夜の話
ふと、窓の向こうが気に掛かり、降谷は頬杖をついたまま顔を上げた。
すっかり、外は真っ暗になっていた。
「…もう、こんな時間か」
独り言は、久しく声を発してなかったせいで、掠れて音にならなかった。
こんな夜に、自分は一人なのか。
亡き友たちを思い出し、ほんの少し涙が溢れた。
降谷にとって、事件が自分の居場所だ。決まった棲家すらない。この部屋も、事件が解決した今では、引き払うだけ。
仮初の棲家は、すっかりがらんとしてしまった。
残ったのは、テーブル一つ。そこに座り込む降谷一人。
他人に擬態するための部屋だった。ここの住人は人当たりが良くて、友人知人が山程いたが、降谷本人には、誰も居ない。
こんな夜に、誰にも会えないとは、なんと、寂しい人生か。
ブブブブ…
テーブルでスマホが震えた。
画面の表示はA。他国のエージェントの赤井秀一だ。
「はぁ」
溜息は、先ほどの独り言より、よほど大きかった。
電話には出ない。
話したくないのだ。何を話せば良いのか分からないのだ。
赤井はいいなぁ。
なんて、馬鹿なことは思った。
赤井の周りには、家族も友人も、仲間も…きっと恋人も居る。
こんな夜に一人なんて、そんな惨めな目に遭わないのだろう。
「酒を飲もう」
そう決めたのに、降谷は腰を上げることもできなかった。
暫く座り込んでいると、ガチャっと開錠の音がして、部屋が急に明るくなった。
「っ?」
眩しさに細めた目に、黒尽くめの大きな影が、ぼんやり見えた。
「なんで電話に出ない」
赤井だ。電話を寄越したくせに、結局は直接押し掛けてきたのだ。
「鍵、こじ開けました?」
「いや、合鍵を持ってる」
いつの間に?いつから好きなように出入りしてた?
聞こうとしたが、どうでも良くなった。
「ほら、支度しろ」
「?何?」
投げつけられた上着を受け取りはしたが、降谷は言われた事を理解しなかった。
「明日、君は拘束される。知ってるだろう?」
「通告を受けました」
「親切だな」
「…それまでに首を括れと言ってるんですよ。手間を省きたいだけです」
降谷は警察をクビになった。
否、元から籍が無かった。復帰は許されず、捜査中の違法行為を理由に逮捕されるらしい。
「どうするつもりだ?」
大人しく死ぬのか?赤井はそう聞きたいのだ。
「僕が死ねば、色々と不都合な物が表に出る事になります」
「ほぉ」
「それは本意ではないので、死にません」
日本を混乱させたいわけではない。
「皮肉だな」
赤井は笑った。
「なら、君はそのたくさんの秘密を抱えてどこへ逃げる?」
「…逃げるとこなんてないです」
「そうか」
話はそこまで。
赤井は、動こうとしない降谷を引っ張り立たせ、上着を着せ、乱れた髪を撫で付け、カサカサの頬をペチンと叩いた。
「しっかりしろ。ほら、荷物を纏めるんだ」
降谷の目を覗き込み、そこにあったバッグを押し付けた。
「パスポートもカードも置いていけ。持っていけるのは現金だけだ」
何を言われているか理解するのに数秒かかった。
「二時間後には厚木から出国する」
そして、赤井は思った通りのことを言ったのだった。
「日本警察は物の価値が分かってないな。君の頭の中がどれほど素晴らしい記憶の宮殿か知らないんだ。どこの国も欲しがっているぞ」
「僕は、どこに、行くんですか?」
「米国に来い」
「嫌です」
「あははは、君は本当に面白いな」
反射的に断ったのに、赤井は実に面白そうに笑った。だが、目はこれっぽっちも笑ってなかった。
「ふん縛ってでも連れてくぞ」
「やれる物なら」
降谷は答えた。
久々に、血が体を巡った。心臓から、降谷の死にかけた頭へ、それから戦いたいと握った拳に。
とっくに諦めたと思ったのに、この男と向き合うと、降谷の心は蘇ってしまう。
