帰趨
あれは、恐れおののいていた自分の恐怖心が見せた幻だったのかも知れない。とっとと忘れてしまうに限る。
しかし、そう思い込もうとするほど、あのときの様子がまざまざと目の裏に浮かぶ。どんなにあれは幻なのだと自分に言い聞かせても『あれほどはっきりと目に写ったものを、否定するのか?』という思いが、胸の奥深いところからふつふつと湧き出してくる。
黒く燃えあがる有吾。有吾を包み込んだ炎の中にくり抜いたように白く吊り上がった目があった。そしてその目玉は、ギロリと六助を睨んだのだ。六助が目をむいたとたんに、炎は白い亀裂のような口を開けて笑った。
炎はやにわに収縮し、有吾の腕を通り細い刀の刀身を通り抜けて、とよの体内に消えていく。
とよの悲鳴が聞こえて、のけぞる身体を押さえつけるために、六助はもう有吾を見ることができなかった。だからあれはほんの一瞬の、瞬きほどの時間の出来事だったのだろう。
有吾はたった一度刀をとよの腹に突き入れただけだった。
腹を割いて、その中から蜘蛛の卵とやらを取り除かなければいけないのではと思っていた六助やみつにとっては、あっけないほどだった。
妖しの卵というのがどんなものなのか、ついに六助は目にしていない。たったの一突き、あれだけで本当に腹の中の卵を取り除くことができたのか?
それでも痛みに身を捩るとよを押さえつけ、傷口の手当をするのは至難の業で、疑問を口にする機会は失われてしまった。
刺しどころがよほど良かったのか、傷口は小さく、出血も殆どなかった。
そのお陰で、傷口に蒲黄と蓬を刷り込み柿の葉をあてて晒で巻く程度の治療で済んだのだ。針と絹糸を用意していたみつは、どれだけ安堵したことだろう。
……よかったのだ。とよのためには。
けれど、その鮮やかさが更に六助の心のうちに冷たい澱を作った。
井沢村からの帰り道、有吾と六助は、互いに言葉少なだった。
黙って江戸に帰り着き「お疲れさまでした」と言葉をかわし、それぞれの長屋に戻ってゆく。
それ以来、目を背ければ背けるほど、六助の中の得体のしれない黒いものは膨れ上がり育っていたのだった。
けれども、今こうして有吾を目の前にしてみると、膨れ上がった黒い塊は、いったい何だったのだろうと自分自身でも拍子抜けしてしまった。
困ったように額を撫でる仕草も、うつむきがちに酒をすする仕草も、まったくもって普通の……普通より体はでかいが、江戸っ子としちゃあ多少野暮な男でしかない。
「へへ……へ」
酒をなめながら、変な笑い声が出てしまった。
「どうしました?」
突然笑い出した六助に有吾が目を丸くしている。
「いえね、いろいろ心配して、一人でぐるぐるしてたんですが、もっと早く旦那に会いに来りゃあよかったなと思ってるところなんで」
いなり寿司を大口で頬張った。
「人の考えることってえのは、大抵ろくでもないもんですねえ。下手な考え休むににたり。昔の人はよく言ったもんだ。考えてないで、動かなきゃなんにも始まりません。あっしは、明日にでもみつの奉公先に行ってみますよ。いや、なあに、あそこには知り合いがいるんです」
もぐもぐといなり寿司を噛みしめると甘辛い味が口いっぱいに広がる。
「こいつだって、食ってみなけりゃあどんだけ美味いかわからないわけですよ」
うまいなあと笑ってみせると、びっくりしたような顔をしていた有吾も、ようやく笑顔になった。
◇
久しぶりに六助と楽しい酒を酌み交わした夜、有吾は夜中にふと目を覚ました。
横を見ると、六助がくぅくぅと鼾とも寝息ともつかないような音を立て寝入っている。
と、その六助の向こうに、もうひとり六助がいた。
横になる六助とそっくりな顔だが、もう驚くこともない。羅刹である。髷の様子から着物まで、今回はそっくり真似たらしい。少し赤みがかっているが、ざんばら髪のままではなく、なかなかに粋な髷を結っている。
ただ、きちんと着物を着ることは苦手なのか、それとも主義に反するのか有吾には理解のできないことだが、着物がどことなく着崩れている。そのお蔭ですぐに本物と見分けがつくのだが、せっかくいい男なのにと思わなくもない。
その他に違うところといったら、目つきだろうか。本物の六助は色男だが、その表情には人の良さそうな気安さが滲み出ているのに対して、羅刹の方は、何かをにらみつけるような目をしている。はだけた襟元と相まって、危険な艶っぽさを無駄に振りまいていた。
一人、暗い部屋の中で、残った酒をちびちびと飲んでいる。
「羅刹?」
まだ寝たりない目をこすりながら、呼びかけた。
片膝を立てて酒を飲んでいた羅刹が、ゆっくりと有吾を振り返る。
『おう、お目覚めかい?』
「いや……まだ眠いのですが」
ふん、と鼻で笑われた。
『寝るなよ、客だ』
「はい?」
客? 六助のことだろうか?
