出られない部屋

 朝の六時。降谷は時計のアラームが鳴る前に目を覚まし、枕元のスマホを確かめた。
 新しいメッセージは無い。
 小さくため息を吐いて、ベッドから降りる。
 軽く体を動かし、シャワーを浴びて、パンとサラダと卵の朝食を取る。毎朝の習慣だ。今日は、しっかりと量を摂った。腹が満ちれば、気持ちも張る。
「さて、そろそろ、出るか」
 身支度を整え、手荷物をチェックしながら、初めて壁にかけた時計を確かめた。
 五時五十九分。おかしい。電波時計だ。狂うはずがないのに。
「電池切れか」
 降谷は腕時計を確かめた。
 五時五十九分。
 そんな馬鹿なと確かめたスマホの画面も、五時五十九分で止まっている。
「…」
 ヒヤリ
 何か嫌な感じがした。
 そうだ。部下に連絡を…。
 だが、無慈悲にスマホには圏外の表示がされている。
「なんだ、これは。何かの暗示か?」
 仕方ない。とにかく、外に出れば時間くらいすぐに分かる。
 降谷はスマホを胸ポケットにしまい、靴を履こうと屈んだ。
 そうやって俯くと、うっかりと憂鬱が押し寄せてきた。
 顔を上げなくては。
「行ってきます」
 誰もいない部屋だが挨拶をする。それから、ドアを開けて、一歩足を踏み出した。
「っっ!」
 その先には地面は無かった。
 降谷は落ちた、何もない空間へ。手を伸ばしても何も掴めず、奈落の底へと飲み込まれた。

「はっ!」
 降谷は短く叫んで起き上がった。
 枕元に置いた時計はアラームが鳴る前に消す。
 五時五十九分。いつも通りの朝だ。
「嫌な、夢だったな」
 大きくため息を吐いた。
 スマホを確かめる。新しいメッセージは無い。
「はぁ」
 また、降谷はため息をついた。
 悪夢を見た。理由はわかっている。精神的に、ダメージを負っているからだ。
「しっかりしろ」 
 頭を一振り、降谷はベッドを降りた。体を動かして、空っぽの胃に温かいものを取り込むのだ。そうすれば、少しは気分も晴れる。
 降谷は数分のストレッチの後でシャドーを5ラウンドこなした。汗だくだ。シャワーをと、浴室に向かおうとして壁の時計を見上げた。
 五時五十九分
 降谷はすぐに駆け出して、玄関のドアを開けた。
「なっ!」
 なんで、こんなことに。声にはならなかった。
 またもや降谷は奈落の底へと落ちたのだった。

「っ!」
 起き上がる。もう、目覚めたという感覚もない。
 覚醒はとっくにしていた。そして、この寝台へと戻ってきたのだ。
「くそっ」
 汗だくだった筈の肌はすっかり乾いている。着ていた筈のシャツも着ていない。時間が巻き戻っているのだ。
 降谷は起き上がり、スマホを確かめた。
「五時五十九分…」
 思った通りの時刻が表示されている。
「どうなってるんだ」
 とにかく、このおかしな状況をどうにかしなくては。
 きっと、これは悪夢のようなものであろう。目を覚ますまでのんびりしていればいい。そうは思うが、もしも、万が一だが、これが現実で、降谷は何やらのトラブルに巻き込まれているとしたら…。
「外界と連絡を取れないだろうか」
 スマホは諦めた。こういう時に電子機器は当てにならない。無人島に流れ着いたようなものだと、腹を括るのだ。
 例えば、玄関以外の出入り口はどうだろうか。
 リビングのカーテンを開けると、ちゃんと、そこには外の景色が広がっていた。 
 ほっとした。ここは四階だが、降りることはできそうだ。申し訳ないが、下の階のベランダを足場にさせてもらおう。
 だが、窓を開けて、すぐに違和感に気が付いた。
 何も感じないのだ。
 風も、温度も、匂いも、何も。
 目の前の景色に手を伸ばした。
 ベランダの向こうにはみ出た手は、そこから切り落とされたように見えなくなった。
 この先は、また、玄関のように何もない空間なのだと、直感で理解した。
 これは、夢でないとしたら、ヴァーチャル空間とかいう奴に近い気がする。
 降谷はゲームに疎いが、仮想空間に没入できる装置があるそうだ。それが作る世界は、こんな感じなのではないだろうか。
「それにしては、リアルなんだよな」
 降谷は部屋の中に戻り、テーブルのカップを掴んだ。ひんやり冷たい磁器の感触がした。愛用のカップだ。間違いない。寝てる間に、誘拐されたとか、そんなこともなさそうだ。
「ん?」
 カップの底に何かある。飲み残しか?
『出られない部屋』
 ぼんやりとしていたそれが、意味のある文字の形になった。
 ますますゲームじみてきた。
「どうなってるんだ」
 とりあえず、この洗い忘れたカップを片付けよう。
 降谷は、テーブルに残ったもう一つのカップも掴んでキッチンへと向かったのだった。
 取り残されていたカップは二つ。実は、昨夜、ここには、降谷の他にもう一人、居たのだ。
 降谷にとって、因縁の相手である赤井秀一という男だ。
 因縁というと仰々しくなってしまうが、古くからの知り合いだ。いや、もっと気心が知れている仲だろう。友人だと、降谷は思っていた、昨日までは。
 昨夜、赤井は、ここに来て、降谷の手を握り、思い詰めた顔をして、愛を告げたのだった。
「君を愛している」
 様々なことを考えた。だが、降谷は、言葉を無くしてしまった。黙りこくるだけだったのだ。数分の沈黙の後、赤井は寂しそうに笑って、出ていってしまった。
 赤井の使ったカップを洗いながら、降谷はおかしいなと笑った。
 時が止まっているのに、水は流れるのか。
「やめやめ」
 おかしなことばかり考えてしまう。
 降谷は洗ったカップを水切りに伏せ、手を拭き、また寝台に戻った。
 眠ろう。きっと、次に目を覚ました時は、元の世界だ。  
 眠りに落ちる前に、赤井の顔を思い出した。胸が痛んだ。

