777
赤井は、己のことを強運の持ち主だと、そう思ってきた。
まず、努力することを厭わない人間に生まれたことが幸運だ。素晴らしい両親の存在も心強い。賢い弟妹や、気の良い仲間達も素晴らしいギフトだ。
だが、何より、ここぞという時の勝負運の強さは、天が与えた最上の賜だろう。
つまり、赤井には、いつでも理由のない勝算があったのだ。
ただ、一人、特別な男に対して以外は…。
これは、赤井の数奇で乱暴な人生における、大博打の夜の話である。
赤井は、米国の特別捜査官だ。普段は、頭のおかしい犯罪者か、もっと頭のおかしい凶悪犯しか相手にしてない。
ところが、そんな男が、何の前触れもなく、結婚を決めた。お相手は大富豪の令嬢であったので、ネットニュースにも載ってしまった。
「ちょっと、あんた、正気⁉︎」
同僚…と言うよりは元恋人であるスターリングは、赤井の乱心を信じられないようだった。
「あんた、まさか、降谷に振られすぎておかしくなっちゃったの⁉︎」
「うるさい」
赤井は、外野にとやかく言わせなかった。
そうは言っても赤井のことだ、周りはネットの記事なんぞは信じなかった。この男が、よく知りもしない女と結婚なんて出来るタマではないと、分かっていたからだ。
ところが、そんな周りを嘲笑うように、結婚の話はどんどんと進行して、いよいよ、来月には式を挙げると言うではないか。
「バチェラーパーティはベガスにしよう」
同僚の二人には、揃いのタキシードも押し付けた。
「君らがアッシャーだ。よろしく頼む」
淡いブルーのタキシードを受け取ったのは、アンドレ・キャメルと降谷零。二人とも、赤井のチームの捜査官である。
「え?本気ですか?」
降谷はタキシードを見ても信じられないと呟いたし、キャメルは、何故か泣きそうな顔をしていた。
そして、運命のバチェラーパーティ。
ホテルのカジノにスーツでバシッと決めて乗り込んだ赤井は、何故か、ポーカーのテーブルから奥の別室に連行されてしまったのであった。
いよいよ興が乗ってきたところだった。あの積み上げたチップはどうなる。
とても、腹立たしい。
「この部屋、普段は大金持ちがプロのプレイヤーとゲームを楽しむ為の部屋なんですよ」
カジノのオーナーは、申し訳なさそうに赤井に言った。
急に別室に押し込んだが、良い待遇をとらせてもらってますよ、と言いたいのだ。実に、勝手で馬鹿らしい言い分だった。
「顔認証ソフトに引っかかったかな?」
赤井は、うんざりだと態度に出しつつ、足を組み直した。
革張りのポーカーテーブル、重厚な椅子。高級酒が並ぶバーと、葉巻の匂い。
この部屋は高級ホテルの最上階並みに豪華だが、赤井の知的な闘争心を燃え上がらせるものが何もない。
ルーレットの回る音も、カードが捲られる度に密やかに上がるギャラリーの歓声も、ジャックポットの景気のいい騒音も、何もない。
部屋には、赤井の他に、ここのオーナーであるトーマス・ブラウン氏しかいなかった。
若き大富豪。ハンサムな独身男性。何度も雑誌に載った有名人だが、サインを貰う趣味もない。
「捜査官」
そのオーナーがのっそり切り出した。
赤井の素性は認識済み。という事は、本当にシステムに引っかかったのだ。
それにしても、どうもオーナーの口の回りが怪しい。
彼は、数軒のカジノを経営する実業家だ。その割に若いのは父の事業を継いだ為で、必死に老化に抗う他の金持ちたちとは違う。確か、まだ三十そこそこのはずだ。
つまり、口のもたつきは、年齢とは別の何かが起因している。
酒か?
赤井は、彼の皮膚のくすみや目の充血から、そう推理する。
「ここには、何かの捜査で?」
若く、経験の少ないオーナーは、赤井との腹の探り合いは放棄し、単刀直入に問いただしてきた。
「ふっ」
全く、野暮な男である。彼の父親は、洒落た男だった。散々汚いことをやるが何故か憎まれない、そう言う男だった。
「…とにかく、一杯、飲ませてくれ」
赤井は傍のバーカウンターを指差した。
「何を?」
「バーボンをストレートで」
オーナーは、一瞬、酸い物を飲んだような顔をしたがぐっと押し込み、グラスにバーボンを注ぎ赤井の前に置いた。ゴトンと重い音がした。
「なぁ、オーナー。俺は、ここにカードを楽しみ
来ただけだ。だが、そんな態度を取られると、何やら後ろ暗い事があるのかと、勘ぐりたくなる」
「いやいや、参ったな」
オーナーは目元を擦った。
昨日の深酒が残っていて、口も頭も回らないのだ。
何の深酒だ?仕事か?この部屋で、昨夜もゲームが開かれた?オーナーが大酒を飲むほど儲けたのか?
