キスに纏わるエトセトラ

 昨夜の話だ。
 赤井は珍しく酔ってしまった。
 気の置けない友人と飲み、それが実に良い酒であったものだから、これ以上はまずいな、という自分の中の規定量を超えてしまったのだ。
「あはは、貴方、酔ってる」 
 友人の降谷は大いに笑っていた。つまり、彼も酔っていた。
 居心地のいい降谷の部屋で、降谷の作った肴を食べ、美味い酒を飲んだ。
 実に愉快だった。
 しかも、降谷の部屋には炬燵がある。この炬燵というのが、また魔物だ。そこから出られない。
 赤井はもう帰りたく無いと思った。実際に、帰りたく無いと言ったかもしれない。
「え?帰ってくださいよ」
「いやだ、帰らないっ」
 夜中にそんなやりとりがあった気がする。赤井は帰りたく無いと駄々をこねた。気がする。降谷に抱きつき、ここに居たいんだと、じたばたした気がする。
 とても恥ずかしい。
 朝、客用の布団で目覚め、赤井は自分の失態を少し思い出した。
「…すまん」
 朝日が差すキッチンに立つ後ろ姿に謝る。スウェットの後ろ姿が振り返る。寝癖を直す前の降谷は、いつもより若く見えた。
「おはようございます。味噌汁、飲んでいきますか?」
「あぁ、ありがとう」 
 いつも通りだ。赤井の失態に怒っていないらしい。
「酔っ払って寝るなんて、久々だ」
「めちゃくちゃな飲み方するから」
「申し訳ない。君が布団に運んだのか?」
「覚えてないんですか?」
 小さなテーブルに味噌汁と白米と卵焼きが並べられた。赤井は、ありがたく、椅子に腰掛けた。こんな良い朝食は、降谷のうちでしか食べたことがない。
「君の卵焼き、好きなんだ」
「昨日も、そう言ってましたよ。明日の朝は卵焼きにしてくれって」
「は?」
 そんな図々しいことを言ったのか?
 赤井は、消えた記憶を手繰り寄せた。
 昨日はしたたかに酔って、降谷にここに住みたいと絡んだ事を覚えている。
 とても恥ずかしい。
 昨日は、降谷に抱きついてしまった。惜しむらくは、その感触は覚えてない事だ。いや、惜しいとは何だ?惜しくはない。申し訳ないの間違いだ。
 それから、泊まると言い張り、降谷に呆れられた。これは、間違いない。
「ん?俺は自分で布団を敷いたな」
「あはは、思い出した」
 ふらふらしつつ、布団を敷いて、足が縺れたところで降谷に支えられた。気がする。物凄く間近で降谷の顔を見た気がする。
「ほら、卵焼き、食べてください」
 今はテーブル越しの、この顔を間近で。
「あれ?胸焼けしてる?」
 降谷は首を傾げた。
「いや、いただきます」
 赤井は味噌汁を一口飲んだ。
 昨夜、降谷を抱きしめたのは覚えている。何となくだ。それから、曖昧な記憶しかない。布団を敷いて、ふらついて、それから。
「どうですか、あんなに食べたがった卵焼き」
「うん」
 赤井は卵焼きを口に入れた。出汁と卵の甘くてしょっぱくて柔らかな味が、じんわりと広がった。
「美味い」
 昨日、食べたいと言ったのか。
 言ったかもしれない。赤井は降谷の作る卵焼きが好きだ。
 間近で、降谷を見た記憶がある。
 これまで意識してなかったが、睫毛が長かった。驚いて見開いた瞳が吸い込まれそうに美しかった。
 何故、降谷は驚いたのだったか…。 
 ふと、赤井の頭に、ぼんやりとした記憶が蘇った。
 ふらついた赤井を支えてくれた降谷は酔ってぬくぬくだった。赤いほっぺはぴかぴかで可愛かった。近くで見つめた瞳に吸い込まれるように、赤井は、彼にキスをした。
「っ!」
 赤井は、目の前で味噌汁に口をつける降谷を見た。
「おかわりします?」
 降谷はいつもの降谷だった。
「いや、うん、もらおうかな」
 茶碗を差し出しつつ、赤井は首を捻った。
 いきなりキスした男に対して、普通すぎる。
 もっと、こう、警戒とか嫌悪とか、もしくは、馬鹿馬鹿しいと笑い話にするとか。
 いや、もしかしたら、キスなんてしてないのかもしれない。赤井の酔った頭が作り出した妄想に過ぎないのかもしれない。 
 …妄想?なんで、そんな。
「今日車ですよね?僕も庁舎まで乗せてってください」
「あ、あぁ、構わんよ」
 赤井は上の空で答えた。
「あ、車で来たってことは、貴方、初めから泊まる気だったんじゃないですか、もぉ」
「ここが居心地良くてな」
「狭いですよ」
「それほど気にならないが」
「んー、でも、風呂が小さいのだけは、やっぱりしんどくて、引っ越しも考えてます」
「ほぉ」
 普通だ。 
 赤井はホッとした反面、少し残念に思った。
 抱きしめた感触は覚えてない。キスも、勘違い。それは、とても惜しいことをした気がするのだ。酔った勢いでなら、彼のことを柔らかな部分で感じられたのでは、と。
 よくない。
 赤井は、そんな下卑たことを考えた自分を叱りつけたくなった。
 降谷は、良い友人だ。そりゃあ目が覚めるような美人だが、男らしい男だ。そんな目で見るべきじゃない。
「はぁ」
 赤井は大きなため息をついた。
「なんですか?」
「いや、なんでもない」
「変な奴だな」
 やばい。降谷のことが直視できない。
 昨日まで、ただの友人だった筈なのに、なんだこれは。
 罪悪感と共に勿体無いことをしたという不届な考えが頭にある。
 よくない。降谷は、そういうのとは違う。男気に溢れて、清廉な人だ。そんな、邪な目で見るべきではない。
 赤井は、降谷を真正面から見られないままに、朝食をいただいたのだった。
「あ、そうだ」
 降谷は後片付け。赤井は身支度に取り掛かったところで、不意に降谷が赤井に何やらを差し出した。
「ん?なんだ?」
「あげます」
 それは、よくあるミントのリップクリームだった。
「貴方の唇、カサカサだから」
 カターン
 赤井はそれを受け取り損ねて床に落とした。
「君、なんで、そんな」
 赤井の唇の具合を知っているというのか。
「ふふ」
 降谷は小悪魔みたいに笑った。それから、赤井の耳元に囁いた。
「今日も、うちに泊まりますか?」
 ゾクっとして、耳を抑えた。
 間近で見た降谷の睫毛は長くて、瞳は吸い込まれそうに美しい。
 これは夢か現か。
「…泊まる」
 赤井は、反射的に答えた。
 降谷は、にこっと笑った。寝癖のついたまんまの髪がとても可愛くて、赤井は、キュウっと胸が掴まれてしまったのだった。
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