いつか墓に入るまで

「今日は、やめときます」
 キスしようと覆い被さったところで、恋人からストップが掛かった。
 時間は夜の十一時。酒を少し飲んで、酔った恋人をベッドに押し込んだところだった。
 やんわりとだが、頬を押しやられた。キスはしないぞという意思表示だ。
 柔らかだが確固とした拒否である。
 その一瞬で、何通りもの対応を考えた。
 強引にキスして、なし崩しに抱く?
 甘えた振りで「ダメか?」と頼む?
 臍を曲げた風を装って、彼の罪悪感を擽る?
「…あぁ、分かった」
 結局赤井は大人しく恋人の上から退いた。
 自由になった恋人が、ほっと息を吐いたのは聞き逃さなかった。

 その日は中々寝付けなかった。
 何度か寝返りを打ち、その度に隣に眠る恋人の安らかな寝顔を確かめた。
 恋人の降谷は、寝顔も可愛い。
 溜息が出た。
 初めてだ、断られたのは。恋人同士になって、数ヶ月、何度も枕を共にしてきたというのに。
 何故だ?何が気に入らなかった?赤井のセックスに不満が?
 分からない。
 長い時間を掛けて漸く手に入れた恋人だ。何度も何度も拗れて、それでも諦めずに口説いた。それだけの価値がある人だ。愛しているのだ。今更、手放せやしない。
 そっと頬を撫でた。降谷はふっくりした唇を綻ばせた。
「…ん。…かぃ」
 今、多分、赤井の名を呼んだ。
 夢の赤井は降谷と一緒にいるらしい。いや、現実の二人も、まだ蜜月の期間の筈だ。
 では、何故、拒まれたのだろう。
 情けない話だが、生まれて初めての経験だった。
 なんとなく、何事も卒なくこなせる自分に、過剰な自信を持っていたような気がする。
「君を上手く愛せてると、思っていた」
 それは、慢心だったのかもしれない。
 もっと、優しく?激しく?丁寧に?
 赤井は、窓外が白んでいくに、まんじりともできずに、ただ、降谷の寝顔を眺め続けたのだった。

 
 翌朝の降谷はいつも通りの降谷だった。
「おはようございます」
 寝起きが良いのは、元気な証拠だ。
「おはよう。よく眠れたかな?」
 一晩中眺めて知ってるくせに、赤井は尋ねた。
「はい、とても。あ、赤井、朝はパンにします?ご飯が良い?」
「なんでも良いよ」
「じゃあ、トーストに卵付けますね」
 降谷の耳の横の毛がぴょこんと跳ねていた。
 直してやろうと手を伸ばして、止めた。
 昨夜、拒まれた事を思い出したのだ。
 降谷はそれには気付かずに、慌ただしく朝食の準備にとり掛かってしまった。
「今日は、どうします?僕、今日から仕事です」
「あぁ、俺は午後からだ」
「今日も泊まっていきます?」
 二人揃って三日の休みを取った。その間、赤井は降谷の家に居続けだった。
「いや、流石に自宅へ戻る。着替えがない」
「ここに何着か置いておけば?いつでも泊まれるように」
「いいのか?」
「?服くらい、気にしませんけど」
 降谷が首を傾げた。
 それが、あんまりにも可愛くて、思わず抱きしめてしまった。
 降谷のことはずっと可愛いと思っていた。恋人になれたら面白いなと口説いて、友人の延長線のような付き合いから始まった。
 いつの間に、こんなに愛していたのだろう。
 思い悩むのは、君のことばかりだ。
「赤井?」
「君に、嫌われたかと」  
 こんな事を本人に問いかけるのか?