「ふむ」
赤井は、頭痛に気を取られたオーナーの目を盗み、ぐるりと部屋を見回した。
この部屋の調度品の中で浮きまくってる花瓶の造花には、カメラが仕掛けられている。天井の空調にも。
セキュリティは、万全。
暴れて無理やり出て行くなら、まず、あれを壊してからになる。
「ここには秘密の金庫があるのだろうが、今回はその為に来たわけじゃない。完全にプライベートだ。そろそろ、戻って良いか?」
「いや、捜査官、貴方は、勝ち過ぎなんですよ」
「イカサマなんぞしてないが」
「そんなわけない。貴方のお仲間が、合図を送っていると、報告を受けてるんです」
「ほぉ。その仲間とは、ボディビルダー並みの大男か?それとも、異国の神話に出てくるような美青年か」
「…詩人ですね」
オーナーは、素直に驚いてみせた。
「貴方の仲間は、うちのディーラーでしょう?巻き毛のマリベルです。心当たりがある筈です」
それから、正直に容疑者の名前も出した。
カジノのオーナーにしては、駆け引きの初歩もなってない。
「あまり売り上げが良くないからクビにしようかと思っていたら、まさか、イカサマなんて」
「おいおい、イカサマなんぞはしてないさ。だが、彼女とは確かに話したな。とある事件の関係者なのでね」
赤井はプロの捜査官なので、持ってるカードは勿体つけて揺さぶりながら見せる。
「彼女がクビになるのは、売上が原因か?」
「な、なにか、他にも理由が必要ですか?」
オーナーは、揺さぶりに戸惑いを見せた。
思ってる事が全部態度に出てしまうのは、カジノ経営者として、全くダメだ。だが、彼が正直で、善人なのは間違いない。
彼の性根次第では、ぶん殴って終いにするところたったが…。
赤井は組んだ足を下ろし、テーブルに身を乗り出した。
「さて、ここではカードが遊べるんだろ?どうだ、サシでやらないか?」
「は?」
「俺がイカサマなんかやってないと証明しよう」
ニヤリ
笑って見せたら、オーナーもぎこちないなりに微笑みを浮かべた。
「いいでしょう」
不遜ぶっても、どこか不安そうな微笑みだった。
ゲームは、オーナーの親で始まった。
赤井はカードは運ではないと知っている。心理戦だ。そして、それこそ、赤井の最も得意とするところである。
カードが配られた。悪くないカードが手元に来ている。
「なぁ、トム」
赤井は、彼の愛称を呼んだ。
オーナーが顔を上げた。
「三ヶ月前に貴方の弁護士が遺体で見つかったな。首を切り落とされていたので、マフィアの仕業と断定。二人の構成員が逮捕された事件だ」
ピクッとオーナーの手元が跳ねた。
「地元の警察は、その二人を実行犯と断定したが、その後、二人とも一年以上前に堅気に戻っていたことが判明。ならば、何故、彼らが犯人と断定されたのか」
オーナーの手が震えていた。
「謎だ」
その震えでオーナーの手札はほぼ読めた。赤井は静かにチップを上乗せした。
「マリベルは恋人の無実を証明しようと、ここに潜り込んだだけさ」
「あのマリベルが⁉︎すごいな、勇敢だ」
オーナーは反射的に同じだけチップを場に出した。
「では、彼女が素人探偵だとは知らなかったのか?」
「勿論。確かに、本当にディーラーか怪しんでましたよ。あまりにも手際が悪くて」
「そっちも素人だからな」
コミュニティカードが全て場に出た。赤井はまたチップを上乗せした。
「捜査官、ここにはプライベートとか言ってましたね」
「あぁ、バチェラーパーティだ。この後、スイートルームで浴びる程酒を飲んで、ゲロを吐く」
「っぷ」
若きオーナーは、嘔吐くのをギリギリで耐えた。
「二日酔いか?」
「いや。すみません。それで、どなたのパーティなんです?」
「俺だが」
「は?」
「信じられないか?俺みたいな男と結婚する女がいるわけないと」
「いや、そりゃ、こんなにハンサムなら、モテて仕方ないでしょうけど」
「偽装だ」
その場にカードが出される。赤井は磐石のフルハウスだ。オーナーはワンペア。
散々積み上げられたチップは赤井の元に。
「あぁ」
オーナーからはぼんやりした溜息が溢れた。
「彼女は、今頃恋人と逃避行中だ。準備期間を作る為に、俺を利用した」
「なんで、それを知ってて、婚約なんてしたんですか」
オーナーはすっかりしょぼくれてしまった。
「長らく、彼女は俺の協力者を担ってくれていてね。最後には、こちらが協力する番だったというわけさ」
次のゲームが始まったが、オーナーは初めから腰が退けていた。気の弱さは、何とか克服してもらいたいものだ。
こんな商売をするには、この男は優しすぎる。それなりの人物に支えてもらう方がいい。幸い、頭は良いし、金儲けも上手い。
あとは、周りの人間次第だ。
「さて、俺の婚約者からの情報では、君は、この仕事を受け継いだ後、散々な目に遭ってるな」
「…よく、ご存知で」
「悪い客が増えた。売上金を狙って襲撃を受けた。身内を誘拐されたこともある。だが、君は警察を頼らず地元のマフィアを動かした。違うか?」
「親父は昔気質で、ヤクザな連中に幾らか金を渡してよろしくやってもらってたらしいので」
「ほぉ」
「私も、それに倣って」
だが、自分の意思ではない。そんな口振りだった。
本当は、そんな連中とは縁切りたかったが、誰かがそれを許さなかったのだろう。
「うちの弁護士は、そういう乱暴な奴らとも上手くやってくれていた筈なんですが」
「殺された弁護士か」
そいつが、この若い紳士の当たり前の常識を諫めたのだ。
「彼らと揉めたのでしょうか。あんな、見せしめみたいな殺し方をされて」
「君の弁護士は、裏社会に馴染んでいたさ」
赤井は密やかに笑い、チップを出した。
「五千上乗せだ」
「は?」
強気に出れば、すぐに迷う。
「降ります」
オーナーが勝負を降りた。
短時間ですっかり減ったチップに困惑しながらも、ゲームは続く。
オーナーはカードを配り、それから、漸く自分の周りに起きていたことを理解し始めた。昨日の酒は少し、抜けたらしい。
「捜査官」
幾分、マシな声で赤井を呼ぶ。
「赤井だ。赤井特別捜査官。大袈裟な肩書きだろ?直通の番号も教えようか?」
「では、赤井さん、うちの弁護士は何故殺されたんですか?」
「特別な仲だったのか?」
「は?」
「酒に強い方じゃないな。それが、毎日、飲んでる。嫌なことを忘れたいか?弁護士の男とは、特別な関係だったのか?」
恋人だったなら、悲しい顔をする。愛人だったなら、もう少し大袈裟な反応だ。
だが、彼は、悲しみに恥いるような複雑な表情を混ぜたのだ。
哀れだ。
赤井はそれは見ない振りで、わざとらしく腕時計に目をやった。
この部屋に入って一時間だ。
「そろそろ、誰かが俺を探し始めている頃かな。確認してくれ」
連れは二人。降谷とキャメル。二人とも仕事仲間だ。キャメルは、赤井の単独行動はいつものことと気にしない。降谷は…どうだろうか。
「少々お待ちを」
オーナーがどこかに電話を掛けた。警備スタッフだろう。短いとやり取りに、不穏な気配があった。
「警備員の数名から応答がないそうです」
何の騒ぎもないのに、何故か。そりゃ、彼が動き出したからだ。
「その辺に転がされてるぞ。人をやって助けてやれ」
「一体、誰が」
「物音一つ立てずに、そんなことをできるのはプロだろうな」
オーナーには警備からひっきりなしに連絡が入った。交錯する情報。一人、二人と物陰で見つかる気絶した警備員。なかなか、面白くなって来た。
オーナーが素っ頓狂な声で、赤井に新しい情報を告げた。