と、寝起きの回らぬ頭で考えた。
しかし、六助が尋ねてきていることは羅刹に教えられなくとも、知っている。自分が部屋に誘って酒を飲んだのだ。それに、六助は眠っているではないか。
一体羅刹は何を言っているのかと、有吾は混乱した。
「おじちゃん! 遊びに来たよ」
羅刹の後ろから、ひょっこりと姿を表した少女の顔に、有吾は跳ね起きた。
「と!……とよっ……ぐっ!」
叫び声を上げた途端に羅刹のケリが横っ面に入り、有吾は布団の上にひっくり返った。
『うっせえよ、このたこが!……けっ』
あまりの驚きに、蹴られた痛みは感じなかった。
「とよ、いったい……まさか……いや……」
すっと立ち上がり、せんべい布団の上に転がる有吾のそばまでやってきたとよは、有吾と目を合わせるようにしゃがみ込む。
「おばけじゃないよ」
「じゃあ生きているのですか?」
「うん」
「え? また一人で江戸に?」
と言ったところで、以前江戸に来たのはとよの生霊で、とよ自身ではないのだったと思い至る。
「まさか今回も……」
「うん。体の方はお家で寝てるんだ。あのね、寝ている間は自分の体を抜け出せるようになっちゃったんだよ。寝てるときだけなんだけどね。起きてる時も抜け出そうと思ったけど、できなかった。あの事件の前には、寝てる時だってそんなことできなかったんだけどさ」
「いや、それは、でも……」
とよが霊力の強い娘だということは、感じていたが、こうも簡単に自分の体を抜け出していいものだろうか。
「羅刹。問題はないんですか?」
『あ?』
「とよです」
『ああ、まあ、あんまり自分の体を放っておくのは感心しねえけどよ。その娘の場合は大丈夫じゃねえか?』
「大丈夫じゃないかって、その根拠はどこから来るんです?」
有吾の問いに答えたのは羅刹ではなくとよだった。
「たんぽぽだよ」
「たんぽ、ぽ?」
『おい、とよ! おめぇあいつにそんな気色の悪ぃ名前をつけたのかよ!』
どうやら羅刹はたんぽぽという名前の人物を承知しているらしい。
たんぽぽとは誰ですかと尋ねると、羅刹から予想外の答えが返ってきた。
『あ? あいつだよほら、お前がぶった切った黄色と黒の縞縞の……』
「女郎蜘蛛!……でっ!」
『うっせえって言ってんだろうが!』
有吾は羅刹に蹴り飛ばされ、再びせんべい布団に突っ伏した。
くっ……くくっくく……。
突っ伏したまま、思わずくぐもった笑いが漏れる。
「では、あの女郎蜘蛛の妖しも、それにおとよちゃんも、無事だったんですね?」
笑っていたはずなのに、語尾が震えた。
「うん。おれはまだ傷が痛むけど、ゆっくり動けば何でもできるよ。みつ姉ちゃんも、もうすぐ奉公先に戻る予定なんだ。それでね。姉ちゃんはもう来年は、奉公には行かないって言ってるんだよ。おれとひさの面倒を見てくれるって……あれ?」
とよの丸い目が、不思議そうに有吾を見ていた。
「山瀬のおじちゃん? どうしたんだ?」
とよの小さな手が伸びてきて、有吾の頬に触れる。
温かいのは、とよの手か、それとも流れる泪のせいか。
羅刹の舌打ちが聞こえたが、不覚にも溢れ出す涙を、有吾には止めることができなかった。
生きていたのだ。おとよが。そして、あの女郎蜘蛛も。
六助が目を覚ましたら、なんと言って伝えてやろうか。
『しょうがねえやつだ』
羅刹の声がする。
「おじちゃん? 大丈夫?」
おとよの手が、震える有吾の背中を、そっとなでてくれていた。
しかし、そう思い込もうとするほど、あのときの様子がまざまざと目の裏に浮かぶ。どんなにあれは幻なのだと自分に言い聞かせても『あれほどはっきりと目に写ったものを、否定するのか?』という思いが、胸の奥深いところからふつふつと湧き出してくる。
黒く燃えあがる有吾。有吾を包み込んだ炎の中にくり抜いたように白く吊り上がった目があった。そしてその目玉は、ギロリと六助を睨んだのだ。六助が目をむいたとたんに、炎は白い亀裂のような口を開けて笑った。
炎はやにわに収縮し、有吾の腕を通り細い刀の刀身を通り抜けて、とよの体内に消えていく。
