Automatic

 実に困ったことになった。
 今、これまで山程の修羅場を潜り抜けて来た赤井にとっても、一大事と呼べるくらいの難しい局面を迎えている。
 まず、三十路そこそこで、達観したつもりになっていたのが間違いだったのだ。赤井は己への評価を書き直しながら、この困難に、どうやって立ち向かえばいいのか思い悩む。
「お互い、蟠りがあるのは承知してますけど、貴方の態度は、いかがな物かと」
 ほら、目の前で事の原因が何か言っているぞ。
 分かっていながら、赤井は、その彼と向き合うことができない。彼を馬鹿にしているわけでは無い。寧ろ、尊敬している。そうだ、その筈なのだ。
「とにかく、腹の底はどうあれ、表面的には…あ、ちょっと、待て」
 赤井は制止を振り払い、その場から走り出した。百戦錬磨、老成した男である筈の赤井は、尻尾を巻いて、逃げ出したのだ。
 なんというみっともなさだ。敵前逃亡して、薄暗い隅に隠れるしかないこの状況ときたら。
 だが、ここに赤井を笑ってくれる者はない。仕方なく、自分で笑う。
「……おい、何なんだ、お前は」
 お前と呼んだ。だが、誰もいない。そう、赤井が情けなく呼びかけたのは、己の分身、己の相棒、己の身体の一部である性器だった。
そこは、何故だか説明がつかないが、勃起していたのだった。

 降谷と赤井は、お互い、ある大事件を解決させた立役者だ。そりゃ憎まれた事もあったが、大規模作戦の時には、お互いを一番信用して命を預けられた。赤井にとって、降谷は特別な男なのは確かだ。
 それが、何故、今更、こんな風に避けなくてはならなくなったのか。それは、偏にこの誤作動が原因なのだった。
 降谷のことは好ましく思っている。親しく付き合って、酒を酌み交わしたいとも思う。だが、恐ろしいことに、彼と向き合うと、おかしな事になってしまう。つまり、勃つのだ。局部が、まるで制御できない反応を見せるのだ。
 よくよく原因を考えると、あれかもしれないなという切っ掛けがあった。
 彼とは観覧車の上で殴り合ったことがあるのだが、その時「落ちたら死ぬな」と思った瞬間に勃起した。アドレナリンが爆発して、命の危機から生殖欲を刺激されたのだ。…多分。
 そして、それからというもの、面と向かって彼と会うと、勃つようになってしまった。いや、以前は、少し反応しそうだという程度だった。それがどんどんと悪化して、今ではその顔を見る度に完璧に勃ってるという具合なのだ。
 これは、まずい。早急に何とかせねばならない。
「カウンセリングを受けようと思う」
 間借りしている警察庁のフロアの隅で、赤井は信頼できる仲間にそう打ち明けた。
「あんた、これまでクソほど発砲して来て、今更カウンセリング?」
 同僚のスターリングは呆れていた。
「赤井さんが毎回カウンセラーを脅すから、誰も担当してくれませんよ」
 同じく同僚のキャメルは尤もなことを言った。 
「それなら、個人的に予約を取りなさい」
 ボスのブラック氏は、あっさりしたものだった。
 誰も当てにならない。
 赤井は、落胆して、その場を後にした。煙草を吸いたかった。庁舎の外にしか喫煙所はない。とても歩かされる。それも腹が立つ。
「待って、シュウ」
 人気のない通路を進む赤井をスターリングが追いかけてきた。大方、しょぼくれた背中に絆されたのだろう。スターリングは人のいい女なのだ。
「話を聞かせてちょうだい。ね?」
「いや、すまん。女に聞かせる話じゃなかった。悪かったな、変なことに巻き込んで」
 赤井は、そんな彼女におかしな話を持ちかけたことを後悔した。
「待って、ねぇ」
「大丈夫だ。この事件が片付いて、ステイツに戻れば、俺の不調も治るさ」
 背中越しに手を振って、赤井はその場を去った。
「シュウ…」
 スターリングは追いかけてこなかった。
 それでいい。女性相手に「実はディックが誤作動を起こしていて」なんて言えるわけがない。滑稽だ。赤井は自嘲し、薄暗い通路を歩いたのだった。
 ところが、そのちょっとしたやり取りがよく無かった。スターリングの人の良さを見誤っていた。
 なんと、その日の夜、赤井たちの詰め所に降谷が押しかけてきたのだ。
「何かお困りだそうですね。スターリング捜査官から相談に乗って欲しいと頼まれました」
「なっ⁉︎」
 赤井は珍しく狼狽えた。ちらりと部屋の隅を見ると、スターリングがうんうんと頷いている。きっと「折り合いの悪い降谷に自分から相談できない赤井」を手助けしたつもりなのだ。確かに、降谷は米国の捜査官との繋ぎ役である立場。何事にも相談に乗ってくれる…だろうが、要らぬお節介である。
 何故なら、降谷が全ての根源。全ての悩み。全ての発端なのだから。