「カメラに、それらしい男が。貴方のお連れ様は金髪の青年ですか?」
「そうだ。うっとりするような美人だと言ってなかったか?あれで凄腕の捜査官ときてる。堪らないだろ」
やはり、動いたのは降谷だった。
「捜査官なんですか?若い男の子だと言ってますけど」
「あぁ、俺が直々に日本から引き抜いた。口説いて口説いて、外堀を埋めて、漸くこの国に連れて来たんだ」
「細身の青年だそうです。そんな人がうちの警備員をぶっ倒したんですか?まさか」
「滅法強いのさ。あの見た目に騙されて、気を抜いているうちに床に転がされている」
豪奢な椅子に腰掛けて、赤井が足を組み直した。同時に、真後ろのドアが蹴破られた。
バーンッ
蝶番が外れるほどの勢いだった。だが、赤井は慌てて振り返るような真似はしなかった。
あの男なら、ノックなんて行儀良いことはせず乗り込んでくると分かっていたからだ。
実に、清々しい。実に、勇ましい。
「赤井っ、無事ですか」
例の金髪の美青年である降谷が、単身で乗り込んで来たのだ。
勿体つけてから、振り返る。
ハッとするような美しい男がそこに居た。
髪を振り乱し、頬には生き生きと血潮の赤みが差している。そのギラギラした目よ、いつでも飛びかかれる獣のような足よ。赤井は、また何度目かの恋に落ちた。
「…何、してんですか?」
降谷は赤井が拘束されるでもなく、痛めつけられるでもなく、ピンピンとしていることに、呆気に取られたようだった。
戸惑いながら、赤井と、オーナーと、テーブルのカードを見比べて、また赤井を確かめる。
「あぁ、見ての通りポーカーだ。俺が勝ってる」
たんまり積んだチップを誇らしく見せつけた。
「はぁ?何を暢気に」
「俺が居なくて心配したか?」
「っ!」
降谷が息を飲んだ。
「そりゃ、まぁ」
それから、気不味げにボソボソと言った。
「ほぉ。俺が監禁されて、怖い目に遭ってるとでも?」
「…そういう事もあるかと」
「キャメルはそう言わなかったんだろ?」
「どうせVIPルームで酒を飲んでると言ってました」
キャメルの奴。
あいつは、後でシメると決めつつ、赤井は、にこりと降谷だけに振る舞う笑顔を浮かべた。
「イカサマを疑われた。強すぎると目立つ」
「ふぅん?」
降谷は同席している若き紳士をチラリと見た。その一瞬で、彼を値踏みしたはずだ
金持ち、育ちがいい、頭のいいお人好し。つまり、いい人間だと認める。
降谷が腰から取り出した物をテーブルに置いた。
ゴトンと重々しい音がした。
「これ、返しておいてください」
降谷の武装は解除された。
「お宅の警備員からお借りした銃です。あと、ちょっとだけ乱暴な真似をした事も、謝っておきます」
それから、少しため息を吐いて、降谷は赤井の肩にそっと手を置いた。
「それで?何故、疑いを掛けられたんです?まさか、やったんですか?」
「やるわけ無いだろ」
すぐに言い返した。オーナーは異論を唱えた。
「でも、うちのディーラーと私的な会話を交わしたんです」
「マリベルには、恋人は釈放される筈だと伝えただけだ。イカサマの相談はしてない」
これで、素人探偵のマリベルは、慣れない潜入とディーラーの仕事から解放される。
「釈放…。では、誰が、彼を殺したんですか」
あとは、この紳士の傷付いた心に安らぎが訪れる事を願うだけ。
赤井は、その為に、大人しく、ここに座っていたのだ。
テーブルに頬杖をつく。
すぐ近くに、トーマスの濁った目がある。酒に溺れた、哀れな男の目だった。
「君の父親だ」
赤井は、それが無慈悲に聞こえないように、注意深く告げた。
「え?」
「今は、癌で入院している君の父親だよ」
ぎゅっ
肩に置かれた降谷の手が強くなった。
「彼から相談を受けた。自分が、殺し屋を雇って弁護士を殺させたのだと。だから、無実の人間を出してやって欲しいとな」
「そんな」
トーマスがぼんやり呟く。
「君に降り掛かったいくつもの不運は、弁護士の仕業だった。だが、君は、それに気が付かなかった。恋に目が曇ったんだ。違うか?」
降谷の手が震えている。もう、やめてやれと言いたいのだ。
「遊ばれてると、気付いていただろう?」
赤井は項垂れる目の前の若い男のでなく、肩に置かれた降谷の手を取った。
「トム、あの男は、君が酒に溺れてまで偲ぶ価値のある男じゃない」
きっと初めての恋に周りの言葉は届かなかったのだろう。
だが、今なら?今、死の淵にいる父親の言葉なら、受け入れられるのでは?
「病床の父親が、何故、あの男を殺したか、分かってやれ」
肩を叩いてハグしてやるべき場面だろうが、生憎、赤井はそういうタイプじゃ無い。そのまま席を立った。隣で、降谷が項垂れる青年に、何か言いたげな顔をしていたが、それも制した。
「もう、行かせてもらうぞ。勝ち逃げで申し訳ないが」
オーナーは項垂れたままだ。
「酒をごちそうさま。美味かった」
赤井は降谷の肩を抱いて、部屋を出た。
降谷は若い彼を一人残すことに不安そうだったが、放っておいてやるべきた。
この仕事を続けるなら、これくらいの山は一人で越えなくてはならない。
それよりも、今は、赤井と降谷の仲の方が重要だ。
細い肩を抱き直す。
しっかりした骨と筋肉だが、男に抱かれて収まるほどに細い。しなやかで、絞り込まれた身体だった。
「さて、君は、一人で乗り込むほど俺を心配してくれていたようだが」
赤井は逃すまいと、肩を抱く手に力を込めた。
「何度も振った男に対して、それは些か情熱的過ぎるのでは?」
降谷は密着しながらも、何とか目を逸らしている。
その恥じらい、戸惑い、全てが赤井の情熱に火をつける。
堪らない。どうしても手に入れたい。
「黙秘か?」
問いかけにも、降谷は黙ったままだ。言葉を発すれば、墓穴を掘ると知っているのだ。
「どうせキャメルは『ほっといても帰ってくる』と言ったんだろ?」
黙秘は当然の権利だが、赤井には通用しない。
「だが、君は私服警備員を三人も倒して、特別室に乗り込んで来た。あの時の君には痺れたよ。頑丈なドアを蹴破るとは、素晴らしい足をしてる。監視カメラに映ったのはわざとか?それとも、慌てていたのか?どちらにしても、あまりにも手際が良くて、君が何をしたのか素人には分からないだろう。鮮やかだ。惚れ直したよ」
赤井は遠慮なく降谷の頬にキスした。
「もぉ、うるさいなっ」
降谷は赤井の顔を押し退けた。
でも、態度とは裏腹に、頬はときめきに赤く染まっていた。
「俺の結婚は止めてくれなかったな」
「大金持ちとの結婚を止めるわけにはいきませんよ」
「ほぉ」
「僕にはお金も、地位も、何もない…祖国さえ、無くした」
「有り余る愛があるだろ?」
「ありませんっ」
躊躇いのない返事は、本心でないからだ。
「本当に?」
間近に目が合う。
降谷の瞳は、戸惑い、揺れていた。
「君の愛を得られないなら、全てが無意味だ。金も名誉も」
赤井の目には、降谷の潤む瞳が映っている。まるで宝石のように煌めく瞳だ。
「君の愛は、この世の全てより勝る」
「…そんな言葉、今更、聞かされても、困る」
揺れる心が、声に現れていた。
「貴方は僕に優しくしてくれる、もしかしたら、好いてくれてるのかもしれないって思ってたけど、僕はいつか終わる恋なんかには飛び込めない。全てを捨てて、貴方の元に来たんです。貴方へのこの気持ちは、恋なんて、あやふやなものではいけないんです」
「全く、頑固だ」
赤井の好意が、ほんの片鱗しか伝わってなかった事にも目眩を起こしそうだ。
優しく接するだけじゃ伝わらない?素敵だと褒めるだけでは、駄目だったのか?
