誘惑
不思議な人だ。
降谷が、周りにそう言われているのを知っていた。
赤井には、それがよく分からなかった。
情熱的な男だ。素晴らしいスピリットを持ってる。パワフルでありながら、クレバーだ。
赤井自身も、彼には絶賛に近い評価をしていたが、周りが掴みきれないと振り回される理由は分からなかったのだ。
「なぁ、君、ちょっとバーボンみたいに振る舞ってくれないか?」
金曜の夜の居酒屋で、騒めきに紛れて、赤井は言ってみた。
「は?」
目の前で、降谷は枝豆を口に入れ損ねた。
てんてんてん…
黄緑の可愛い豆粒がテーブルを転がっていく。
「ほら、あの小悪魔だ。どうも、あれが君の不思議の元のような気がする」
「何言ってんですか、あんた」
降谷は呆れつつ、枝豆を拾い、皿の隅に片付けた。
「仕事仲間や捕まえた悪党たちが、君の事をとんでもない悪女か何かみたいに言うものでね」
「まぁ、僕くらいのハンサムになるとね、そうなりますよ」
なるほど、彼ほどになると、可愛さで世界征服できるらしい。
納得しかけた赤井に、降谷は呆れ顔だ。
「今のは突っ込むところです」
ぞんざいな物言いは遠慮のない証拠。
二人の仲が拗れていたのは、数ヶ月前までの事だ。今では、友人と言って良いほどに親しく付き合っている。
親しくなればなるほどに、良い奴だと思う。男らしいが、心配りは細やか。豪胆だが、優しい。そういったバランスのいい人柄こそ彼の魅力だろう。
当然、周りの評価のような、妖艶さは感じない。
この男のどこにそんな妖しさが?
まじまじと眺めると、降谷は居心地悪そうに溜息を吐いた。
「ちょっとしたコツがあるんですよ」
「ほぉ、技術的な物だと?」
「技術っていうか、意識っていうか」
降谷が言うには、それは、潜入時に身についた処世術のような物だそうだ。周りの悪女たちの振る舞いを参考に、相手の心を操る術を身につけたのだと。
「それは、是非、見てみたい」
赤井は好奇心に抗えずに、頼み込んだ。
「えー」
降谷は乗り気ではなったが、食い下がって頼んだら、仕方なしに頷いてくれた。
「ちょこっとだけですよ」
降谷は、すみませーんと手を挙げて店員を呼び寄せた。
「はい」
若い男の店員が感じ良い絵顔で対応に来た。
「追加、お願いします」
にこり。降谷は微笑む。
「はい、ご注文どうぞ」
「ビールとハイボールを」
「はい」
普通だ。
だが、そこで、立ち去ろうとする店員の袖に降谷がそっと触れた。
「あ、ちょっと待って」
ぞわり
赤井の背筋を寒気に似た何かが駆け抜けた。
降谷の声に不思議な揺らぎが混じる。それが耳に届くと、甘く不安定に響くのだ。
「やっぱりビールはやめて、ハイボールを二つ」
「ふ、ふたっ」
カラン
店員の手からペンが落ちた。
「ふたつ…」
バイトらしい若い男は、顔を真っ赤にして暫く立ち尽くした。
「ペン、落ちましたよ」
「は、は、は、ハイっ」
落ちたペンを拾う店員の手が、滑稽なほどに震えていた。
もうひと押し、降谷が微笑みかけでもしたら、青年はその場で愛を乞うかもしれない。若い彼は、一瞬で降谷に魅了されてしまっていた。
当の降谷はというと、店員が困惑のまま退場しても、涼しい顔で枝豆を口に運ぶことに専念しているではないか。
「驚いたな、どうやったんだ」
「色気ってのは、操れるものですよ」
実に小憎たらしい澄まし顔だ。
「いや、無理だろ」
「芸能人も街では輝きを抑えるって言うでしょ、それです」
「というと、君は、その気になれば、どれだけでも蠱惑的に振る舞えるのか?」
「別に必要ないでしょ。ちょっと、意味ありげに振る舞えば、相手はポーッとなりますよ」
確かに、それは、目の前で証明された。
「その見た目を最大限に活用しているだけだと?あれがか?」
「うーん、どっちかというと、フェロモンの量を調製する感じです」
急に赤井の理解できない話になった。