「ふむ、君と殴り合ってへとへとになってから引きずって行くとなると、時間がかかり過ぎる」
握った拳は、赤井がそっと包み込んだ。
「君に一日の猶予を作ってくれた誰かの為にも、大人しく着いてきてくれ」
優しい仕草だ。初めは挑発したくせに、今度は不器用に降谷に寄り添おうとしている。
「君の部下だった男だ。俺に頭を下げてまで、君を守りたいと」
「風見?」
降谷の巻き添いで、損を被った部下だ。減給と停職を言い渡された筈だが。
「てっきり、恨まれてると」
「君の延命の為に、必死で駆けずり回っている」
「バカだな、クビになるぞ」
ぽつっと呟いた。涙声になってしまって、赤井に聞かせるのは恥ずかしかった。
「さて、各国の捜査機関が、喉から手が出るほど君を欲しがっているが、俺が一番乗りだったな」
赤井は降谷の手を握ったままだ。
「僕が貴方と行くとでも?」
「他の誰かに君を渡すと?ありえない」
ぎゅっと握る手に力が籠った。
「君は俺のものだ、ずっと、前から」
「はぁ?」
「五年前、初めて会った時からな」
皮肉げで悪戯っぽい笑顔。このチャーミングな笑顔で周りの全ての人間が絆されてきたのだ。
どうせどこにも道がないなら、この男に任せても良いか。
降谷も絆されてしまった。
「ほら、時間はないぞ、身一つで行くつもりか?」
「…別に、何も持ってくものなんて」
言いかけて、これだけはと、愛用のモバイルを抱え込んだ。
あとは偽装した身分証と、出所を追求されると困る現金の束も持って行く。これらはどこかで処分する。
降谷は、身に付いたスパイの習性で、一分も掛からずに自分の足跡を残さず姿を消す算段を付けていた。
さっきまで、もう、どうでもいいと、捨て鉢になっていたくせに、この身一つで消えてしまえるなら、そうしたいと思っている。
ただ、友人たちとの写真が残るモバイルは、捨てられなかった。
「行くぞ」
赤井は半ば抱き込むように降谷を連れ出した。
まるで拐かされてる気分だった。
「とうとう君をこの国から奪い取った」
自分を抱き込み、慌ただしく自分の車に押し込みながら、そんな物騒な事を言う赤井を見ながら「この男が慌てるなんて、珍しいな」なんて、降谷は他人事のように思ったのだった。
ふと、窓の外が気に掛かり、降谷は飲んでいたコーヒーから目を上げた。
「あ、もう、こんな時間」
窓の外の景色が柔らかなオレンジから紫色へグラデーションを描いていた。
「夕飯、何にしましょうか」
テーブル越しに男に問いかける。
「君の作るものなら何でも」
赤井は手を伸ばし、降谷の手に重ねた。
「何でもは無し」
「では、サーモンを」
「良い提案です」
ここは、二人で暮らすアパートメントだ。自ら壁を塗り、棚を作り、キッチンを改装した。正しく降谷のお城である。
「ワインはあなたが選んで」
「あぁ、任せてくれ」
見つめ合い、キスを交わす。
降谷が、米国に渡って一年が経っていた。
その間に、何故か、散々憎んだ男と恋人になり、揃いの指輪をするまでに愛し合っている。
だが、それも仕方ない。全て無くした降谷に、全てを与えたいと尽くした男だ。赤井の惜しみない愛は、降谷の傷を癒した。
そこまで必死に愛を請われたら、いくら鈍い降谷でも気付く。
この男ほど自分を愛する人は居ないと。
「人生って、思いがけないことばかりですね」
「ん?」
自分が作ったお城があり、しかもそこに一人ではない。こんなふうに、のんびりと休日を一緒に過ごせる恋人がいる。
「幸せです」
赤井は目を細め、降谷を見つめていた。
「俺もさ」
こだわって作り上げた棚の一番良い場所には、友人たちと撮った写真が飾られている。
あの日、唯一持ち出したものだ。
あれから日本には一度も帰ってない。多分、二度と戻れないだろう。それでも…。
やはり降谷は幸せだと、目の前の男を見て思うのだった。