いや、降谷だって、赤井には特別な感情を抱いていた。尻込みしただけのことだ。
「終わることを怖がって諦めるなんて、馬鹿らしい」
「何とでも言え。お前なんか勝手に結婚でもなんでもしたら良いんだ」
「あぁ、そう言えば、偽装だと言い忘れていたな」
「はぁ?だって、貴方、これもバチェラーパーティだって。だから、僕は、漸く、踏ん切りが…」
「もう、百回くらい君に振られたが、ちっとも気持ちは揺らがないな。もう、これは一生の病なんだろうさ」
自分でも呆れる。自分でも制御できない。他の誰かと結婚?考えたこともない。
「一生、君を愛し続ける。君は、安心して、その、あやふやで危うい恋とやらに飛び込めば良い。君が失うものは何一つ無いと、俺が保証しよう」
「でも、結婚、するって、言ってた」
「彼女の逃避行に利用されただけた。挙式の費用として用意した金を持って、恋人とフランスに逃げた」
降谷が言葉を無くし、ポカンと口を開けた。
いやいや、この話を信じていたのは、多分、君だけだぞ。
とは、彼のプライドの為に言わなかった。
なんで、こんな馬鹿な話を信じたんだ?少しは嫉妬したか?
そうなら嬉しい。
「降谷くん、君は何も誓わなくても構わない。だが、俺は君に永遠の愛を誓う」
ぎゅっと抱き寄せた肩が強張った。
「俺が君に愛を請うのは、これが最後だ。今回、君に振られたら、俺は、大人しく君の前から姿を消そう」
情けないが、それは赤井の緊張が伝わったのだろう。
「最後だ。だから、心して聞いてくれ」
赤井は、降谷の前に跪いて、その手を取り、恭しく頬を擦り寄せた。
「君を愛してる」
他の誰にも渡したく無い。全てを捧げる。一生、側に居る。全ては赤井の心の中にあるが、言葉に出てきたのは、シンプルな一言だけだった。
出会ってから、今この時までの全てが頭の中を駆け巡った。どの降谷も苛烈で、鮮明で、美しい。
まるで、花火みたいに、激しく美しく燃え立つ男だ。
この男を諦めるなんて、人生を捨てるようなものだ。それは、精神の死を意味する。生きるか死ぬか、赤井は、生涯で一度きりの大博打に出たのだ。
数瞬、数秒、いや、実際にはほんの瞬き一つの間だったかもしれない。その後で、頬に触れる降谷の手が、そっと赤井の顎まで滑った。
「ふる…」
やんやわりと上向かされ、触れるだけの口付けが与えられた。
柔らかな、ささやかな口付けだった。だが、確かに恋の成就の証であった。
「僕を捨てたら、殺してやる」
誓いのキスには、物騒な脅し文句が付いてきた。
それが、また赤井の胸を痺れさせた。
「愛してる」
立ち上がり、抱きしめる。おずおずと、抱き返された。それから「僕も」と羽音くらいの囁きが聞こえた。
実は、赤井はその素晴らしい愛の成就の瞬間をそこまでしか覚えてない。
気がつくと、降谷を抱き込み通路の壁に押し付け、はちゃめちゃにキスしていたからだ。
はっと気が付けば、降谷の衣服は乱れ、悩ましく喘いでいる有様ではないか。
エロい。素晴らしく、いやらしい。堪らない。誰がこんな風に乱したのだ。
俺か!