「ん?」
「普段の僕はゼロです」
降谷は親指と人差し指で目盛を表現した。
ゼロは、両方の指がピタッとくっついている。
「バーボンが百です」
指と指は最大限に離された。
「安室は三十程度かな」
今度は、数センチほどの隙間。
「ん?」
赤井は、まだ理解ができない。
だが、確かに、さっきの降谷の声の甘さや揺らぎは、計算というより調節なのかもしれない。
赤井はもっとその事を知りたいと思った。
できれば、間近にそれを体験してみたいとも。
それならば、もう少しプライベートな空間の方がいい。だが、急に自宅に呼ぶのは良くない。散らかってるのだ。
「よし、二件目に行こう。君のフェロモンとやらを見てみたい」
「物好きだなぁ」
降谷は断りはしなかった。乗り気でもなかった。
「いいけど、どうなっても知りませんよ」
赤井が好奇心に抗えない男なのを知っている降谷は、渋々といった風に頷いたのだった。
二件目は、赤井のヤサの近くのバーにした。酔い潰れても、なんとかなる距離だ。とことん飲むつもりで、そこを選んだ。
「へぇ、洒落た店ですね」
「蕎麦屋だと思って入ったらバーだった」
構えが和風で店の装飾も竹が使われているので、すっかり騙されてしまったのだ。
「へぇ、ふふ、外国の人っぽい」
そのエピソードの何が良いのか知らないが、降谷は楽しそうに笑った。
「でも、そういう偶然で出会った店って、素敵ですね」
「あぁ。最初こそ間違いだったが、それから、ずっと通っている」
騒がし過ぎず、静か過ぎず、酒も美味い。一人で飲むのに良い店だ。
誰かに教えるつもりはなかったが、降谷が気に入ったなら、連れてきて良かった。
重々しいドアを開ける。小粋なジャズが溢れてきた。バーにしては広い店は仄暗い照明がゆらゆら揺れていた。
「いらっしゃいませ。今日はお連れ様がいらっしゃるんですね」
初老のマスターは空いてる席をいくつか目配せしてくれた。
カウンター席の端が空いていたので、降谷を座らせた。赤井はその隣に座る。そして、すぐさま促したのだった。
「さぁ、百の君を見せてくれ」
とにかく、気が逸っていたのだ。
「気が乗らないな」
「ここまできて、それは無いだろ」
とんでもない奇跡が見られるかもしれない。こっちはプレゼントを前にした気分だというのに。
「今日だけですよ」
降谷はにこっと笑う。そうすると、爽やかで健康的なハンサムが、柔らかく甘ったるく緩んだ。
意味ありげではない笑顔だった。しかし、赤井は、これが自分だけに向けられた笑顔だというだけで、何でもしてやりたくなった。
おかしい。そんなバカな。相手は降谷だぞ。歳の離れた妹に対するのと同じような気持ちになるなんて。
そっと降谷が赤井に身を寄せてきた。
「この店、初めてだから、貴方が選んでください」
いつもは腹から響く声のくせに、今の声は囁きほどの小ささだ。
一言も聞き逃せない。降谷の口元に神経を集中させる。
艶々な唇だ。綺麗だ。
狭いスツールでバランスを崩したのか、彼の手が赤井の太腿に置かれた。
「甘くないのがいいかな」
「ん?」
「僕のお酒」
「あぁ」
それなら、何を飲ませる?
赤井の頭にあるカクテルの名前がすっかり飛んでいった。
降谷の整った指が、微笑みの形の唇に添えられた。
「チョコレートも、食べたいな」
君、いつも、そんなの食べないだろ。
つまみは乾き物が好きな筈だろ。
言いたいことはあるが、赤井の口は満足に動かない。
「貴方は?バーボン?」
「あ、あぁ」
「好きなんですね、本当に」
耳の中で蜜蜂が羽ばたきしている。降谷の声がハウリングを起こす。声を聞き取りたいと、その口元に耳を寄せた。
「お酒、頼んでください」
降谷からは、蜂蜜みたいな甘さと柑橘系の爽やさと、そこにほんの少しの苦味が混じる匂いがした。
香水?いや、降谷はそういう痕跡を残さない。
では、これは何だ?
