時には母のない子のように
中学一年。夏休みのことだった。
その日の部活は午後からで、汗だくで帰宅すると家には母の姿はなかった。母の男だけが眠たそうな目で布団の上に胡坐をかいている。
「よお、おかえり」
ランニングとハーフパンツを身につけた男が、眠たげな顔で慎一に声をかけた。
「どうも……」
数度顔を合わせたことのあるだけの男。しかも二人きりで会うのは初めてだった。
何で母がいないのにこいつだけいるのかと、慎一は超低空飛行な気分を抱えたまま、着替えをつかむと風呂へ向かう。
一刻も早く汗を洗い流したかった。
脱衣場とキッチンの間にははっきりとした仕切りが無く、突っ張り棒を渡して布を垂らしている。
薄暗い部屋の奥から感じる男の気配が煩わしいくて、慎一は風呂場から出ると、急いで服を身に着けた。
塗れた髪をわざと乱暴に拭きながら、形ばかりの脱衣場を出る。
薄い仕切りの布から顔を出すと、目の前に男がいた。
脱衣場のすぐ先には、小さな冷蔵庫と流しがある。キッチンというよりは、無理やりシンクを並べた廊下といった方がいいような狭さだ。
「ねえねえ、君慎一君……だったよね? なんか飲む~?」
男は間延びした声でそう言いながら冷蔵庫の中を覗き込んでいる。
「いえ、いいです」
男の言葉をとっさに拒否した。
「なんだよ、もしかして緊張してんの~?」
うつむいた男がくすくすと笑う。
甘いマスクでなよっとした優男と思っていたが、こうして目の前に立たれると、中一の慎一よりも数段存在感があった。
「慎一君、よく見るとかわいい顔してるんだぁ……。お母さんも美人だもんねえ。ちょっと、きつい目つきが猫っぽいよね~。ねえねえ」
男がぐいぐいと慎一の方へ体を寄せてくる。慎一は思わずのけぞって、流しに追い詰められた格好になった。
「おにいさんがさ。イイコト教えてやろうか?」
今までうつむき気味だった男が、慎一の肩に手をかけると同時に顔をあげて、慎一の目を覗き込んでくる。
予想外の出来事に、真一はただ男を凝視することしかできなかった。
寒気に似た小さな震えが背骨を下から上へ駆け上っていく。
しばらく慎一を見つめていた男が突然吹き出した。押し殺したような笑いが、次第にはっきりとした笑いに変わっていく。
「怖かった? あ、はははははは。だって、慎一君かわいーんだもん。俺タイプ。でも傷つくわ~。今、まじ怯えたでしょ~! ひ、はははははは」
男がその場に座り込むと、床を叩きながら笑い転げた。
慎一の頭に、カッと血がのぼる。
「てめえ! ふざけんなよ!」
力いっぱい流しを拳で叩くと、それでも笑い続ける男を置いて家を飛び出していた。
財布の中身も人物の中身も空っぽそうな男。顔だけは、悪くない。
あんなのに引っかかりやがって!