とよの悲鳴が聞こえて、のけぞる身体を押さえつけるために、六助はもう有吾を見ることができなかった。だからあれはほんの一瞬の、瞬きほどの時間の出来事だったのだろう。
有吾はたった一度刀をとよの腹に突き入れただけだった。
腹を割いて、その中から蜘蛛の卵とやらを取り除かなければいけないのではと思っていた六助やみつにとっては、あっけないほどだった。
妖しの卵というのがどんなものなのか、ついに六助は目にしていない。たったの一突き、あれだけで本当に腹の中の卵を取り除くことができたのか?
それでも痛みに身を捩るとよを押さえつけ、傷口の手当をするのは至難の業で、疑問を口にする機会は失われてしまった。
刺しどころがよほど良かったのか、傷口は小さく、出血も殆どなかった。
そのお陰で、傷口に蒲黄と蓬を刷り込み柿の葉をあてて晒で巻く程度の治療で済んだのだ。針と絹糸を用意していたみつは、どれだけ安堵したことだろう。
……よかったのだ。とよのためには。
けれど、その鮮やかさが更に六助の心のうちに冷たい澱を作った。
井沢村からの帰り道、有吾と六助は、互いに言葉少なだった。
黙って江戸に帰り着き「お疲れさまでした」と言葉をかわし、それぞれの長屋に戻ってゆく。
それ以来、目を背ければ背けるほど、六助の中の得体のしれない黒いものは膨れ上がり育っていたのだった。
けれども、今こうして有吾を目の前にしてみると、膨れ上がった黒い塊は、いったい何だったのだろうと自分自身でも拍子抜けしてしまった。
困ったように額を撫でる仕草も、うつむきがちに酒をすする仕草も、まったくもって普通の……普通より体はでかいが、江戸っ子としちゃあ多少野暮な男でしかない。
「へへ……へ」
酒をなめながら、変な笑い声が出てしまった。
「どうしました?」
突然笑い出した六助に有吾が目を丸くしている。
「いえね、いろいろ心配して、一人でぐるぐるしてたんですが、もっと早く旦那に会いに来りゃあよかったなと思ってるところなんで」
いなり寿司を大口で頬張った。
「人の考えることってえのは、大抵ろくでもないもんですねえ。下手な考え休むににたり。昔の人はよく言ったもんだ。考えてないで、動かなきゃなんにも始まりません。あっしは、明日にでもみつの奉公先に行ってみますよ。いや、なあに、あそこには知り合いがいるんです」
もぐもぐといなり寿司を噛みしめると甘辛い味が口いっぱいに広がる。
「こいつだって、食ってみなけりゃあどんだけ美味いかわからないわけですよ」
うまいなあと笑ってみせると、びっくりしたような顔をしていた有吾も、ようやく笑顔になった。
◇
久しぶりに六助と楽しい酒を酌み交わした夜、有吾は夜中にふと目を覚ました。
横を見ると、六助がくぅくぅと鼾とも寝息ともつかないような音を立て寝入っている。
と、その六助の向こうに、もうひとり六助がいた。
横になる六助とそっくりな顔だが、もう驚くこともない。羅刹である。髷の様子から着物まで、今回はそっくり真似たらしい。少し赤みがかっているが、ざんばら髪のままではなく、なかなかに粋な髷を結っている。
ただ、きちんと着物を着ることは苦手なのか、それとも主義に反するのか有吾には理解のできないことだが、着物がどことなく着崩れている。そのお蔭ですぐに本物と見分けがつくのだが、せっかくいい男なのにと思わなくもない。
その他に違うところといったら、目つきだろうか。本物の六助は色男だが、その表情には人の良さそうな気安さが滲み出ているのに対して、羅刹の方は、何かをにらみつけるような目をしている。はだけた襟元と相まって、危険な艶っぽさを無駄に振りまいていた。
一人、暗い部屋の中で、残った酒をちびちびと飲んでいる。
「羅刹?」
まだ寝たりない目をこすりながら、呼びかけた。
片膝を立てて酒を飲んでいた羅刹が、ゆっくりと有吾を振り返る。
『おう、お目覚めかい?』
「いや……まだ眠いのですが」
ふん、と鼻で笑われた。
『寝るなよ、客だ』
「はい?」
客? 六助のことだろうか?