 時計のアラームが鳴る前に目を覚ます。起き上がる。数年ぶりに惰眠を貪った。
 降谷は頭を掻いて、目を開けた。
 時計は五時五十九分。流石に、もう見飽きた。
 ふと、目をやる。テーブルに、洗った筈のカップが二つ残されていた。
「なんで」
 ベッドから降りて、カップを手に取る。ひんやりとした磁器の感触がした。
「あれ?」
 カップの底を見る。『出られない部屋』が滲んで、揺れた。
そして、また、何やらの形を取った。
『返事をしろ』
 ドキッと胸が鳴った。
 昨日、降谷は何かも言えなかった。
 諾も否も、何も言えなかった。
 色々なことを考えたのにだ。
 赤井のことは好きだ。勿論、友人として。だが、彼に触れたいと思ったことはない。
 そう、思っていた。
 だが、昨日、愛していると言われた時、降谷の中に、ひどく利己的な感情が湧き出たのだ。
 もし、赤井の愛を受け入れたら、この男はずっと降谷の物になってくれるのではないか、と。
 赤井はいい奴だ。言葉が少ないから冷たい人間と誤解されがちだが、中身は情熱的な男だ。優しくて、愛に満ち溢れた男なのだ。 
 降谷は自分の空っぽの器に、赤井が愛を注いでくれるのではと、期待してしまった。
 空っぽの降谷は一欠片の愛も返せないのに。
 そうだ、降谷の中に愛はない。愛なんて知らずに生きてきた空虚な男でしかないからだ。
 赤井にそれを知られたくない。
 お前が「愛した」と思うのは、まるで偶像のような物なのだと。降谷が空っぽの中身を覆い隠すように貼り付けた分厚い鎧でしかないのだ。
 役に立たないスマホを眺める。
 目を覚ます度に、新しいメッセージが来ていることを期待していた。
「あれは、冗談だ」
 と、そう送って欲しかった。
 それを見れば、降谷は安心できた。そして、やはりそうかと、諦められた。
 赤井を思うと、同時に自分の中身と向き合う。自分自身しか頼れないのに、赤井に聞いて欲しい。赤井に対する物思いなのに、彼くらいしか頼れない。
「僕は、ずっと一人だ」
 降谷の呟きは、音のない世界に散らばって消えた。