 赤井は自分の事を笑いたくなる。
 これまでの人生で、愛のあり方を学んでこなかったツケが回ってきたのだ。
「え?なんでですか?え?」
 腕の中で、降谷が身じろぐ。
 顔を見られたくなくて、キツく抱きしめたが、いかんせん、降谷は赤井と力具合が拮抗している。暫くもがいた末に、赤井の腕から顔を出してしまった。
 さっきはぴょこんとしていた髪がもしゃもしゃだ。
 大型獣の赤ちゃんみたいだ。
 降谷は何をしてても可愛い。何故なら、それ見る赤井が心底惚れてるからだ。
「もしかして、僕、何か、不作法な真似をしました?」
 はっと何やらに思い至ったようだ。
 間近に見た彼は、悪戯を叱られた子供のような顔をしていた。
「代替案を提示するべき場面でしたか?」
 そして、口や手で?と扇状的な手つきをして見せた。
 ぎょっとした。
 そんな身勝手な事を言う男だと思われたくなかった。しかし、赤井のこの憂いは、実に自分勝手で、思いやりのない独りよがりだと気付いたのだ。
「いや、すまない、そんなんじゃ」
「…貴方には言ってなかったんですけど、まともに恋人なんてできたことがなくて。貴方とも、上手く付き合えてないとは感じてはいたんです。可愛い恋人の振る舞いをしたいとは、心掛けているんですけど、いかんせん、男集団でばかり過ごしてきたので」
「違うんだ」
 降谷の詫びのような言い訳のような言葉を遮った。
 とても、聞いていられなかった。 
 降谷のせいではない。全て赤井に合わせて欲しいわけでもない。
「その、昨日、君が…セックスを嫌がったのが、ショックで」
「へ?」
 降谷は顔を真っ赤にした。
 ウブな彼は、朝からセックスなんて単語を聞くと狼狽えてしまうのだ。
「下手くそだとか、乱暴だとか、そう思ってるなら言ってくれ」
「へ?」
「前戯が短い?長い?しつこい?荒い?俺のセックスは物足りない?」
「わーっ!」
 降谷は大声で赤井を遮り、腕を伸ばして突っぱねた。
「ば、馬鹿っ、何言ってんだよ、もう」
 乱暴だが怒ってはない。ただ、恥ずかしそうに真っ赤になって、赤井からは目を逸らす。
「あ、貴方の…に不満なんてないです」
「しかし、昨夜は」
「あれは、赤井が」
 漸く目が合う。 
 降谷は嘘を吐き慣れている。だが、赤井には誠実な態度を見せる努力を惜しまない。
 目を見て、まだるっこしい物言いはせずに、本心を。降谷のそういう誠実さは、尊敬すべきだ。
「毎日毎日、朝だろうと昼だろうと盛るから、休暇中、殆ど眠れてなかったし、お、お、お尻も、なんか、ジンジンしちゃってて」
 語尾は小さく掠れた。降谷はそれでも、じっと目を合わせたままだった。
 恥ずかしそうだ。可哀想で可愛い。
「だって、三日もあった休みの間、性行為しかしてないんですよ。流石に眠いし、体調管理もしなくちゃいけないし、寝不足で仕事に行ったりしたら、周りにもお盛んだなって思われちゃいそうだし」
「それは…すまない」
 謝りつつ、赤井の口元は緩んだ。
 腹一杯まで満足させたと、男の矜持が満たされたのだ。
 いやいや、やり過ぎだと怒られてるのだぞと、引き締め直す。
「もしかして、僕が淡白なんですか?いや、絶対にそんなことないです。え、もしかして、欧米人はこれくらいが普通?」
 降谷は異文化交際に、少しばかり自分の常識を疑い始めた。
 そして、少しばかり、寂しげに呟いたのだ。
「それに、あんまりしたら、飽きちゃいますよ」
「飽きない」
 赤井はすぐさま返した。
「飽きる訳ない」
 もう一度、その痩躯を抱きしめ直した。
「君に、嫌われたかと、気が気じゃなかったんだ」
「え?ごめん。そんなに冷たい言い方しましたっけ?」
「キスまで拒むから」
「き、き、キスしたら、最後までしたくなってしまう、から」
 もじもじと腕の中で恥じらう仕草。この子は、それすら、男を唆るとは知らないのだ。
「なぁ、今夜も、ここに帰ってきて良いかな?」
「へ?」
「君が疲れない程度にするよ」
「へ?」
「毎日でも、抱きたいんだ」
「あの、僕の話、聞いてました?」
「ん?あぁ。程々に愛して欲しいってことだろう?」
 あまり自信はないが、降谷がストップを掛けてくれればいい。赤井は、彼の奴隷だ。大人しく言う事を聞くだろう。
「う、あ、う…そうじゃなくて」
 降谷は恥ずかしそうに目を閉じた。
「メチャクチャに愛して欲しいです」
 それから、自棄っぱちに大きな声で言った。
「貴方の好きにして欲しいんです。貴方のやり方でして欲しいです」
 赤井の肩口に顔を埋めてきた。真っ赤な顔を隠したいのだ。
「でも、壊さないように大事にしても欲しいです」