とにかく、とても良い匂いだ。ずっと嗅いでいたい。
降谷の手が太腿でほんの少し動く。甘い疼きが、腰まで響いた。
艶めいた唇も、煌めく瞳も、全て、この目に焼き付けたい。もっと、もっと近くで…
「何になさいますか」
パチンと何かが弾けた。
カウンター越しに、マスターが注文を待っていた。
「あぁ…バーボンと、彼にカクテルを」
「あんまり甘くないやつで」
降谷は快活に言った。さっきまでの艶っぽさが嘘みたいな、明るい爽やかな声だった。
「驚いた」
赤井は素直に認めた。
「君は変装するわけでもなく別人を演じてきたが、そのからくりが、これか」
恐るべき技術だ。いや、技術ではない、生まれ持った才能だ。
「安室なら、三割から四割です」
今は、確かに安室の顔だ。可愛げのある笑顔。降谷とは違うタイプの清潔感と華やかさがある。
「お連れの方、素敵ですね」
愛想無しのマスターが珍しくそんなこと言った。
「サイドカーです」
出されたカクテルは、赤井が飲んだ事がない物だった。
「美味しい」
一口。唇を湿らせた降谷は、二口目もグイッとやった。豪快だ。
赤井なら彼に何を選んだだろう。
降谷のことを知ってるから、きっとサムライとかそんな名前のカクテルを選んでしまいそうだ。
「これ何が使われてるんだろ」
「あー、たしか、ブランデーが使われてる」
ここのマスターがサイドカーで何たらいう賞を取ったと聞いたことがある。自慢の逸品を飲ませようと出したのか。
だとしたら、降谷の魅力は、赤井以外にも効いてるらしい。
「美味しいです」
隣で降谷は艶っぽくも愛らしい表情を浮かべていた。
バーボン?安室?
これは、誰だ?何パーセントの君なんだ?
まじまじと見ていると、降谷はふふっと笑った。
「フェロモン、感じました?」
これが、フェロモンだと?
「いや、これは、超能力だ」
息が上がる。心臓が暴れる。目の前が揺れる。
そこにあった降谷の手を取った。そして、先程、そうされたように自分の腿に導いた。
不適切だ。距離も、接触も、友人同士としては際どすぎる。
赤井は息苦しさに胸元を緩めた。
「汗だくだ」
額を拭う手が汗で濡れるほどだった。まるで泥酔しているように、薬物がキマってるように、思考は混濁した。
「ま、こんなもんです」
唐突に、あの得も言われぬ芳しい匂いが、霧散した。
降谷は、いつものゼロパーセントの顔に戻った。漸く、赤井の脳も理性が働き始める。
「すごいな、君」
これが、あのバーボンの秘密なのか。
降谷は好きなようにフェロモンをコントロールできるのだ。支配したければ百、人々に埋没したければゼロ。
不思議な男だ。
そう言われるのもわかる。
何故、長い付き合いの赤井が知らなかったのかは謎だが、簡単に手の内を明かす男じゃない。
とにかく、喉が渇いた。
赤井は手元のロックグラスを煽った。焼けるような液体が喉を通っていく。
痺れた頭が、アルコールで逆にはっきりした。
横を見ると、降谷が頬杖を突いて、赤井を見ていた。その、曖昧な微笑みは「どうなっても知らないと言っただろう」と言っているようだった。
「周りの連中が、君に惑わされるわけだ」
「万能じゃないですけどね」
降谷はチョコレートの銀を剥がし、蠱惑的な唇で喰んだ。まだ、さっきの魔法が効いてるのか、その仕草は、赤井の目に堪らなく魅力的に映る。
あぁ、今夜、君とキスできるなら、何百万でも注ぎ込むだろう。
「凄まじい威力だ」
「そうですか?」
「あの小悪魔バーボンが、金持ちから散々貢がれた理由が分かった」
「そんなに万能じゃないんですよ、これも」
「まさか。君にひれ伏さない奴がいるのか?本当に?」
「振り向いてほしい人には、通用しないんですよ、フェロモンなんて」
チョコレートを噛み溶かしながら、降谷は自嘲するように言った。
「まともに付き合いたいと思う相手には、こんなの邪魔です。お金を貰いたいわけじゃないし、女王様みたいに扱われたいわけでもない」
「いや、使いようでは、上手く…」
赤井の声は上擦った。
「そりゃ、試したいとは思いますよ。もしかして、付き合えるかもしれないぞって、煩悩もあります」
まさか!そんな相手がいるのか!