「わぁっ!」
 ありとあらゆることを試し、何度も五時五十九分を繰り返した降谷はとうとうベランダから飛び出した。これが幻覚なら大怪我をするだろうが、他の可能性は全部試した後だ。
 これが最後の手段だ。
 そして、降谷は地面にぶつかる事なく、寝台の中で飛び起きた。
「…くそ」
 心臓が痛いほど打っている。汗もびっしりかいている。
 当然、降谷の体には怪我の一つもない。
「はぁ」 
 もう溜め息しか出ない。
 頭を抱えた目の端っこに、何度も洗った筈のカップが二つ、昨夜のまんまで残っている。
 降谷は寝台を降りて、カップを手に取った。
『返事をしろ』
 カップの底の文字は変わってない。
「何て返せば良いんだ。こんな、我儘で醜い欲しかないのに」
 それに、スマホは役に立たない。
 いや、どうせ送れないなら、素直に胸の内を文字にしてみるのもいいかもしれない。
 降谷は赤井への手紙を打ち始めた。
 愛を告げられた時、自分をクソ野郎だと思った事。その理由。それでも、赤井を失いたくないと思っていること。自分は愛なんて持ち合わせない欠陥品であること。見捨てないで欲しい。愛を返せない己を許して欲しい事。結局、自分には赤井しか居ないのだと、そう、支離滅裂な文章を打ち込んだ。
 長い文章だ。読む気にもならない。自分でもそう思う。
 これを読んだら、赤井の愛も醒めるだろう。自分が愛したのはただの張りぼてだと、がっかりして降谷を詰るだろう。
 しかし、これが降谷だ。
「ははっ」
 ぽたり 
 涙一つ、スマホの画面に落ちた。
「え。うそ、なんで」
 その拍子に、その読むに耐えない手紙は送信されてしまった。
「け、け、け、圏外だっただろーっ!」
 降谷は慌ててあらゆるボタンを押した。送信を止めなくては。
「わーっ!」
 パニックだ。
「そうだっ」
 これをない事にするには、やり直すしかない。
 降谷は慌てて玄関まで走った。裸だ。もし、現実世界なら、社会的にアウトだ。
 だが、躊躇えない。とにかく、もう一度、五時五十九分に戻らなくては。
 ドアを開ける。外に飛び出す。
「わぁっ」
 降谷はそこに居た人物にぶつかった。そして、その男に抱き止められたのだった。
「何かあったのか?どうした?襲撃されてるのか?」
「ち、違…」
 降谷を抱き止めたのは赤井だった。
 このタイミング。メールは読んでない?
 いや、それよりも、繰り返す五時五十九分で、初めて変化が現れたのだ。
「とにかく、服を着てくれ」
 赤井は紳士的に降谷の裸の肩を抱き、玄関の中へと戻してしまった。
「あっ、待て、閉めるなっ」
 降谷の叫びも虚しく、ドアが閉じた。
「ドアを閉じてはまずかったか?」
「あ。いえ」
 唯一、外界との繋がりだったのに。
 いや、赤井が現れたのだ。もう、五時五十九分は繰り返さないだろう。ループからは抜け出たのだ。
 ドアの向こうはもう奈落ではない。
 もちろん、こんなイカれた話、赤井にはできない。ドアを閉めた事をとやかく言いはしなかった。
「服は?寒くないのか?」
「あ、えー、筋トレ、してて」
 降谷は気恥ずかしく、裸足を反対の脛に擦り付けた。
「服、着ます。すみません」
 リビングに戻る。赤井も当たり前のようについてきた。
 それにしても、こんな早朝から何の用だろうか。
 とにかくメールを消してもらわないと。あんなの読まれたら、羞恥で死ぬ。
 散々、昨日のことと向き合った後のせいか、赤井と顔を合わせても、それほど気まずくなかった。
 腹が据わったのだ。
 ちゃんと話をしよう。降谷が愛に値する人間でないのは、事実だ。赤井も、それを知れば、想いは勘違いだと気付くだろう。
 その場にあった部屋着を着て、ふと壁の時計を見た。
「え?」
 時計は七時五十九分。
 二時間も経ってる。時間が動き出したとしても、まだ六時過ぎの筈だ。急に時間が進んだとでも?
「あの、貴方、何故、ここに」
 降谷は嫌な予感を押し殺しつつ、聞いた。
「君から、メッセージを受け取ったからだが」
「よ、よよよよ、読んだんですかっ」
「読んだ」
 赤井は当然だろうという顔をしていた。そりゃそうだ。メールを受け取った側の義務だ。読むべきだ。だが、読んでほしくなかった。
 やばい。そうなると、話が違う。
 据わった筈の腹が、気弱に縮んだ。
「降谷くん」
「へ?あ、あの」
 赤井が降谷の手を的確に掴んだ。ぎゅっと握られ、ぐっと距離が詰められる。のけぞろうとした背中にもう片方の手が添えられた。
「あのメッセージの意味を教えて欲しい。俺は、君を抱きしめてもいいのか、どうか」
 既に抱きしめてる距離感で、赤井は言った。
「あ、あの、実は、僕、あの時は、かなり追い詰められていて、その、なんて書いたか、あやふやで」
 慌てて目を逸らした。
 考えが、まとまらない。
 自分が送ったメッセージを思い出す。本当にあやふやなのだ。
 だが、自分には返せる愛はないとそう断った筈だ。愛なんてものを知らない惨めな男なのだと、恥を忍んで曝け出した筈だ。
「なら、ここで読み上げようか?」
 赤井は焦れたように詰め寄ってくる。
「いやっ、それはっ」
 スマホを取り出す赤井を止めようとした。赤井の目は、訝しげに画面を睨んでいた、
「なんだ、これは」
 降谷もそれを盗み見た。
 ドクっと心臓が一つ大きく鳴った。
『出られない部屋』
 赤井のスマホの画面には、そう表示されていた。
 降谷は、見たくないと思いながら、確かめなくてはと恐る恐る壁の時計を見た。
「七時五十九分…」
 時はまた流れを止めた。
「時計、狂ってますね」
 平静を装った声が上擦った。
 テーブルの上のカップを手に取る。
『愛を知るまで出られない部屋』
 降谷は、観念して目を閉じた。
 きっと、今、赤井のスマホ画面にも同じ文言が現れている筈だ。
 今度は何周繰り返すだろうか、この狂った世界を。
 あぁ、しかも、今度は赤井を巻き込んでしまった。
「ほぉ」
 思い詰める降谷の肩が後ろから掴まれた。
「君が追い詰められたと言った意味が、なんとなく分かった」
 降谷は振り返られなかった。
「では、今度は二人で追い詰められてみようか」
 耳元に低い声がした。
 ぞわりと背中を撫で下ろす甘い声だった。
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