 降谷は、まるで自分が当事者のように悲壮な顔をしていた。きっと、誰もが、狼狽える赤井なんて物を見せられたら、そんな風な顔になるのだろう。
「良い機会です。話をしましょう。僕も、貴方に避けられ続けるのは、つら…いや、困りますので」
「いや、君の手を煩わせる程のことではない。気にしないでくれ」
 赤井は、昼間にそうしたように席を立った。
「待って。ちゃんと、話をしましょう」
 降谷もまた赤井を追いかけてきた。スターリングと違うのは、決して諦めないという強い意思が見えるところだ。
 赤井は慎重に彼の方を見ないように気をつけながら、手を伸ばし距離を取った。
「いやっ、これは君に理解できる話ではない」
 いくら丁重に言おうと、目を逸らしていては不躾だ。降谷は引き下がらなかった。それどころか、赤井の目の前に回り込んで、逃さぬよう手を掴んだのだ。
「いいえ。僕らは、分かり合える筈です。貴方のことを理解したい。こんな風に避けられるのは…えぇっ⁉︎」
 降谷の素っ頓狂な声が通路に響いた。
「え?なんで、勃って、え?」
 赤井は恥ずかしさの余り、掴まれてない方の手で顔を覆い隠した。そして、恨み言を呟いたのだった。
「君のせいだ」
「へぁ?」
 降谷は変な声を出した。そして、掴んでいた赤井の手を慌てて振り解いた。
 こうなると、もう仕方ない。
 今度は赤井が降谷の手を掴む。
 ここまで来たら最後まで付き合ってもらうしかない。首を突っ込んできた降谷が悪い。
「君が悪い。君とのあの観覧車の殴り合いから、ずっとこうだ。顔を合わせる度に、おっ勃つ」
 こうなればとことんまで道連れにしてやろう。赤井は掴んだ手に力を込めた。
「どうしてくれるんだ?」
「えぇ?」
 降谷は一歩退いた。が、掴まれた手のせいで距離は取れない。
「か、か、観覧車!あれのことですね、分かります」
 降谷はうんうんと頷いてぎこちなく賛同してみせた。
「僕も、観覧車で足が滑った時に勃起しましたから。あ、死ぬなって思ったら、おちんちんが急に元気に。これは心理的には解明されてる現象ですよ。死に面すると、子孫を残さなくてはという危機感が湧くんです、確か」
 おちんちん…
 赤井は、その言葉の幼さに奇妙な興奮を覚えた。
「では、その後の、これは?」
 己の股間を見下ろした。バキバキだ。見てわかるほどの完勃ちだ。寧ろ、降谷の言動で余計に興奮してしまった。
「トラウマ?」
 降谷はそれを見て首を傾げた。
「いいや、違う。君がスイッチを押すんだ。言っておくが、俺はな、観覧車の前まで数ヶ月間、勃たなかったんだ。それこそトラウマってやつのせいでな」
「色々とありましたから」
 降谷は同情心たっぷりに頷いた。
「だが、観覧車からのこれはどういう事だ?君が視界に入る度にだぞ。俺は十三歳に戻ったのか?」
 事あるごとに勃つなんて、ローティーンの頃以来だ。
「うーん」
 降谷は一頻り唸って、それから、自分自身を納得させるように頷くと、徐に赤井に詰め寄ってきた。
「ゆっくり話しません?それを隠したくて僕を避けてたんですよね?もう知ってしまったんですから、構わないでしょう?」
 久々に間近で見た降谷は、ハッとするほどに愛らしい。
「原因を解消して、我々の間の誤解を解きましょう」
「誤解?」
 赤井は首を捻った。
 降谷は明朗な笑顔を浮かべまたもや数度頷くと、困惑する赤井を連れ去ったのだった。

 赤井が連れてこられたのは、なんと、あの懐かしき米花町のコーポだった。聞けば、放って置きっぱなしだったのを今月末で引き上げる予定なのだそうだ。
 思い返せば、先ほどの朗らかな笑顔は安室のソレだったな、と赤井はおかしな納得をした。
「はい、そこに座って」
 言われるままに、簡素な寝床を背凭れにしてクッションに腰掛けた。テーブルを挟んで斜向かいの降谷は背凭れ無しだ。
「はい」
 飲み物は缶のお茶だった。
「…腹を割って話すのに、これか?」
 強引に連れて来られた分、少しばかりの意趣返しにそう言った。
「それもそうか」
 降谷はそこの台所の袋棚から、数本の酒瓶を取ってきた。
 封の開いたものと未開封のものが混ざっている。バーボン、ライ、そして、封の開いてないスコッチ。
「…君が酒をやるとは、知らなかったな」
「酒の習慣はないです。でも、ここでの数ヶ月では、何度か飲みました」
 少しのセンチメンタル。だが、その話は、ずっと前にお互い納得しているのだ。蒸し返しはしない。
「そうか」
 酒屋で配られるようなメーカー名の入ったコップがテーブルに置かれた。
「色気のないコップですみません」
「いや、構わんよ」