「降谷くん…なぁ、零」
「ん…」
赤井の手が降谷の腰に伸びたところで邪魔が入った。
「あ、あの!」
先ほど出てきたドアから、オーナーが顔を出した。
「ここにも監視カメラが付いてますから、続きは、お部屋でなさってください」
それから、あれほど項垂れていたくせに、今は呆れ顔で二人を諫めたのだった。
「うちのスタッフから、目のやり場に困ると苦情が入ってます」
「あわわ」
濡れ場を見られた降谷が恥ずかしそうなので、抱き込んで隠してやった。ぎゅっとしがみついてくるのが可愛かった。
「さっきの私の負け分で、良いお部屋を用意しました。シャンパンもお持ちしますから」
オーナーは粋なウィンクをしてみせた。
こんな馬鹿な場面に出くわしたショックか、すっかり立ち直った様子だ。
「婚約、おめでとうございます」
手渡されたカードキーは新婚用のロイヤルルームの物だった。
振られ続きで、面談な事にも巻き込まれ、あちこちの借りも返さなくてはならなかった。ここのところの赤井は、少しばかり自棄っぱちだったが、だが、どうだ、この幸運は。
「ありがとう。今日は、俺の人生で最高の日だ」
赤井は、若きオーナーと握手を交わした。
こうして、赤井は人生を賭けた大博打に勝ったのだった。
その後、連れ込まれた部屋いっぱいに薔薇が敷き詰められていた事で降谷が大声で「なんじゃこれ!」と叫んだが、婚約が破棄されることはなかった。
それどころか、百回振られた分を取り返して上回る程に甘い夜を過ごせたので、やはり、赤井は己を強運の持ち主だと信じている。
まず、努力することを厭わない人間に生まれたことが幸運だ。素晴らしい両親の存在も心強い。賢い弟妹や、気の良い仲間達も素晴らしいギフトだ。
だが、何より、ここぞという時の勝負運の強さは、天が与えた最上の賜だろう。
つまり、赤井には、いつでも理由のない勝算があったのだ。
ただ、一人、特別な男に対して以外は…。
これは、赤井の数奇で乱暴な人生における、大博打の夜の話である。
赤井は、米国の特別捜査官だ。普段は、頭のおかしい犯罪者か、もっと頭のおかしい凶悪犯しか相手にしてない。
ところが、そんな男が、何の前触れもなく、結婚を決めた。お相手は大富豪の令嬢であったので、ネットニュースにも載ってしまった。
「ちょっと、あんた、正気⁉︎」
同僚…と言うよりは元恋人であるスターリングは、赤井の乱心を信じられないようだった。
「あんた、まさか、降谷に振られすぎておかしくなっちゃったの⁉︎」
「うるさい」
赤井は、外野にとやかく言わせなかった。
そうは言っても赤井のことだ、周りはネットの記事なんぞは信じなかった。この男が、よく知りもしない女と結婚なんて出来るタマではないと、分かっていたからだ。
ところが、そんな周りを嘲笑うように、結婚の話はどんどんと進行して、いよいよ、来月には式を挙げると言うではないか。
「バチェラーパーティはベガスにしよう」
同僚の二人には、揃いのタキシードも押し付けた。
「君らがアッシャーだ。よろしく頼む」
淡いブルーのタキシードを受け取ったのは、アンドレ・キャメルと降谷零。二人とも、赤井のチームの捜査官である。
「え?本気ですか?」
降谷はタキシードを見ても信じられないと呟いたし、キャメルは、何故か泣きそうな顔をしていた。
そして、運命のバチェラーパーティ。
ホテルのカジノにスーツでバシッと決めて乗り込んだ赤井は、何故か、ポーカーのテーブルから奥の別室に連行されてしまったのであった。
いよいよ興が乗ってきたところだった。あの積み上げたチップはどうなる。
とても、腹立たしい。
「この部屋、普段は大金持ちがプロのプレイヤーとゲームを楽しむ為の部屋なんですよ」
カジノのオーナーは、申し訳なさそうに赤井に言った。
急に別室に押し込んだが、良い待遇をとらせてもらってますよ、と言いたいのだ。実に、勝手で馬鹿らしい言い分だった。
「顔認証ソフトに引っかかったかな?」
赤井は、うんざりだと態度に出しつつ、足を組み直した。
革張りのポーカーテーブル、重厚な椅子。高級酒が並ぶバーと、葉巻の匂い。
この部屋は高級ホテルの最上階並みに豪華だが、赤井の知的な闘争心を燃え上がらせるものが何もない。
ルーレットの回る音も、カードが捲られる度に密やかに上がるギャラリーの歓声も、ジャックポットの景気のいい騒音も、何もない。
部屋には、赤井の他に、ここのオーナーであるトーマス・ブラウン氏しかいなかった。
若き大富豪。ハンサムな独身男性。何度も雑誌に載った有名人だが、サインを貰う趣味もない。
「捜査官」
そのオーナーがのっそり切り出した。
赤井の素性は認識済み。という事は、本当にシステムに引っかかったのだ。
それにしても、どうもオーナーの口の回りが怪しい。
彼は、数軒のカジノを経営する実業家だ。その割に若いのは父の事業を継いだ為で、必死に老化に抗う他の金持ちたちとは違う。確か、まだ三十そこそこのはずだ。
つまり、口のもたつきは、年齢とは別の何かが起因している。
酒か?
赤井は、彼の皮膚のくすみや目の充血から、そう推理する。
「ここには、何かの捜査で?」
若く、経験の少ないオーナーは、赤井との腹の探り合いは放棄し、単刀直入に問いただしてきた。
「ふっ」
全く、野暮な男である。彼の父親は、洒落た男だった。散々汚いことをやるが何故か憎まれない、そう言う男だった。
「…とにかく、一杯、飲ませてくれ」
赤井は傍のバーカウンターを指差した。
「何を?」
「バーボンをストレートで」
オーナーは、一瞬、酸い物を飲んだような顔をしたがぐっと押し込み、グラスにバーボンを注ぎ赤井の前に置いた。ゴトンと重い音がした。
「なぁ、オーナー。俺は、ここにカードを楽しみ
来ただけだ。だが、そんな態度を取られると、何やら後ろ暗い事があるのかと、勘ぐりたくなる」
「いやいや、参ったな」
オーナーは目元を擦った。
昨日の深酒が残っていて、口も頭も回らないのだ。
何の深酒だ?仕事か?この部屋で、昨夜もゲームが開かれた?オーナーが大酒を飲むほど儲けたのか?