赤井は、降谷の周りの女性を思い出した。
誰だ?その幸運な女は。クソッタレ。
妬ましく思った所で、その思考に戸惑った。
「貴方は、こんなやり口でその気にさせた僕を信じられますか?」
「んん?」
戸惑いのうちに、また、降谷の話が理解できなくなった。
つまり、彼は、この能力を自身の恋愛には使いたくない。そう言う話か?
「いや、だが、恋愛とはそう言う物だ。理屈ではない。何故、恋に堕ちたかなんてものは、考えるだけ野暮だ」
「僕は不安です。こんな小賢しい手で手に入れても、いつか失う恐怖に支配されてしまう。だから、貴方には、いつでもゼロの自分だったのに」
「んん?」
「奥の手だったのに、こんなタイミングで使わせるから」
降谷はおずおずと赤井を探っている。その美しい瞳の潤み、不安気な表情、酒にほんのり赤らむ頬。
ズクっと赤井の下腹が疼いた。
誘惑されてるらしいぞと、漸く気が付いた。
どうする?
あの、散らかった部屋に呼ぶのか?
赤井への恋が醒めやしないか?
こんなことになるなら、灰皿くらい片付ければよかった。
どうする?
「俺の部屋が、すぐ側なんだが」
赤井は降谷の手を握った。
そして、己からもフェロモンとやらが発せられていることを願いつつ、何の捻りもない誘い文句に今夜のこれからを賭けたのだった。
降谷が、周りにそう言われているのを知っていた。
赤井には、それがよく分からなかった。
情熱的な男だ。素晴らしいスピリットを持ってる。パワフルでありながら、クレバーだ。
赤井自身も、彼には絶賛に近い評価をしていたが、周りが掴みきれないと振り回される理由は分からなかったのだ。
「なぁ、君、ちょっとバーボンみたいに振る舞ってくれないか?」
金曜の夜の居酒屋で、騒めきに紛れて、赤井は言ってみた。
「は?」
目の前で、降谷は枝豆を口に入れ損ねた。
てんてんてん…
黄緑の可愛い豆粒がテーブルを転がっていく。
「ほら、あの小悪魔だ。どうも、あれが君の不思議の元のような気がする」
「何言ってんですか、あんた」
降谷は呆れつつ、枝豆を拾い、皿の隅に片付けた。
「仕事仲間や捕まえた悪党たちが、君の事をとんでもない悪女か何かみたいに言うものでね」
「まぁ、僕くらいのハンサムになるとね、そうなりますよ」
なるほど、彼ほどになると、可愛さで世界征服できるらしい。
納得しかけた赤井に、降谷は呆れ顔だ。
「今のは突っ込むところです」
ぞんざいな物言いは遠慮のない証拠。
二人の仲が拗れていたのは、数ヶ月前までの事だ。今では、友人と言って良いほどに親しく付き合っている。
親しくなればなるほどに、良い奴だと思う。男らしいが、心配りは細やか。豪胆だが、優しい。そういったバランスのいい人柄こそ彼の魅力だろう。
当然、周りの評価のような、妖艶さは感じない。
この男のどこにそんな妖しさが?