慎一は心の中で母を詰った。
幼いころは、母のいない夜が怖かった。
母のいない夜ならまだよい。
母がいるのに家に入れない夜だってあった。
慎一の母は、一人で生きていける女ではなかった。
男に捨てられては、その隙間を埋めるように別の男の誘いに乗る。
付き合っては捨てられる。
昔、慎一が生まれる前までは、かなり高級なクラブで働いていたのだそうだ。その客の中の一人が慎一の父親である。名前も知らない、顔も知らない。
ただ、色の薄い自分の肌や目の色、髪の色が「お前は生粋の日本人じゃあないんだよ」と、告げているような気がした。それだって気がするというだけで、色素の薄い日本人と言われれば、そうかもしれない。
父親がどんな人間だったにせよ、結婚の約束も、責任を取るつもりもなかった最低な人種であることには間違いがない。
なぜ母は自分を産んだのか。
それすらも慎一にはわからなかった。
慎一が生まれてから母は都心を離れ、郊外の戸建ての借家を借り、駅の近くのスナックに勤めている。
あいも変わらず男にはだらしがなく、男を家に連れ込んだ母に、家を追い出されることもしばしばだった。
心配した近隣の住民やお巡りさんに「どうしたの? おうちにいれてもらえないの?」と問われても、慎一は決して本当のことを他人に話そうとはしなかった。
「ちゃんと、ご飯食べさせてもらっているのかな?」
そう問われても、眼をしばたかせながら「ちゃんと食べさせてもらってる」ときっぱりと言うものだから、周りの大人たちは次第に声を掛けなくなった。
だから、外で過ごすことなんて慣れている。
家を飛び出した慎一は、駅近くの繁華街をあてどもなく歩いていた。
あたりは暗く、西の空にかすかに日の光の名残が見える程度だった。
寒くもないし、今日はこのまま野宿でもしようかと考えていたら、声がかかった。
「あれぇ? えっと、君。なんてったっけ? カオリさんとこの~」
母の名前が聞こえて振り返ると、ショートカットでそばかすだらけの顔をした女がいた。
「わたし! ほらぁ、スナックのママが年一回開く従業員の懇親会で毎回会うでしょーが。ユウだよ。あ、化粧してないとわからない?」
「ユウ……さん?」
慎一がそうつぶやくと、ユウはふわりと笑った。
スナック主催の懇親会は、たらふくご飯を食べられる。大人ばかりで面白みはないが、慎一は毎年母に連れられて参加していた。
子どもが好きだというユウは、大人に挟まれ手持無沙汰な慎一の面倒をよく見てくれた。
だからユウのことはもちろん覚えている。
しかし。
慎一はまじまじとユウの顔を見つめた。
記憶の中のユウと今目の前にいるユウの雰囲気が、あまりにもかけ離れていたからだ。
記憶の中のユウは、いつもきれいに化粧をしていた。厚化粧。といってもいいと思う。母の仕事場の女性たちはだいたい化粧が濃い。
しかし今目の前にいるユウは、そばかすの浮いた頬に黒縁の眼鏡をかけて、田舎から出てきたばかりの女子大生ですといっても、誰もが信じるのではないかと思われる。
「どうしたの、こんなところで。慎一君のお家って反対方向じゃない?」
慎一は何も答えることができなかった。
ユウがふっと息を吐く音が聞こえた。笑ったのか、ため息をついたのか、慎一にはわからなかった。
「ねえ、よかったら家くる? わたし今日はお休みなんだ。カオリさんはもう仕事かな? だったら、ご飯食べてかない?」
断る理由などなかった。
買い物帰りだというユウの荷物持ちをして、そのままユウの家に向かった。
「よかったあ! 今日はどうしても手作りハンバーグが食べたくなったの。でもひとり分だとさ……。ねえ、慎一君食べれないものある? あ、何か飲みたかったら勝手に飲んでいいよ。お茶も珈琲もあるし……ジュースはないなあ、ごめんねえ」
ユウは買ってきたものを台所のあちらこちらにしまいながら大きな声で慎一に話しかける。
「牛乳ある?」
慎一が言うと、ユウは待ってましたとばかりに手を叩いた。
「あるよある! 牛乳好き!? 良かったぁ。わたし、お腹に合わないの、牛乳。でもさ、パン粉ふやかすのに使うじゃん?」
スナックで働く女性はみんな母のようなのだろうと思っていた慎一は、ユウのにぎやかさと明るさが、軽い衝撃だった。
牛乳の入ったグラスを手にキッチンから続くリビングに入り、敷かれた毛足の長いカーペットの上に腰を下ろした。
「ユウさん、本たくさん持ってるんだな。英語の本も……ある?」
ユウは慎一の隣に来ると、はにかむように笑った。
「これでも英文科を出てるんだよ! 昔の私の夢はね、幸せな結婚をして、子供二人作って、自宅で子どもたち集めて英語教室を開くことだったの」
ユウの声を聞きながらリビングを眺めていると、慎一は意外なものを見つけた。
小さな出窓に飾られた、お地蔵様の置物だ。手のひらサイズのやけにかわいらしいお地蔵さまが、手を合わせて微笑んでいる。お地蔵様の前には小さな鈴のようなものと、おままごとのような茶碗と湯飲みが置かれていた。