すっかり、外は真っ暗になっていた。
「…もう、こんな時間か」
独り言は、久しく声を発してなかったせいで、掠れて音にならなかった。
こんな夜に、自分は一人なのか。
亡き友たちを思い出し、ほんの少し涙が溢れた。
降谷にとって、事件が自分の居場所だ。決まった棲家すらない。この部屋も、事件が解決した今では、引き払うだけ。
仮初の棲家は、すっかりがらんとしてしまった。
残ったのは、テーブル一つ。そこに座り込む降谷一人。
他人に擬態するための部屋だった。ここの住人は人当たりが良くて、友人知人が山程いたが、降谷本人には、誰も居ない。
こんな夜に、誰にも会えないとは、なんと、寂しい人生か。
ブブブブ…
テーブルでスマホが震えた。
画面の表示はA。他国のエージェントの赤井秀一だ。
「はぁ」
溜息は、先ほどの独り言より、よほど大きかった。
電話には出ない。
話したくないのだ。何を話せば良いのか分からないのだ。
赤井はいいなぁ。
なんて、馬鹿なことは思った。
赤井の周りには、家族も友人も、仲間も…きっと恋人も居る。
こんな夜に一人なんて、そんな惨めな目に遭わないのだろう。
「酒を飲もう」
そう決めたのに、降谷は腰を上げることもできなかった。
暫く座り込んでいると、ガチャっと開錠の音がして、部屋が急に明るくなった。
「っ?」
眩しさに細めた目に、黒尽くめの大きな影が、ぼんやり見えた。
「なんで電話に出ない」
赤井だ。電話を寄越したくせに、結局は直接押し掛けてきたのだ。
「鍵、こじ開けました?」
「いや、合鍵を持ってる」
いつの間に?いつから好きなように出入りしてた?
聞こうとしたが、どうでも良くなった。
「ほら、支度しろ」
「?何?」
投げつけられた上着を受け取りはしたが、降谷は言われた事を理解しなかった。
「明日、君は拘束される。知ってるだろう?」
「通告を受けました」
「親切だな」
「…それまでに首を括れと言ってるんですよ。手間を省きたいだけです」
降谷は警察をクビになった。
否、元から籍が無かった。復帰は許されず、捜査中の違法行為を理由に逮捕されるらしい。
「どうするつもりだ?」
大人しく死ぬのか?赤井はそう聞きたいのだ。
「僕が死ねば、色々と不都合な物が表に出る事になります」
「ほぉ」
「それは本意ではないので、死にません」
日本を混乱させたいわけではない。
「皮肉だな」
赤井は笑った。
「なら、君はそのたくさんの秘密を抱えてどこへ逃げる?」
「…逃げるとこなんてないです」
「そうか」
話はそこまで。
赤井は、動こうとしない降谷を引っ張り立たせ、上着を着せ、乱れた髪を撫で付け、カサカサの頬をペチンと叩いた。
「しっかりしろ。ほら、荷物を纏めるんだ」
降谷の目を覗き込み、そこにあったバッグを押し付けた。
「パスポートもカードも置いていけ。持っていけるのは現金だけだ」
何を言われているか理解するのに数秒かかった。
「二時間後には厚木から出国する」
そして、赤井は思った通りのことを言ったのだった。
「日本警察は物の価値が分かってないな。君の頭の中がどれほど素晴らしい記憶の宮殿か知らないんだ。どこの国も欲しがっているぞ」
「僕は、どこに、行くんですか?」
「米国に来い」
「嫌です」
「あははは、君は本当に面白いな」
反射的に断ったのに、赤井は実に面白そうに笑った。だが、目はこれっぽっちも笑ってなかった。
「ふん縛ってでも連れてくぞ」
「やれる物なら」
降谷は答えた。
久々に、血が体を巡った。心臓から、降谷の死にかけた頭へ、それから戦いたいと握った拳に。
とっくに諦めたと思ったのに、この男と向き合うと、降谷の心は蘇ってしまう。
「ふむ、君と殴り合ってへとへとになってから引きずって行くとなると、時間がかかり過ぎる」
握った拳は、赤井がそっと包み込んだ。