「ふむ」
赤井は、頭痛に気を取られたオーナーの目を盗み、ぐるりと部屋を見回した。
この部屋の調度品の中で浮きまくってる花瓶の造花には、カメラが仕掛けられている。天井の空調にも。
セキュリティは、万全。
暴れて無理やり出て行くなら、まず、あれを壊してからになる。
「ここには秘密の金庫があるのだろうが、今回はその為に来たわけじゃない。完全にプライベートだ。そろそろ、戻って良いか?」
「いや、捜査官、貴方は、勝ち過ぎなんですよ」
「イカサマなんぞしてないが」
「そんなわけない。貴方のお仲間が、合図を送っていると、報告を受けてるんです」
「ほぉ。その仲間とは、ボディビルダー並みの大男か?それとも、異国の神話に出てくるような美青年か」
「…詩人ですね」
オーナーは、素直に驚いてみせた。
「貴方の仲間は、うちのディーラーでしょう?巻き毛のマリベルです。心当たりがある筈です」
それから、正直に容疑者の名前も出した。
カジノのオーナーにしては、駆け引きの初歩もなってない。
「あまり売り上げが良くないからクビにしようかと思っていたら、まさか、イカサマなんて」
「おいおい、イカサマなんぞはしてないさ。だが、彼女とは確かに話したな。とある事件の関係者なのでね」
赤井はプロの捜査官なので、持ってるカードは勿体つけて揺さぶりながら見せる。
「彼女がクビになるのは、売上が原因か?」
「な、なにか、他にも理由が必要ですか?」
オーナーは、揺さぶりに戸惑いを見せた。
思ってる事が全部態度に出てしまうのは、カジノ経営者として、全くダメだ。だが、彼が正直で、善人なのは間違いない。
彼の性根次第では、ぶん殴って終いにするところたったが…。
赤井は組んだ足を下ろし、テーブルに身を乗り出した。
「さて、ここではカードが遊べるんだろ?どうだ、サシでやらないか?」
「は?」
「俺がイカサマなんかやってないと証明しよう」
ニヤリ
笑って見せたら、オーナーもぎこちないなりに微笑みを浮かべた。
「いいでしょう」
不遜ぶっても、どこか不安そうな微笑みだった。
ゲームは、オーナーの親で始まった。
赤井はカードは運ではないと知っている。心理戦だ。そして、それこそ、赤井の最も得意とするところである。
カードが配られた。悪くないカードが手元に来ている。
「なぁ、トム」
赤井は、彼の愛称を呼んだ。
オーナーが顔を上げた。
「三ヶ月前に貴方の弁護士が遺体で見つかったな。首を切り落とされていたので、マフィアの仕業と断定。二人の構成員が逮捕された事件だ」
ピクッとオーナーの手元が跳ねた。
「地元の警察は、その二人を実行犯と断定したが、その後、二人とも一年以上前に堅気に戻っていたことが判明。ならば、何故、彼らが犯人と断定されたのか」
オーナーの手が震えていた。
「謎だ」
その震えでオーナーの手札はほぼ読めた。赤井は静かにチップを上乗せした。
「マリベルは恋人の無実を証明しようと、ここに潜り込んだだけさ」
「あのマリベルが⁉︎すごいな、勇敢だ」
オーナーは反射的に同じだけチップを場に出した。
「では、彼女が素人探偵だとは知らなかったのか?」
「勿論。確かに、本当にディーラーか怪しんでましたよ。あまりにも手際が悪くて」
「そっちも素人だからな」
コミュニティカードが全て場に出た。赤井はまたチップを上乗せした。
「捜査官、ここにはプライベートとか言ってましたね」
「あぁ、バチェラーパーティだ。この後、スイートルームで浴びる程酒を飲んで、ゲロを吐く」
「っぷ」
若きオーナーは、嘔吐くのをギリギリで耐えた。
「二日酔いか?」
「いや。すみません。それで、どなたのパーティなんです?」
「俺だが」
「は?」
「信じられないか?俺みたいな男と結婚する女がいるわけないと」
「いや、そりゃ、こんなにハンサムなら、モテて仕方ないでしょうけど」
「偽装だ」
その場にカードが出される。赤井は磐石のフルハウスだ。オーナーはワンペア。
散々積み上げられたチップは赤井の元に。
「あぁ」
オーナーからはぼんやりした溜息が溢れた。
「彼女は、今頃恋人と逃避行中だ。準備期間を作る為に、俺を利用した」
「なんで、それを知ってて、婚約なんてしたんですか」
オーナーはすっかりしょぼくれてしまった。
「長らく、彼女は俺の協力者を担ってくれていてね。最後には、こちらが協力する番だったというわけさ」
次のゲームが始まったが、オーナーは初めから腰が退けていた。気の弱さは、何とか克服してもらいたいものだ。
こんな商売をするには、この男は優しすぎる。それなりの人物に支えてもらう方がいい。幸い、頭は良いし、金儲けも上手い。
あとは、周りの人間次第だ。
「さて、俺の婚約者からの情報では、君は、この仕事を受け継いだ後、散々な目に遭ってるな」
「…よく、ご存知で」
「悪い客が増えた。売上金を狙って襲撃を受けた。身内を誘拐されたこともある。だが、君は警察を頼らず地元のマフィアを動かした。違うか?」
「親父は昔気質で、ヤクザな連中に幾らか金を渡してよろしくやってもらってたらしいので」
「ほぉ」
「私も、それに倣って」
だが、自分の意思ではない。そんな口振りだった。
本当は、そんな連中とは縁切りたかったが、誰かがそれを許さなかったのだろう。
「うちの弁護士は、そういう乱暴な奴らとも上手くやってくれていた筈なんですが」
「殺された弁護士か」
そいつが、この若い紳士の当たり前の常識を諫めたのだ。
「彼らと揉めたのでしょうか。あんな、見せしめみたいな殺し方をされて」
「君の弁護士は、裏社会に馴染んでいたさ」
赤井は密やかに笑い、チップを出した。
「五千上乗せだ」
「は?」
強気に出れば、すぐに迷う。
「降ります」
オーナーが勝負を降りた。
短時間ですっかり減ったチップに困惑しながらも、ゲームは続く。
オーナーはカードを配り、それから、漸く自分の周りに起きていたことを理解し始めた。昨日の酒は少し、抜けたらしい。
「捜査官」
幾分、マシな声で赤井を呼ぶ。
「赤井だ。赤井特別捜査官。大袈裟な肩書きだろ?直通の番号も教えようか?」
「では、赤井さん、うちの弁護士は何故殺されたんですか?」
「特別な仲だったのか?」
「は?」
「酒に強い方じゃないな。それが、毎日、飲んでる。嫌なことを忘れたいか?弁護士の男とは、特別な関係だったのか?」
恋人だったなら、悲しい顔をする。愛人だったなら、もう少し大袈裟な反応だ。
だが、彼は、悲しみに恥いるような複雑な表情を混ぜたのだ。
哀れだ。
赤井はそれは見ない振りで、わざとらしく腕時計に目をやった。
この部屋に入って一時間だ。
「そろそろ、誰かが俺を探し始めている頃かな。確認してくれ」
連れは二人。降谷とキャメル。二人とも仕事仲間だ。キャメルは、赤井の単独行動はいつものことと気にしない。降谷は…どうだろうか。
「少々お待ちを」
オーナーがどこかに電話を掛けた。警備スタッフだろう。短いとやり取りに、不穏な気配があった。
「警備員の数名から応答がないそうです」
何の騒ぎもないのに、何故か。そりゃ、彼が動き出したからだ。
「その辺に転がされてるぞ。人をやって助けてやれ」
「一体、誰が」
「物音一つ立てずに、そんなことをできるのはプロだろうな」
オーナーには警備からひっきりなしに連絡が入った。交錯する情報。一人、二人と物陰で見つかる気絶した警備員。なかなか、面白くなって来た。
オーナーが素っ頓狂な声で、赤井に新しい情報を告げた。