ユウはできたハンバーグと炊き上がったご飯をその小さい器に盛ると、お地蔵さまの前に置き、鈴を鳴らして手を合わせた。
ユウは慎一に帰れと促すこともなく、一緒にご飯を食べ、来客用の布団まで敷いてくれた。いつの間にか、母に連絡を入れてくれていたらしい。
「カオリさんに、ちゃんとオーケーもらったからね」というユウの言葉に、安堵が広がる。
布団に潜り込むと、慎一はあっという間に眠気に襲われた。
どれほど眠ったのだろうか。夢の中で、慎一はけだるげな旋律を聞いていた。掠れた、太い女性の歌声が聞こえる。
誰の声なのだろう。
次第に意識が浮上する。
「あ、ごめん、起こしちゃった?」
ユウの細い声が聞こえて、慎一ははっきりと目が覚めた。
歌声は、ユウ前に置かれたパソコンから流れていた。
「ううん。それ、なんて歌?」
慎一が訊ねるとユウは低い声で歌いだした。
「Someteimes I feel like a matherless child……
黒人霊歌なの。時には、母のない子のようにっていう意味よ」
「ふうん」
ユウが戻るボタンをクリックしたのだろう。途切れた歌声が、また最初から流れ始める。
「明日、起きてから渡そうと思ってたんだけどさ」
横になっていた慎一の目の前に、ユウが何かを差し出した。
明かりを落とした部屋のなか、ユウの手のひらの上のそれは、鈍く光って見えた。
「慎一君。もし、家に帰りづらいときはいつでも来ていいよ?」
かわいらしいピンクのリボンが結ばれている。
「……これ……?」
「鍵。ウチの」
慎一は暫くの間言葉を発することができなかった。
「俺なんか、ユウさんのいないときに家にいていいのかよ?」
「いいよ。みられて困るようなものも、とられて困るようなものも持ってないし」
ちょっとおどけたように笑うから、慎一もつられて笑う。
それなのに。
そうして笑ったはずなのに。
喉の奥が乾いて仕方がない。
時には、母のない子のように。
悪いことしか起きないと、そう思っていた。
「いつでもおいで」
ユウの手が、慎一の頬を撫でる。
涙をこらえようとするのに、ユウの手から薄荷のような甘やかな匂いがして、慎一はもうこれ以上涙をこらえることができなかった。
了
その日の部活は午後からで、汗だくで帰宅すると家には母の姿はなかった。母の男だけが眠たそうな目で布団の上に胡坐をかいている。
「よお、おかえり」
ランニングとハーフパンツを身につけた男が、眠たげな顔で慎一に声をかけた。
「どうも……」
数度顔を合わせたことのあるだけの男。しかも二人きりで会うのは初めてだった。
何で母がいないのにこいつだけいるのかと、慎一は超低空飛行な気分を抱えたまま、着替えをつかむと風呂へ向かう。
一刻も早く汗を洗い流したかった。
脱衣場とキッチンの間にははっきりとした仕切りが無く、突っ張り棒を渡して布を垂らしている。
薄暗い部屋の奥から感じる男の気配が煩わしいくて、慎一は風呂場から出ると、急いで服を身に着けた。
塗れた髪をわざと乱暴に拭きながら、形ばかりの脱衣場を出る。
薄い仕切りの布から顔を出すと、目の前に男がいた。
脱衣場のすぐ先には、小さな冷蔵庫と流しがある。キッチンというよりは、無理やりシンクを並べた廊下といった方がいいような狭さだ。
「ねえねえ、君慎一君……だったよね? なんか飲む~?」
男は間延びした声でそう言いながら冷蔵庫の中を覗き込んでいる。
「いえ、いいです」
男の言葉をとっさに拒否した。
「なんだよ、もしかして緊張してんの~?」
うつむいた男がくすくすと笑う。
甘いマスクでなよっとした優男と思っていたが、こうして目の前に立たれると、中一の慎一よりも数段存在感があった。
「慎一君、よく見るとかわいい顔してるんだぁ……。お母さんも美人だもんねえ。ちょっと、きつい目つきが猫っぽいよね~。ねえねえ」
男がぐいぐいと慎一の方へ体を寄せてくる。慎一は思わずのけぞって、流しに追い詰められた格好になった。
「おにいさんがさ。イイコト教えてやろうか?」
今までうつむき気味だった男が、慎一の肩に手をかけると同時に顔をあげて、慎一の目を覗き込んでくる。
予想外の出来事に、真一はただ男を凝視することしかできなかった。
寒気に似た小さな震えが背骨を下から上へ駆け上っていく。
しばらく慎一を見つめていた男が突然吹き出した。押し殺したような笑いが、次第にはっきりとした笑いに変わっていく。
「怖かった? あ、はははははは。だって、慎一君かわいーんだもん。俺タイプ。でも傷つくわ~。今、まじ怯えたでしょ~! ひ、はははははは」
男がその場に座り込むと、床を叩きながら笑い転げた。
慎一の頭に、カッと血がのぼる。
「てめえ! ふざけんなよ!」
力いっぱい流しを拳で叩くと、それでも笑い続ける男を置いて家を飛び出していた。
財布の中身も人物の中身も空っぽそうな男。顔だけは、悪くない。
あんなのに引っかかりやがって!