 いつ買ったものかは知らないが冷凍庫に氷があったので、気にせずに使った。腐るものではない。
 それから、何にか分からないが乾杯を交わす。
 あんな大きな仕事を終わらせたのに、降谷と乾杯するのはこれが初めてだった。
「…それで、今も勃ってるんですか?」
「いいや、今は安らかに眠ってる」
「ふむ」
 降谷が股間を凝視するのが居た堪れなかった。
 赤井は身を捩りつつ、コップの酒を飲んだ。
「慣れもあるのでしょうか」
 降谷は口元に手をやり思案顔だ。
「明日、また、庁舎で顔を合わせれば、多分、勃つな」
「なら、今夜は、ここで一晩中語り合いませんか?そして、明日は一緒に登庁するんです。飽き飽きするくらい顔を合わせればいいんですよ」
 降谷は言った。
「僕を避けていた数ヶ月分、慣れてしまえばいいんです」
 一緒に仕事をする間柄だ、原因の排除は難しい。ならば、降谷を受け入れる方面で対処すべきなのは、赤井も分かる。これまでは、彼に軽蔑されたくなくて、避けるしか無かったが、当人が納得してくれているなら…。
 あれこれ考えているうちに、降谷が赤井の隣に移ってきた。
「おいっ」
 肩が触れ合う程の近さに、赤井は火傷するかのように飛び退いた。
「いいでしょ。近くにいる方が慣れも早いですよ」
 降谷はその距離も詰めてきた。寄り添って、近くで微笑む。まるで小悪魔だ。
「あ、勃ってる」
 今ので赤井はまた誤作動を起こした。
「君の、シャンプーの匂いが、その」
「単に溜まってるだけじゃないんですか?」
「…味気ないから乗り気にならない。何も感じないのに出すだけなんて、つまらんよ」
 もうそんな年でもない。赤井は週に一度風呂場で抜くだけだが、それでも、その度に虚しくなる。
「貴方って、ロマンチストなんですね」
 若い頃に散々遊んだツケなのだが、降谷は良いように受け止めてくれた。
 そうだ。つまり、赤井は三十路そこそこにして、既に枯れている筈なのだ。それが、何故か、ある一定の人物によって、スイッチを押されるようになってしまった。
 それがなんで降谷なんだ。確かに観覧車のアレは強烈だったが、何故、この…。
 赤井は傍の降谷を盗み見る。
 横顔の伏せた目元がやけに色っぽい。酒のコップに触れる唇も濡れて、扇状的だ。完璧に美しい造形の男だとは知っていたが、こんな色気が隠れていたとは。
 いや、まさか、これは。
 ビリビリとした衝撃が脳天を貫いた。
 十三の頃の秀一少年は、近所の未亡人にリビドーを感じるマセガキだったが、まさか、これは、それ以来の性衝動なのではないか?
「…降谷くん」
「はい?」
 振り向くと淡い色の髪が揺れて、照明を反射して煌めいた。この男は本当に美しい。
「君との関係がギクシャクするというのは、実に大きな問題だ」
「え?はい、そうですね」
「俺はこのトラウマを克服したい」
「えぇ。カウンセリングを手配しましょうか?」
「いや」
 これまでは接触を頑なに避けていた癖に、赤井は遠慮なく降谷の肩を抱いた。
「君との関係が俺のトラウマの全てだ。これからは、こんな風に近くで過ごして、君の事を受け入れたい」
「赤井…」
 降谷はほうっと溜息を吐き、赤井を熱っぽい眼差しで見つめた。
「立派です。貴方の敵に背を向けない姿勢、尊敬します」
「それで、相談だが」
 赤井はこの機会を逃す気はなかった。降谷の言う通り、問題の原因に真っ向から取り組むつもりだ。
「これから、公私において、出来るだけ近くにいてくれないか?長く視界から外れると、その…分かるだろ?」
「え、えぇ。勿論です」
 これからは四六時中側にいるつもりだと、堂々と宣言した。降谷は、少しばかり戸惑って、それから頷いた。
 その献身的な優しさにつけ込むのは申し訳ないが、もう逃す気はない。
「これからも、よろしく」
 肩を抱く手に力を込める。
 ビクッと降谷は震えた。
 漸く身の危険に気が付いたのか?それとも、まだ赤井を憐れんでくれているのか?
 恐る恐ると覗き込んでくる降谷の目を逸らさず受け止めて、にこりと笑って見せた。
「俺の全てを受け入れてくれて、ありがとう」
 不適切な距離で見つめ合う。今にもキスできてしまう距離だ。だが、今夜は我慢しよう。美味いものは最後まで取っておくのが良い。
 そうだ。これは誤作動ではない。獲物を前にして、牙を剥こうとする本能だったのだ。
 赤井はシャツの布越しに美味そうな身体の感触を楽しんだ。勿体つけられる苛立ちも楽しんだ。
 あぁ、早く、その肌に歯を立てたい。
 奥歯を噛みかわせる音に被さるように、テーブルでコップの氷がカランと音を立てた。
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