「君に一日の猶予を作ってくれた誰かの為にも、大人しく着いてきてくれ」
優しい仕草だ。初めは挑発したくせに、今度は不器用に降谷に寄り添おうとしている。
「君の部下だった男だ。俺に頭を下げてまで、君を守りたいと」
「風見?」
降谷の巻き添いで、損を被った部下だ。減給と停職を言い渡された筈だが。
「てっきり、恨まれてると」
「君の延命の為に、必死で駆けずり回っている」
「バカだな、クビになるぞ」
ぽつっと呟いた。涙声になってしまって、赤井に聞かせるのは恥ずかしかった。
「さて、各国の捜査機関が、喉から手が出るほど君を欲しがっているが、俺が一番乗りだったな」
赤井は降谷の手を握ったままだ。
「僕が貴方と行くとでも?」
「他の誰かに君を渡すと?ありえない」
ぎゅっと握る手に力が籠った。
「君は俺のものだ、ずっと、前から」
「はぁ?」
「五年前、初めて会った時からな」
皮肉げで悪戯っぽい笑顔。このチャーミングな笑顔で周りの全ての人間が絆されてきたのだ。
どうせどこにも道がないなら、この男に任せても良いか。
降谷も絆されてしまった。
「ほら、時間はないぞ、身一つで行くつもりか?」
「…別に、何も持ってくものなんて」
言いかけて、これだけはと、愛用のモバイルを抱え込んだ。
あとは偽装した身分証と、出所を追求されると困る現金の束も持って行く。これらはどこかで処分する。
降谷は、身に付いたスパイの習性で、一分も掛からずに自分の足跡を残さず姿を消す算段を付けていた。
さっきまで、もう、どうでもいいと、捨て鉢になっていたくせに、この身一つで消えてしまえるなら、そうしたいと思っている。
ただ、友人たちとの写真が残るモバイルは、捨てられなかった。
「行くぞ」
赤井は半ば抱き込むように降谷を連れ出した。
まるで拐かされてる気分だった。
「とうとう君をこの国から奪い取った」
自分を抱き込み、慌ただしく自分の車に押し込みながら、そんな物騒な事を言う赤井を見ながら「この男が慌てるなんて、珍しいな」なんて、降谷は他人事のように思ったのだった。
ふと、窓の外が気に掛かり、降谷は飲んでいたコーヒーから目を上げた。
「あ、もう、こんな時間」
窓の外の景色が柔らかなオレンジから紫色へグラデーションを描いていた。
「夕飯、何にしましょうか」
テーブル越しに男に問いかける。
「君の作るものなら何でも」
赤井は手を伸ばし、降谷の手に重ねた。
「何でもは無し」
「では、サーモンを」
「良い提案です」
ここは、二人で暮らすアパートメントだ。自ら壁を塗り、棚を作り、キッチンを改装した。正しく降谷のお城である。
「ワインはあなたが選んで」
「あぁ、任せてくれ」
見つめ合い、キスを交わす。
降谷が、米国に渡って一年が経っていた。
その間に、何故か、散々憎んだ男と恋人になり、揃いの指輪をするまでに愛し合っている。
だが、それも仕方ない。全て無くした降谷に、全てを与えたいと尽くした男だ。赤井の惜しみない愛は、降谷の傷を癒した。
そこまで必死に愛を請われたら、いくら鈍い降谷でも気付く。
この男ほど自分を愛する人は居ないと。
「人生って、思いがけないことばかりですね」
「ん?」
自分が作ったお城があり、しかもそこに一人ではない。こんなふうに、のんびりと休日を一緒に過ごせる恋人がいる。
「幸せです」
赤井は目を細め、降谷を見つめていた。
「俺もさ」
こだわって作り上げた棚の一番良い場所には、友人たちと撮った写真が飾られている。
あの日、唯一持ち出したものだ。
あれから日本には一度も帰ってない。多分、二度と戻れないだろう。それでも…。
やはり降谷は幸せだと、目の前の男を見て思うのだった。
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