慎一は心の中で母を詰った。
幼いころは、母のいない夜が怖かった。
母のいない夜ならまだよい。
母がいるのに家に入れない夜だってあった。
慎一の母は、一人で生きていける女ではなかった。
男に捨てられては、その隙間を埋めるように別の男の誘いに乗る。
付き合っては捨てられる。
昔、慎一が生まれる前までは、かなり高級なクラブで働いていたのだそうだ。その客の中の一人が慎一の父親である。名前も知らない、顔も知らない。
ただ、色の薄い自分の肌や目の色、髪の色が「お前は生粋の日本人じゃあないんだよ」と、告げているような気がした。それだって気がするというだけで、色素の薄い日本人と言われれば、そうかもしれない。
父親がどんな人間だったにせよ、結婚の約束も、責任を取るつもりもなかった最低な人種であることには間違いがない。
なぜ母は自分を産んだのか。
それすらも慎一にはわからなかった。
慎一が生まれてから母は都心を離れ、郊外の戸建ての借家を借り、駅の近くのスナックに勤めている。
あいも変わらず男にはだらしがなく、男を家に連れ込んだ母に、家を追い出されることもしばしばだった。
心配した近隣の住民やお巡りさんに「どうしたの? おうちにいれてもらえないの?」と問われても、慎一は決して本当のことを他人に話そうとはしなかった。
「ちゃんと、ご飯食べさせてもらっているのかな?」
そう問われても、眼をしばたかせながら「ちゃんと食べさせてもらってる」ときっぱりと言うものだから、周りの大人たちは次第に声を掛けなくなった。
だから、外で過ごすことなんて慣れている。
家を飛び出した慎一は、駅近くの繁華街をあてどもなく歩いていた。
あたりは暗く、西の空にかすかに日の光の名残が見える程度だった。
寒くもないし、今日はこのまま野宿でもしようかと考えていたら、声がかかった。
「あれぇ? えっと、君。なんてったっけ? カオリさんとこの~」
母の名前が聞こえて振り返ると、ショートカットでそばかすだらけの顔をした女がいた。
「わたし! ほらぁ、スナックのママが年一回開く従業員の懇親会で毎回会うでしょーが。ユウだよ。あ、化粧してないとわからない?」
「ユウ……さん?」
慎一がそうつぶやくと、ユウはふわりと笑った。
スナック主催の懇親会は、たらふくご飯を食べられる。大人ばかりで面白みはないが、慎一は毎年母に連れられて参加していた。
子どもが好きだというユウは、大人に挟まれ手持無沙汰な慎一の面倒をよく見てくれた。
だからユウのことはもちろん覚えている。
しかし。
慎一はまじまじとユウの顔を見つめた。
記憶の中のユウと今目の前にいるユウの雰囲気が、あまりにもかけ離れていたからだ。
記憶の中のユウは、いつもきれいに化粧をしていた。厚化粧。といってもいいと思う。母の仕事場の女性たちはだいたい化粧が濃い。
しかし今目の前にいるユウは、そばかすの浮いた頬に黒縁の眼鏡をかけて、田舎から出てきたばかりの女子大生ですといっても、誰もが信じるのではないかと思われる。
「どうしたの、こんなところで。慎一君のお家って反対方向じゃない?」
慎一は何も答えることができなかった。
ユウがふっと息を吐く音が聞こえた。笑ったのか、ため息をついたのか、慎一にはわからなかった。
「ねえ、よかったら家くる? わたし今日はお休みなんだ。カオリさんはもう仕事かな? だったら、ご飯食べてかない?」
断る理由などなかった。
買い物帰りだというユウの荷物持ちをして、そのままユウの家に向かった。
「よかったあ! 今日はどうしても手作りハンバーグが食べたくなったの。でもひとり分だとさ……。ねえ、慎一君食べれないものある? あ、何か飲みたかったら勝手に飲んでいいよ。お茶も珈琲もあるし……ジュースはないなあ、ごめんねえ」