「カメラに、それらしい男が。貴方のお連れ様は金髪の青年ですか?」
「そうだ。うっとりするような美人だと言ってなかったか?あれで凄腕の捜査官ときてる。堪らないだろ」
やはり、動いたのは降谷だった。
「捜査官なんですか?若い男の子だと言ってますけど」
「あぁ、俺が直々に日本から引き抜いた。口説いて口説いて、外堀を埋めて、漸くこの国に連れて来たんだ」
「細身の青年だそうです。そんな人がうちの警備員をぶっ倒したんですか?まさか」
「滅法強いのさ。あの見た目に騙されて、気を抜いているうちに床に転がされている」
豪奢な椅子に腰掛けて、赤井が足を組み直した。同時に、真後ろのドアが蹴破られた。
バーンッ
蝶番が外れるほどの勢いだった。だが、赤井は慌てて振り返るような真似はしなかった。
あの男なら、ノックなんて行儀良いことはせず乗り込んでくると分かっていたからだ。
実に、清々しい。実に、勇ましい。
「赤井っ、無事ですか」
例の金髪の美青年である降谷が、単身で乗り込んで来たのだ。
勿体つけてから、振り返る。
ハッとするような美しい男がそこに居た。
髪を振り乱し、頬には生き生きと血潮の赤みが差している。そのギラギラした目よ、いつでも飛びかかれる獣のような足よ。赤井は、また何度目かの恋に落ちた。
「…何、してんですか?」
降谷は赤井が拘束されるでもなく、痛めつけられるでもなく、ピンピンとしていることに、呆気に取られたようだった。
戸惑いながら、赤井と、オーナーと、テーブルのカードを見比べて、また赤井を確かめる。
「あぁ、見ての通りポーカーだ。俺が勝ってる」
たんまり積んだチップを誇らしく見せつけた。
「はぁ?何を暢気に」
「俺が居なくて心配したか?」
「っ!」
降谷が息を飲んだ。
「そりゃ、まぁ」
それから、気不味げにボソボソと言った。
「ほぉ。俺が監禁されて、怖い目に遭ってるとでも?」
「…そういう事もあるかと」
「キャメルはそう言わなかったんだろ?」
「どうせVIPルームで酒を飲んでると言ってました」
キャメルの奴。
あいつは、後でシメると決めつつ、赤井は、にこりと降谷だけに振る舞う笑顔を浮かべた。
「イカサマを疑われた。強すぎると目立つ」
「ふぅん?」
降谷は同席している若き紳士をチラリと見た。その一瞬で、彼を値踏みしたはずだ
金持ち、育ちがいい、頭のいいお人好し。つまり、いい人間だと認める。
降谷が腰から取り出した物をテーブルに置いた。
ゴトンと重々しい音がした。
「これ、返しておいてください」
降谷の武装は解除された。
「お宅の警備員からお借りした銃です。あと、ちょっとだけ乱暴な真似をした事も、謝っておきます」
それから、少しため息を吐いて、降谷は赤井の肩にそっと手を置いた。
「それで?何故、疑いを掛けられたんです?まさか、やったんですか?」
「やるわけ無いだろ」
すぐに言い返した。オーナーは異論を唱えた。
「でも、うちのディーラーと私的な会話を交わしたんです」
「マリベルには、恋人は釈放される筈だと伝えただけだ。イカサマの相談はしてない」
これで、素人探偵のマリベルは、慣れない潜入とディーラーの仕事から解放される。
「釈放…。では、誰が、彼を殺したんですか」
あとは、この紳士の傷付いた心に安らぎが訪れる事を願うだけ。
赤井は、その為に、大人しく、ここに座っていたのだ。
テーブルに頬杖をつく。
すぐ近くに、トーマスの濁った目がある。酒に溺れた、哀れな男の目だった。
「君の父親だ」
赤井は、それが無慈悲に聞こえないように、注意深く告げた。
「え?」
「今は、癌で入院している君の父親だよ」
ぎゅっ
肩に置かれた降谷の手が強くなった。
「彼から相談を受けた。自分が、殺し屋を雇って弁護士を殺させたのだと。だから、無実の人間を出してやって欲しいとな」
「そんな」
トーマスがぼんやり呟く。
「君に降り掛かったいくつもの不運は、弁護士の仕業だった。だが、君は、それに気が付かなかった。恋に目が曇ったんだ。違うか?」
降谷の手が震えている。もう、やめてやれと言いたいのだ。
「遊ばれてると、気付いていただろう?」
赤井は項垂れる目の前の若い男のでなく、肩に置かれた降谷の手を取った。
「トム、あの男は、君が酒に溺れてまで偲ぶ価値のある男じゃない」
きっと初めての恋に周りの言葉は届かなかったのだろう。
だが、今なら?今、死の淵にいる父親の言葉なら、受け入れられるのでは?
「病床の父親が、何故、あの男を殺したか、分かってやれ」
肩を叩いてハグしてやるべき場面だろうが、生憎、赤井はそういうタイプじゃ無い。そのまま席を立った。隣で、降谷が項垂れる青年に、何か言いたげな顔をしていたが、それも制した。
「もう、行かせてもらうぞ。勝ち逃げで申し訳ないが」
オーナーは項垂れたままだ。
「酒をごちそうさま。美味かった」
赤井は降谷の肩を抱いて、部屋を出た。
降谷は若い彼を一人残すことに不安そうだったが、放っておいてやるべきた。
この仕事を続けるなら、これくらいの山は一人で越えなくてはならない。
それよりも、今は、赤井と降谷の仲の方が重要だ。
細い肩を抱き直す。
しっかりした骨と筋肉だが、男に抱かれて収まるほどに細い。しなやかで、絞り込まれた身体だった。
「さて、君は、一人で乗り込むほど俺を心配してくれていたようだが」
赤井は逃すまいと、肩を抱く手に力を込めた。
「何度も振った男に対して、それは些か情熱的過ぎるのでは?」
降谷は密着しながらも、何とか目を逸らしている。
その恥じらい、戸惑い、全てが赤井の情熱に火をつける。
堪らない。どうしても手に入れたい。
「黙秘か?」
問いかけにも、降谷は黙ったままだ。言葉を発すれば、墓穴を掘ると知っているのだ。
「どうせキャメルは『ほっといても帰ってくる』と言ったんだろ?」
黙秘は当然の権利だが、赤井には通用しない。
「だが、君は私服警備員を三人も倒して、特別室に乗り込んで来た。あの時の君には痺れたよ。頑丈なドアを蹴破るとは、素晴らしい足をしてる。監視カメラに映ったのはわざとか?それとも、慌てていたのか?どちらにしても、あまりにも手際が良くて、君が何をしたのか素人には分からないだろう。鮮やかだ。惚れ直したよ」
赤井は遠慮なく降谷の頬にキスした。
「もぉ、うるさいなっ」
降谷は赤井の顔を押し退けた。
でも、態度とは裏腹に、頬はときめきに赤く染まっていた。
「俺の結婚は止めてくれなかったな」
「大金持ちとの結婚を止めるわけにはいきませんよ」
「ほぉ」
「僕にはお金も、地位も、何もない…祖国さえ、無くした」
「有り余る愛があるだろ?」
「ありませんっ」
躊躇いのない返事は、本心でないからだ。
「本当に?」
間近に目が合う。
降谷の瞳は、戸惑い、揺れていた。
「君の愛を得られないなら、全てが無意味だ。金も名誉も」
赤井の目には、降谷の潤む瞳が映っている。まるで宝石のように煌めく瞳だ。
「君の愛は、この世の全てより勝る」
「…そんな言葉、今更、聞かされても、困る」
揺れる心が、声に現れていた。
「貴方は僕に優しくしてくれる、もしかしたら、好いてくれてるのかもしれないって思ってたけど、僕はいつか終わる恋なんかには飛び込めない。全てを捨てて、貴方の元に来たんです。貴方へのこの気持ちは、恋なんて、あやふやなものではいけないんです」
「全く、頑固だ」
赤井の好意が、ほんの片鱗しか伝わってなかった事にも目眩を起こしそうだ。
優しく接するだけじゃ伝わらない?素敵だと褒めるだけでは、駄目だったのか?