まじまじと眺めると、降谷は居心地悪そうに溜息を吐いた。
「ちょっとしたコツがあるんですよ」
「ほぉ、技術的な物だと?」
「技術っていうか、意識っていうか」
降谷が言うには、それは、潜入時に身についた処世術のような物だそうだ。周りの悪女たちの振る舞いを参考に、相手の心を操る術を身につけたのだと。
「それは、是非、見てみたい」
赤井は好奇心に抗えずに、頼み込んだ。
「えー」
降谷は乗り気ではなったが、食い下がって頼んだら、仕方なしに頷いてくれた。
「ちょこっとだけですよ」
降谷は、すみませーんと手を挙げて店員を呼び寄せた。
「はい」
若い男の店員が感じ良い絵顔で対応に来た。
「追加、お願いします」
にこり。降谷は微笑む。
「はい、ご注文どうぞ」
「ビールとハイボールを」
「はい」
普通だ。
だが、そこで、立ち去ろうとする店員の袖に降谷がそっと触れた。
「あ、ちょっと待って」
ぞわり
赤井の背筋を寒気に似た何かが駆け抜けた。
降谷の声に不思議な揺らぎが混じる。それが耳に届くと、甘く不安定に響くのだ。
「やっぱりビールはやめて、ハイボールを二つ」
「ふ、ふたっ」
カラン
店員の手からペンが落ちた。
「ふたつ…」
バイトらしい若い男は、顔を真っ赤にして暫く立ち尽くした。
「ペン、落ちましたよ」
「は、は、は、ハイっ」
落ちたペンを拾う店員の手が、滑稽なほどに震えていた。
もうひと押し、降谷が微笑みかけでもしたら、青年はその場で愛を乞うかもしれない。若い彼は、一瞬で降谷に魅了されてしまっていた。
当の降谷はというと、店員が困惑のまま退場しても、涼しい顔で枝豆を口に運ぶことに専念しているではないか。
「驚いたな、どうやったんだ」
「色気ってのは、操れるものですよ」
実に小憎たらしい澄まし顔だ。
「いや、無理だろ」
「芸能人も街では輝きを抑えるって言うでしょ、それです」
「というと、君は、その気になれば、どれだけでも蠱惑的に振る舞えるのか?」
「別に必要ないでしょ。ちょっと、意味ありげに振る舞えば、相手はポーッとなりますよ」
確かに、それは、目の前で証明された。
「その見た目を最大限に活用しているだけだと?あれがか?」
「うーん、どっちかというと、フェロモンの量を調製する感じです」
急に赤井の理解できない話になった。
「ん?」
「普段の僕はゼロです」
降谷は親指と人差し指で目盛を表現した。
ゼロは、両方の指がピタッとくっついている。
「バーボンが百です」
指と指は最大限に離された。
「安室は三十程度かな」
今度は、数センチほどの隙間。
「ん?」
赤井は、まだ理解ができない。
だが、確かに、さっきの降谷の声の甘さや揺らぎは、計算というより調節なのかもしれない。
赤井はもっとその事を知りたいと思った。
できれば、間近にそれを体験してみたいとも。
それならば、もう少しプライベートな空間の方がいい。だが、急に自宅に呼ぶのは良くない。散らかってるのだ。
「よし、二件目に行こう。君のフェロモンとやらを見てみたい」
「物好きだなぁ」
降谷は断りはしなかった。乗り気でもなかった。
「いいけど、どうなっても知りませんよ」
赤井が好奇心に抗えない男なのを知っている降谷は、渋々といった風に頷いたのだった。
二件目は、赤井のヤサの近くのバーにした。酔い潰れても、なんとかなる距離だ。とことん飲むつもりで、そこを選んだ。
「へぇ、洒落た店ですね」
「蕎麦屋だと思って入ったらバーだった」
構えが和風で店の装飾も竹が使われているので、すっかり騙されてしまったのだ。
「へぇ、ふふ、外国の人っぽい」
そのエピソードの何が良いのか知らないが、降谷は楽しそうに笑った。
「でも、そういう偶然で出会った店って、素敵ですね」
「あぁ。最初こそ間違いだったが、それから、ずっと通っている」
騒がし過ぎず、静か過ぎず、酒も美味い。一人で飲むのに良い店だ。
