猫の日

 その日、降谷は、久々に休みらしい休みを取った。
 休みと言いつつ、あれこれと調べ物をするような事はせず、ただ純粋に休息の為の休日だ。
 自他共に認めるワーカホリックである降谷だが、三十を超えてから目に見えて無理が効かなくなった。睡眠は必要だし、腹も減り過ぎれば目眩を起こすと、漸く体が気付いたのだ。
 降谷はそれを受け入れて、休むということを覚えた。
「ほぉ、当然のことだがな」
 降谷の友人である赤井は言った。
 彼は、何故か降谷の休日を嗅ぎ取っては、毎度、うちに押し掛けてくるのだ。
 赤井の方は、去年から休職中だ。人生を仕事に費やしてきたから、家族と自分の為に休むと言っていた。
 そういう思い切りは、降谷には真似ができないところだ。
「それで、午前中はどこに?声もかけられなかったが」
「えっと」
 少し恥ずかしい。何故、誘わなかったと言われたが、明らかに赤井が興味ない所だったからだ。
「その、猫カフェに、行ってました」
「猫カフェとは?プレイボーイクラブみたいなものか?」
「いや、朝からそんなわけないでしょ」
 赤井はバニーガールもどきの猫耳ガールの店だと勘違いしていた。
「動物の猫ですよ。癒されたくて、課金を」
「ほぉ、君、猫好きなのか」
「動物はみんな好きです。好きに決まってるでしょ」
 ドン。
 テーブルの天板を叩くと、その上のマグカップが揺れた。
「疲れてるな」
 赤井はかわいそうにと呟いた。
「こんな仕事してて言うことじゃないですけど、猫を飼いたいんですよ」
「無理だな。猫カフェとやらで我慢するべきだ」
 実にもっともな事を言われた。もっともだ。しかし、優しくない。
 降谷は、テーブルに突っ伏した。
「はぁ」
 悲しい。癒されたい。可愛い生き物に触れたい。
 猫カフェに住みたい。
「前にね、梓さん…喫茶店のバイト仲間ですがね、その人が言ってたんですよ。猫を抱っこするなら裸が一番気持ち良いんですよって」
「は?」
「確かに気持ち良さそうだなって。本当に羨ましくて。梓さんのとこの猫って、大きめの雄猫なんですよ。みっちりしてて、抱っこし甲斐があるって言うか」
「いやいや、裸?そんなセクシャルな事を言うのか?セクハラでは?」
「何言ってんだ、お前。猫の話だろ」
 ついつい降谷の口調も荒くなった。
 猫の細かく柔らかな毛を肌に直接感じたら、そりゃあ気持ち良いに決まってる。ふわふわだ。こちょこちょだ。すべすべだ。
「あー、猫カフェで脱ぎそうでしたよ、もぉ」
「なっ、だっ、おいっ」
 赤井は珍しく慌てた声を出した。
「脱いでませんから」
 ごほん。
 咳払いで、赤井は先程の慌てっぷりを誤魔化した。
「恋人でも作ったらどうだ?ようは寂しいって事だろ?」
「毛深い?」
「ん?」
「その、恋人は毛深くでふわふわですか?」
「いや、毛は薄い」
「失格です。お呼びでないです」
 裸で猫を抱っこできたら、人生に悔いがない気がする。いや、まだ死ぬ気はないが、死ぬまでに叶えたい事のナンバーワンだ。
 はぁ。
 降谷は数回目の溜息をついた。
 ドン
 今度は赤井がテーブルの天板を叩いた。
「よしっ、俺が猫を飼う」
「へ」
 思わず突っ伏していた顔を上げた。
 赤井は至って真面目な顔をしていた。
「動物を飼ったことはないが、君の為だ」
「いや、貴方には無理です。まず、煙草吸うな」
「禁煙する」
 信じられない。だが、降谷の為にそこまで? 
 気持ちがグンと上向きになった。
「いっそ、一緒に飼いませんか?」
「なにっ!」
 赤井も意気込んだ声を出した。
 なんだか、それは、とても良いアイデアの気がしてきた。
「ルームシェアして、猫を飼うんです。あーでも、僕、出勤したくなくなっちゃうかなぁ」
「よしっ」
 赤井は徐に立ち上がった。
「今から、部屋探しに行こう」
「へ?え?本気?」
「当然だ。猫と暮らすマナーも学んでおくから、心配するな」
「え、漏れなく僕と暮らすことになりますよ」
「願ったりだ」
 疲れた友人の戯事だ。馬鹿か?と流してくれても良いのに。
 赤井は、たまに、驚くほど慈悲深い。
 降谷の気持ちは、明日からバリバリ働けるくらいに立ち直った。
「貴方、意外と僕のこと好きだったんですね」
 赤井の気持ちが、ささくれた心に沁みたのだ。
「…それを今更言うか」
 赤井は、苦笑いでそう返した。
 こうして、奇妙な勢いで、二人は同居を決めたのだった。
 この時は、裸で抱っこするのは猫だけじゃないなんてオチが待っているなんて、思ってもなかった降谷なのであった。
1/1ページ
    スキ