いや、降谷だって、赤井には特別な感情を抱いていた。尻込みしただけのことだ。
「終わることを怖がって諦めるなんて、馬鹿らしい」
「何とでも言え。お前なんか勝手に結婚でもなんでもしたら良いんだ」
「あぁ、そう言えば、偽装だと言い忘れていたな」
「はぁ?だって、貴方、これもバチェラーパーティだって。だから、僕は、漸く、踏ん切りが…」
「もう、百回くらい君に振られたが、ちっとも気持ちは揺らがないな。もう、これは一生の病なんだろうさ」
自分でも呆れる。自分でも制御できない。他の誰かと結婚?考えたこともない。
「一生、君を愛し続ける。君は、安心して、その、あやふやで危うい恋とやらに飛び込めば良い。君が失うものは何一つ無いと、俺が保証しよう」
「でも、結婚、するって、言ってた」
「彼女の逃避行に利用されただけた。挙式の費用として用意した金を持って、恋人とフランスに逃げた」
降谷が言葉を無くし、ポカンと口を開けた。
いやいや、この話を信じていたのは、多分、君だけだぞ。
とは、彼のプライドの為に言わなかった。
なんで、こんな馬鹿な話を信じたんだ?少しは嫉妬したか?
そうなら嬉しい。
「降谷くん、君は何も誓わなくても構わない。だが、俺は君に永遠の愛を誓う」
ぎゅっと抱き寄せた肩が強張った。
「俺が君に愛を請うのは、これが最後だ。今回、君に振られたら、俺は、大人しく君の前から姿を消そう」
情けないが、それは赤井の緊張が伝わったのだろう。
「最後だ。だから、心して聞いてくれ」
赤井は、降谷の前に跪いて、その手を取り、恭しく頬を擦り寄せた。
「君を愛してる」
他の誰にも渡したく無い。全てを捧げる。一生、側に居る。全ては赤井の心の中にあるが、言葉に出てきたのは、シンプルな一言だけだった。
出会ってから、今この時までの全てが頭の中を駆け巡った。どの降谷も苛烈で、鮮明で、美しい。
まるで、花火みたいに、激しく美しく燃え立つ男だ。
この男を諦めるなんて、人生を捨てるようなものだ。それは、精神の死を意味する。生きるか死ぬか、赤井は、生涯で一度きりの大博打に出たのだ。
数瞬、数秒、いや、実際にはほんの瞬き一つの間だったかもしれない。その後で、頬に触れる降谷の手が、そっと赤井の顎まで滑った。
「ふる…」
やんやわりと上向かされ、触れるだけの口付けが与えられた。
柔らかな、ささやかな口付けだった。だが、確かに恋の成就の証であった。
「僕を捨てたら、殺してやる」
誓いのキスには、物騒な脅し文句が付いてきた。
それが、また赤井の胸を痺れさせた。
「愛してる」
立ち上がり、抱きしめる。おずおずと、抱き返された。それから「僕も」と羽音くらいの囁きが聞こえた。
実は、赤井はその素晴らしい愛の成就の瞬間をそこまでしか覚えてない。
気がつくと、降谷を抱き込み通路の壁に押し付け、はちゃめちゃにキスしていたからだ。
はっと気が付けば、降谷の衣服は乱れ、悩ましく喘いでいる有様ではないか。
エロい。素晴らしく、いやらしい。堪らない。誰がこんな風に乱したのだ。
俺か!
「降谷くん…なぁ、零」
「ん…」
赤井の手が降谷の腰に伸びたところで邪魔が入った。
「あ、あの!」
先ほど出てきたドアから、オーナーが顔を出した。
「ここにも監視カメラが付いてますから、続きは、お部屋でなさってください」
それから、あれほど項垂れていたくせに、今は呆れ顔で二人を諫めたのだった。
「うちのスタッフから、目のやり場に困ると苦情が入ってます」
「あわわ」
濡れ場を見られた降谷が恥ずかしそうなので、抱き込んで隠してやった。ぎゅっとしがみついてくるのが可愛かった。
「さっきの私の負け分で、良いお部屋を用意しました。シャンパンもお持ちしますから」
オーナーは粋なウィンクをしてみせた。
こんな馬鹿な場面に出くわしたショックか、すっかり立ち直った様子だ。
「婚約、おめでとうございます」
手渡されたカードキーは新婚用のロイヤルルームの物だった。
振られ続きで、面談な事にも巻き込まれ、あちこちの借りも返さなくてはならなかった。ここのところの赤井は、少しばかり自棄っぱちだったが、だが、どうだ、この幸運は。
「ありがとう。今日は、俺の人生で最高の日だ」
赤井は、若きオーナーと握手を交わした。
こうして、赤井は人生を賭けた大博打に勝ったのだった。
その後、連れ込まれた部屋いっぱいに薔薇が敷き詰められていた事で降谷が大声で「なんじゃこれ!」と叫んだが、婚約が破棄されることはなかった。
それどころか、百回振られた分を取り返して上回る程に甘い夜を過ごせたので、やはり、赤井は己を強運の持ち主だと信じている。
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