誰かに教えるつもりはなかったが、降谷が気に入ったなら、連れてきて良かった。
重々しいドアを開ける。小粋なジャズが溢れてきた。バーにしては広い店は仄暗い照明がゆらゆら揺れていた。
「いらっしゃいませ。今日はお連れ様がいらっしゃるんですね」
初老のマスターは空いてる席をいくつか目配せしてくれた。
カウンター席の端が空いていたので、降谷を座らせた。赤井はその隣に座る。そして、すぐさま促したのだった。
「さぁ、百の君を見せてくれ」
とにかく、気が逸っていたのだ。
「気が乗らないな」
「ここまできて、それは無いだろ」
とんでもない奇跡が見られるかもしれない。こっちはプレゼントを前にした気分だというのに。
「今日だけですよ」
降谷はにこっと笑う。そうすると、爽やかで健康的なハンサムが、柔らかく甘ったるく緩んだ。
意味ありげではない笑顔だった。しかし、赤井は、これが自分だけに向けられた笑顔だというだけで、何でもしてやりたくなった。
おかしい。そんなバカな。相手は降谷だぞ。歳の離れた妹に対するのと同じような気持ちになるなんて。
そっと降谷が赤井に身を寄せてきた。
「この店、初めてだから、貴方が選んでください」
いつもは腹から響く声のくせに、今の声は囁きほどの小ささだ。
一言も聞き逃せない。降谷の口元に神経を集中させる。
艶々な唇だ。綺麗だ。
狭いスツールでバランスを崩したのか、彼の手が赤井の太腿に置かれた。
「甘くないのがいいかな」
「ん?」
「僕のお酒」
「あぁ」
それなら、何を飲ませる?
赤井の頭にあるカクテルの名前がすっかり飛んでいった。
降谷の整った指が、微笑みの形の唇に添えられた。
「チョコレートも、食べたいな」
君、いつも、そんなの食べないだろ。
つまみは乾き物が好きな筈だろ。
言いたいことはあるが、赤井の口は満足に動かない。
「貴方は?バーボン?」
「あ、あぁ」
「好きなんですね、本当に」
耳の中で蜜蜂が羽ばたきしている。降谷の声がハウリングを起こす。声を聞き取りたいと、その口元に耳を寄せた。
「お酒、頼んでください」
降谷からは、蜂蜜みたいな甘さと柑橘系の爽やさと、そこにほんの少しの苦味が混じる匂いがした。
香水?いや、降谷はそういう痕跡を残さない。
では、これは何だ?
とにかく、とても良い匂いだ。ずっと嗅いでいたい。
降谷の手が太腿でほんの少し動く。甘い疼きが、腰まで響いた。
艶めいた唇も、煌めく瞳も、全て、この目に焼き付けたい。もっと、もっと近くで…
「何になさいますか」
パチンと何かが弾けた。
カウンター越しに、マスターが注文を待っていた。
「あぁ…バーボンと、彼にカクテルを」
「あんまり甘くないやつで」
降谷は快活に言った。さっきまでの艶っぽさが嘘みたいな、明るい爽やかな声だった。
「驚いた」
赤井は素直に認めた。
「君は変装するわけでもなく別人を演じてきたが、そのからくりが、これか」
恐るべき技術だ。いや、技術ではない、生まれ持った才能だ。
「安室なら、三割から四割です」
今は、確かに安室の顔だ。可愛げのある笑顔。降谷とは違うタイプの清潔感と華やかさがある。
「お連れの方、素敵ですね」
愛想無しのマスターが珍しくそんなこと言った。
「サイドカーです」
出されたカクテルは、赤井が飲んだ事がない物だった。
「美味しい」
一口。唇を湿らせた降谷は、二口目もグイッとやった。豪快だ。
赤井なら彼に何を選んだだろう。
降谷のことを知ってるから、きっとサムライとかそんな名前のカクテルを選んでしまいそうだ。
「これ何が使われてるんだろ」
「あー、たしか、ブランデーが使われてる」
ここのマスターがサイドカーで何たらいう賞を取ったと聞いたことがある。自慢の逸品を飲ませようと出したのか。
だとしたら、降谷の魅力は、赤井以外にも効いてるらしい。
「美味しいです」
隣で降谷は艶っぽくも愛らしい表情を浮かべていた。
バーボン?安室?
