂しかった。
 リリちゃんを応援するようになっても、配信が終わって、現実に戻ってくれば、僕は一人だし、家は静かだった。
 クリアケースにリリちゃんを飾ったら、結構満足した。でも、それで家が賑やかになるわけではなかった。
 楽しかった、の後にくる、虚無感。
 好きで応援している。リリちゃんを支援してきたことに後悔はない。それで満たされる部分はある。
 でも、完全ではなかった。
 だから、マッチングアプリを使うようになった。埋めたかったんだと思う。リリちゃんでは満たされない部分を。
 紺野さんのおかげなのか、越智さんだけでなく、リリアさんからも告白された。
 でもそれも断った。正直、怖かったし、リリちゃんのこともあったから。
 何度も、リリちゃんグッズを捨てようとした。そのたびに、紺野さんには止められた。
「やめな。それだけはやめな。智がいちばん大切にしているリリちゃんが、傷ついたままになる」
「でも、もうリリちゃんは帰ってこない。リリアさんのこともあるしつらい」
「智だって言ってたじゃん。リリアさんとリリちゃんは違うって。それも否定するってことになるよ。智が好きなリリちゃんが傷つく。だからやめな」
「紺野さんだって、原稿捨てたくせに」
「間違いだったって思ってるよ。智が拾ってくれたから気付けたんだよ。だからやめな。せめて数か月。それで、もういいってなるんだったら捨てていい」
「数か月ってどのくらい」
「夏になるまでくらいかな」
 そうしている間に、春になった。
 リリちゃんは、バーチャルの身体を捨てて、突然復活した。
 そしてその数日後、リリちゃんの隣には越智さんがいた。この時はかなり驚いた。
 紺野さんと一緒に見た。すごいね、と紺野さんが言うから、頷いた。
 紺野さんの言う通り、捨てなくて正解だった。僕の好きだったリリちゃんは、僕の好きだったリリちゃんのままだったし、今のリリちゃんは今のリリちゃんとして好きになれた。
 スパチャも送った。その瞬間、越智さんとリリちゃんは、ちょっとだけ嬉しそうな表情をした。
 それからまた、紺野さんは聞いてくる。
「で、智は、まだ彼女欲しいって気持ち、あるの」
 すぐにはっきりと答えられなかった。
「もう二回も告白された実績があるんなら、私、もう不要な気もするけどな」
「彼女ができるまではいてよ」
「そう言うんなら、そうするけど」
 執筆すると言うから、コーヒーを淹れてあげた。紺野さんがコーヒーがいると言うから、年始のセールを利用して道具を一式買ったのだ。豆も紺野さんの好きなものだった。
 紺野さんがいなくなったら、それも不要になる。僕はコーヒーより紅茶派だから。
 紺野さんがいなくなったら――ということを、まだ考えたくなかった。
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