と、寝起きの回らぬ頭で考えた。
しかし、六助が尋ねてきていることは羅刹に教えられなくとも、知っている。自分が部屋に誘って酒を飲んだのだ。それに、六助は眠っているではないか。
一体羅刹は何を言っているのかと、有吾は混乱した。
「おじちゃん! 遊びに来たよ」
羅刹の後ろから、ひょっこりと姿を表した少女の顔に、有吾は跳ね起きた。
「と!……とよっ……ぐっ!」
叫び声を上げた途端に羅刹のケリが横っ面に入り、有吾は布団の上にひっくり返った。
『うっせえよ、このたこが!……けっ』
あまりの驚きに、蹴られた痛みは感じなかった。
「とよ、いったい……まさか……いや……」
すっと立ち上がり、せんべい布団の上に転がる有吾のそばまでやってきたとよは、有吾と目を合わせるようにしゃがみ込む。
「おばけじゃないよ」
「じゃあ生きているのですか?」
「うん」
「え? また一人で江戸に?」
と言ったところで、以前江戸に来たのはとよの生霊で、とよ自身ではないのだったと思い至る。
「まさか今回も……」
「うん。体の方はお家で寝てるんだ。あのね、寝ている間は自分の体を抜け出せるようになっちゃったんだよ。寝てるときだけなんだけどね。起きてる時も抜け出そうと思ったけど、できなかった。あの事件の前には、寝てる時だってそんなことできなかったんだけどさ」
「いや、それは、でも……」
とよが霊力の強い娘だということは、感じていたが、こうも簡単に自分の体を抜け出していいものだろうか。
「羅刹。問題はないんですか?」
『あ?』
「とよです」
『ああ、まあ、あんまり自分の体を放っておくのは感心しねえけどよ。その娘の場合は大丈夫じゃねえか?』
「大丈夫じゃないかって、その根拠はどこから来るんです?」
有吾の問いに答えたのは羅刹ではなくとよだった。
「たんぽぽだよ」
「たんぽ、ぽ?」
『おい、とよ! おめぇあいつにそんな気色の悪ぃ名前をつけたのかよ!』
どうやら羅刹はたんぽぽという名前の人物を承知しているらしい。
たんぽぽとは誰ですかと尋ねると、羅刹から予想外の答えが返ってきた。
『あ? あいつだよほら、お前がぶった切った黄色と黒の縞縞の……』
「女郎蜘蛛!……でっ!」
『うっせえって言ってんだろうが!』
有吾は羅刹に蹴り飛ばされ、再びせんべい布団に突っ伏した。
くっ……くくっくく……。
突っ伏したまま、思わずくぐもった笑いが漏れる。
「では、あの女郎蜘蛛の妖しも、それにおとよちゃんも、無事だったんですね?」
笑っていたはずなのに、語尾が震えた。
「うん。おれはまだ傷が痛むけど、ゆっくり動けば何でもできるよ。みつ姉ちゃんも、もうすぐ奉公先に戻る予定なんだ。それでね。姉ちゃんはもう来年は、奉公には行かないって言ってるんだよ。おれとひさの面倒を見てくれるって……あれ?」
とよの丸い目が、不思議そうに有吾を見ていた。
「山瀬のおじちゃん? どうしたんだ?」
とよの小さな手が伸びてきて、有吾の頬に触れる。
温かいのは、とよの手か、それとも流れる泪のせいか。
羅刹の舌打ちが聞こえたが、不覚にも溢れ出す涙を、有吾には止めることができなかった。
生きていたのだ。おとよが。そして、あの女郎蜘蛛も。
六助が目を覚ましたら、なんと言って伝えてやろうか。
『しょうがねえやつだ』
羅刹の声がする。
「おじちゃん? 大丈夫?」
おとよの手が、震える有吾の背中を、そっとなでてくれていた。