これは、誰だ?何パーセントの君なんだ?
まじまじと見ていると、降谷はふふっと笑った。
「フェロモン、感じました?」
これが、フェロモンだと?
「いや、これは、超能力だ」
息が上がる。心臓が暴れる。目の前が揺れる。
そこにあった降谷の手を取った。そして、先程、そうされたように自分の腿に導いた。
不適切だ。距離も、接触も、友人同士としては際どすぎる。
赤井は息苦しさに胸元を緩めた。
「汗だくだ」
額を拭う手が汗で濡れるほどだった。まるで泥酔しているように、薬物がキマってるように、思考は混濁した。
「ま、こんなもんです」
唐突に、あの得も言われぬ芳しい匂いが、霧散した。
降谷は、いつものゼロパーセントの顔に戻った。漸く、赤井の脳も理性が働き始める。
「すごいな、君」
これが、あのバーボンの秘密なのか。
降谷は好きなようにフェロモンをコントロールできるのだ。支配したければ百、人々に埋没したければゼロ。
不思議な男だ。
そう言われるのもわかる。
何故、長い付き合いの赤井が知らなかったのかは謎だが、簡単に手の内を明かす男じゃない。
とにかく、喉が渇いた。
赤井は手元のロックグラスを煽った。焼けるような液体が喉を通っていく。
痺れた頭が、アルコールで逆にはっきりした。
横を見ると、降谷が頬杖を突いて、赤井を見ていた。その、曖昧な微笑みは「どうなっても知らないと言っただろう」と言っているようだった。
「周りの連中が、君に惑わされるわけだ」
「万能じゃないですけどね」
降谷はチョコレートの銀を剥がし、蠱惑的な唇で喰んだ。まだ、さっきの魔法が効いてるのか、その仕草は、赤井の目に堪らなく魅力的に映る。
あぁ、今夜、君とキスできるなら、何百万でも注ぎ込むだろう。
「凄まじい威力だ」
「そうですか?」
「あの小悪魔バーボンが、金持ちから散々貢がれた理由が分かった」
「そんなに万能じゃないんですよ、これも」
「まさか。君にひれ伏さない奴がいるのか?本当に?」
「振り向いてほしい人には、通用しないんですよ、フェロモンなんて」
チョコレートを噛み溶かしながら、降谷は自嘲するように言った。
「まともに付き合いたいと思う相手には、こんなの邪魔です。お金を貰いたいわけじゃないし、女王様みたいに扱われたいわけでもない」
「いや、使いようでは、上手く…」
赤井の声は上擦った。
「そりゃ、試したいとは思いますよ。もしかして、付き合えるかもしれないぞって、煩悩もあります」
まさか!そんな相手がいるのか!
赤井は、降谷の周りの女性を思い出した。
誰だ?その幸運な女は。クソッタレ。
妬ましく思った所で、その思考に戸惑った。
「貴方は、こんなやり口でその気にさせた僕を信じられますか?」
「んん?」
戸惑いのうちに、また、降谷の話が理解できなくなった。
つまり、彼は、この能力を自身の恋愛には使いたくない。そう言う話か?
「いや、だが、恋愛とはそう言う物だ。理屈ではない。何故、恋に堕ちたかなんてものは、考えるだけ野暮だ」
「僕は不安です。こんな小賢しい手で手に入れても、いつか失う恐怖に支配されてしまう。だから、貴方には、いつでもゼロの自分だったのに」
「んん?」
「奥の手だったのに、こんなタイミングで使わせるから」
降谷はおずおずと赤井を探っている。その美しい瞳の潤み、不安気な表情、酒にほんのり赤らむ頬。
ズクっと赤井の下腹が疼いた。
誘惑されてるらしいぞと、漸く気が付いた。
どうする?
あの、散らかった部屋に呼ぶのか?
赤井への恋が醒めやしないか?
こんなことになるなら、灰皿くらい片付ければよかった。
どうする?
「俺の部屋が、すぐ側なんだが」
赤井は降谷の手を握った。
そして、己からもフェロモンとやらが発せられていることを願いつつ、何の捻りもない誘い文句に今夜のこれからを賭けたのだった。
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