4章 土井谷雅紀
一週間後、紺野さんはきちんと原稿を持ってきた。
さらに一週間後、締切直前の原稿を持ってきた。
もうこれ以上、よくなる気がしません。何回も彼女は弱音を吐いた。彼女を励まして、最後に酒を飲んだ。
投函前の緊張を和らげようと、俺から誘ったのである。紺野さんは、一杯だけ、と言って応じた。
黒柳は度数の高いワインを持ってきた。やっぱりお前は、酒に毒でも入れているのか。
黒猫は夜になると、照明の明るさが少し落ちる。完全なバーとなり、客層もがらりと変わる。
「分かっています、私、全然、いいもの書けてないって、分かってます。でも、書いてないほうが、つらい」
緊張が和らぐどころか、紺野さんは目に涙を浮かべていた。
酒が入ると、泣くタイプだったのか。それとも黒柳の毒にやられているのか。分からないが、紺野さんはいつもの紺野さんではなかった。
私は一直線じゃない。彼女がそう言った理由が分かった。
外に見せてこなかったのだ。自分が迷いと不安に溢れていることを。
健気な女だ。本当に。そういうところに、どうしても惹かれてしまう。
黒柳が温かいお手拭きを持ってきてくれたので、紺野さんに渡した。水も一杯飲むように言う。
しばらく経って紺野さんが落ち着いたところで一緒に店の外に出て、バス停まで向かう。
バスが来るまで、紺野さんはずっと俺に謝り続けていた。
「ごめんなさい。土井谷さんに悪いことをしました。この公募がダメだったら、本にしてみようかなと思っているものが一つあるんです」
「そうなんですか」
「長編で、あと少しで書き終わるんですけど……、たぶん、そっちのほうが、書きたいことが書けている気がするんです。今度は、ちゃんと、お仕事として……」
「あの、紺野さん」
細い手首を握る。
「仕事として会ってくれるのも嬉しいんですけど、仕事じゃなくても会ってくれませんか」
言った瞬間、紺野さんは思いっきり手を引いて、俺から逃げた。
「……待ってください。今まで私によくしてくれたのは、そういうことだったんですか」
じわじわと、怒りの熱が言葉にこもってくる。
「私を、作家ではなく、女として見ていたんですか」
「いえ、もちろん、作家として関わってきましたよ。紺野さんの本を作りたいというのも本当です」
紺野さんから「ダメだったら」が出てきてから、俺はかなり焦っていた。
次なんてあるのか?
紺野さんは公募が終わったら、なんて言っているが、気が変わるかもしれない。
今まで、仕事に繋がらなかった作家はみんなそうだ。考えます、と言って、連絡を寄越さなかった。考えているフリをして、こちらを油断させて、そのまま連絡を絶つのだ。
紺野さんだって、そうかもしれない。村上と同じで、使い終わったら俺を捨てる可能性だってある。
だったらいっそ、紺野さんに好意を伝えてしまったほうがいいのではないか。
そんな思いが、俺を突き動かしていた。
「紺野さんの本も作ってみたかったし、紺野さんのことも好きなんです」
「やめてください。一緒にされたくありません」
一歩近づくと、一歩逃げられる。
「結局、土井谷さんは、私の作品を利用していたってことですか。私が物書きであることを利用していただけですか」
「違う、そういうわけでは」
「もういいです。もう関わらないでください。作品にも、私にも。評価に、余計な感情を持ち込まれたくありません。土井谷さんが、そういう編集者だと見抜けなかった私が馬鹿でした」
ありがとうございました。
冷たく言い放って、紺野さんはどこかに走って行ってしまった。
さらに一週間後、締切直前の原稿を持ってきた。
もうこれ以上、よくなる気がしません。何回も彼女は弱音を吐いた。彼女を励まして、最後に酒を飲んだ。
投函前の緊張を和らげようと、俺から誘ったのである。紺野さんは、一杯だけ、と言って応じた。
黒柳は度数の高いワインを持ってきた。やっぱりお前は、酒に毒でも入れているのか。
黒猫は夜になると、照明の明るさが少し落ちる。完全なバーとなり、客層もがらりと変わる。
「分かっています、私、全然、いいもの書けてないって、分かってます。でも、書いてないほうが、つらい」
緊張が和らぐどころか、紺野さんは目に涙を浮かべていた。
酒が入ると、泣くタイプだったのか。それとも黒柳の毒にやられているのか。分からないが、紺野さんはいつもの紺野さんではなかった。
私は一直線じゃない。彼女がそう言った理由が分かった。
外に見せてこなかったのだ。自分が迷いと不安に溢れていることを。
健気な女だ。本当に。そういうところに、どうしても惹かれてしまう。
黒柳が温かいお手拭きを持ってきてくれたので、紺野さんに渡した。水も一杯飲むように言う。
しばらく経って紺野さんが落ち着いたところで一緒に店の外に出て、バス停まで向かう。
バスが来るまで、紺野さんはずっと俺に謝り続けていた。
「ごめんなさい。土井谷さんに悪いことをしました。この公募がダメだったら、本にしてみようかなと思っているものが一つあるんです」
「そうなんですか」
「長編で、あと少しで書き終わるんですけど……、たぶん、そっちのほうが、書きたいことが書けている気がするんです。今度は、ちゃんと、お仕事として……」
「あの、紺野さん」
細い手首を握る。
「仕事として会ってくれるのも嬉しいんですけど、仕事じゃなくても会ってくれませんか」
言った瞬間、紺野さんは思いっきり手を引いて、俺から逃げた。
「……待ってください。今まで私によくしてくれたのは、そういうことだったんですか」
じわじわと、怒りの熱が言葉にこもってくる。
「私を、作家ではなく、女として見ていたんですか」
「いえ、もちろん、作家として関わってきましたよ。紺野さんの本を作りたいというのも本当です」
紺野さんから「ダメだったら」が出てきてから、俺はかなり焦っていた。
次なんてあるのか?
紺野さんは公募が終わったら、なんて言っているが、気が変わるかもしれない。
今まで、仕事に繋がらなかった作家はみんなそうだ。考えます、と言って、連絡を寄越さなかった。考えているフリをして、こちらを油断させて、そのまま連絡を絶つのだ。
紺野さんだって、そうかもしれない。村上と同じで、使い終わったら俺を捨てる可能性だってある。
だったらいっそ、紺野さんに好意を伝えてしまったほうがいいのではないか。
そんな思いが、俺を突き動かしていた。
「紺野さんの本も作ってみたかったし、紺野さんのことも好きなんです」
「やめてください。一緒にされたくありません」
一歩近づくと、一歩逃げられる。
「結局、土井谷さんは、私の作品を利用していたってことですか。私が物書きであることを利用していただけですか」
「違う、そういうわけでは」
「もういいです。もう関わらないでください。作品にも、私にも。評価に、余計な感情を持ち込まれたくありません。土井谷さんが、そういう編集者だと見抜けなかった私が馬鹿でした」
ありがとうございました。
冷たく言い放って、紺野さんはどこかに走って行ってしまった。