 甘えを含んだ声は、彼なりの精一杯だ。
 やんわりと頬を掴み顔を上げさせた。
 涙ぐむほどに恥らって、こんな言葉を口にしてくれたのだ。
 潤んだ瞳が開いた。
「飽きないで欲しいです」
 心からのお願いだった。
 この三日は、二人のだけの時間を惜しむように抱いたが、降谷は逆の気持ちだったのだ。
「もう、この先、ずっと、貴方のものなんだから、そんなに慌てなくてもいいじゃないですか」
「年甲斐もなく、張り切ってしまったんだ。俺に夢中になって欲しくて」
「僕は、ずっと前から貴方しか目に入らないくらい夢中です」
「本当に?」
 付き合って初めてだった。こんな、熱烈な愛の言葉は。
「僕は、あんまり愛情表現が上手くないから、その分、貴方が上手に愛してください」
「任せてくれ。君のことなら、君自身より知ってるんだ」
 いや、実は、全てが新鮮で、全てが驚く事ばかりだ。しかし、赤井には自信があった。
 これほど君を愛せるのは、自分だけだ。
 また大それた自惚れだ。
 それでも、この自尊心ばかりは揺らぎなく持ち続けられる。
「あ、ダメですよ」
 キスしようとしたのは、また拒まれた。
「仕事に行きたくなくなるので、ダメです」
「キスだけでか?」
「うちに泊まっても、いってらっしゃいのキスは無しですから」
 変な拘りだ。
「思うに、それは、慣れの問題じゃないだろうか。恋人同士なんだ。キスなんて、顔を合わせる度にするものだ」
「確かに、海外の映画ではそうですが、ちょっと馴染めないです」
「なら、少しずつ慣れればいい」
 赤井は、降谷の葛藤には構わずキスした。濃厚なやつじゃない。挨拶にしては、甘ったるい程度のやつだ。
 それは、降谷のお気に召したようだった。
「…もぉ、朝からこんな話して、馬鹿らしい」
 少し恥ずかしそうに目を逸らしつつ、キスの残る唇を撫でて、降谷は呟いた。
 降谷が慣れてないのは分かっていた。もしかして、赤井の好みに合わせてくれてる?と思ってもいた。
「降谷零は、こういう男なんだな」
「え?」
 偽りない降谷本人の顔だ。
 譲れないところは、守る。譲れるところは、赤井に合わせる。
「あんまりにも俺好みだから、驚いてる」
「だから、付き合ってるんじゃあないんですか?」
 降谷は不思議そうな顔で赤井を見つめていた。
「そうだ。その通りだな」
 なんで、こんな完璧な男に恋人が居なかったのか、漸く合点が入った。
 世の男たちなら目先の欲望や寂しさで蹌踉めく場面も、降谷は断固として靡かない。
 心を許したのは、赤井だけなのだ。
 昨夜、馬鹿らしい理由でペラペラになった自尊心が、パンパンに膨れ上がる。
 この男が、自分を選んでくれた。
 優越感?いや、これは、恐れ多いほどの誉れだ。
 もし墓を建てるなら、墓標は降谷零に愛された男」にして欲しい。
 赤井は、もう一度だけ、降谷をきつく抱きしめてから、放した。
「ほら、キスはしたが、仕事に行くんだろ?」
「行きますよ」
 生意気なへの字口が可愛い。
「俺がコーヒーを淹れるから、君はパンを焼いてくれ」
「はい」
「送っていこうか?」
「電車の方が早いです」
「なら、駅まで送ろう」
 降谷がトースターにパンを突っ込んだ。赤井はコーヒーメーカーを仕掛けた。
「貴方は、何時終わり?」
「そうだな、今日は遅くならないから、君のフロアに寄ろうか?」
「えぇ、一緒に出られると思います」
「同伴で帰宅か、大胆だな」
 これまでなかなか退勤の時間が合わなくて、揃って帰ることはなかったのだ。
「いいじゃないですか。別に恥ずかしいことしてないんだし」
 降谷は言った。 
 何気なさを装いつつ、随分と気合の入った声だった。
 これは、まさか、大きな局面に差し掛かっているのか?
「君は、本当に素敵だ」
 野暮な事は聞き返さず、最上級の賛美を送った。
 降谷は照れ臭そうに笑って、頷いたのだった。

 この日、二人が揃って帰った事件は、職場をマッハで駆け巡ることとなるのだが、後の降谷はそれを一つも否定しなかった。当然、赤井も聞かれればその通りだと答えるものだから、すぐに、二人の仲は誰しもが知る事となったのだった。
 もしや二人のボタンは掛け違ってしまったのかと思い悩んだのに、蓋を開ければ大恋愛の幕開けである。全く、赤井にとっての降谷は、人生を掛けて解き明かすべき難問だ。
 だが、そういうところがいい。一生、振り回して欲しい。
 出会ってから何度目か分からないが、またもや恋に堕ちた。
 因みに、赤井の程々に愛する宣言は、あまり実行されていない。
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