ユウは買ってきたものを台所のあちらこちらにしまいながら大きな声で慎一に話しかける。
「牛乳ある?」
慎一が言うと、ユウは待ってましたとばかりに手を叩いた。
「あるよある! 牛乳好き!? 良かったぁ。わたし、お腹に合わないの、牛乳。でもさ、パン粉ふやかすのに使うじゃん?」
スナックで働く女性はみんな母のようなのだろうと思っていた慎一は、ユウのにぎやかさと明るさが、軽い衝撃だった。
牛乳の入ったグラスを手にキッチンから続くリビングに入り、敷かれた毛足の長いカーペットの上に腰を下ろした。
「ユウさん、本たくさん持ってるんだな。英語の本も……ある?」
ユウは慎一の隣に来ると、はにかむように笑った。
「これでも英文科を出てるんだよ! 昔の私の夢はね、幸せな結婚をして、子供二人作って、自宅で子どもたち集めて英語教室を開くことだったの」
ユウの声を聞きながらリビングを眺めていると、慎一は意外なものを見つけた。
小さな出窓に飾られた、お地蔵様の置物だ。手のひらサイズのやけにかわいらしいお地蔵さまが、手を合わせて微笑んでいる。お地蔵様の前には小さな鈴のようなものと、おままごとのような茶碗と湯飲みが置かれていた。
ユウはできたハンバーグと炊き上がったご飯をその小さい器に盛ると、お地蔵さまの前に置き、鈴を鳴らして手を合わせた。
ユウは慎一に帰れと促すこともなく、一緒にご飯を食べ、来客用の布団まで敷いてくれた。いつの間にか、母に連絡を入れてくれていたらしい。
「カオリさんに、ちゃんとオーケーもらったからね」というユウの言葉に、安堵が広がる。
布団に潜り込むと、慎一はあっという間に眠気に襲われた。
どれほど眠ったのだろうか。夢の中で、慎一はけだるげな旋律を聞いていた。掠れた、太い女性の歌声が聞こえる。
誰の声なのだろう。
次第に意識が浮上する。
「あ、ごめん、起こしちゃった?」
ユウの細い声が聞こえて、慎一ははっきりと目が覚めた。
歌声は、ユウ前に置かれたパソコンから流れていた。
「ううん。それ、なんて歌?」
慎一が訊ねるとユウは低い声で歌いだした。
「Someteimes I feel like a matherless child……
黒人霊歌なの。時には、母のない子のようにっていう意味よ」
「ふうん」
ユウが戻るボタンをクリックしたのだろう。途切れた歌声が、また最初から流れ始める。
「明日、起きてから渡そうと思ってたんだけどさ」
横になっていた慎一の目の前に、ユウが何かを差し出した。
明かりを落とした部屋のなか、ユウの手のひらの上のそれは、鈍く光って見えた。
「慎一君。もし、家に帰りづらいときはいつでも来ていいよ?」
かわいらしいピンクのリボンが結ばれている。
「……これ……?」
「鍵。ウチの」
慎一は暫くの間言葉を発することができなかった。
「俺なんか、ユウさんのいないときに家にいていいのかよ?」
「いいよ。みられて困るようなものも、とられて困るようなものも持ってないし」
ちょっとおどけたように笑うから、慎一もつられて笑う。
それなのに。
そうして笑ったはずなのに。
喉の奥が乾いて仕方がない。
時には、母のない子のように。
悪いことしか起きないと、そう思っていた。
「いつでもおいで」
ユウの手が、慎一の頬を撫でる。
涙をこらえようとするのに、ユウの手から薄荷のような甘やかな匂いがして、慎一はもうこれ以上涙をこらえることができなかった。
了
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