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終章

 夜空の星をふるわせながら、鐘の音が天へと伸びていく。
 ゆっくりと、低く、長く。
 捨て鐘が三つ。それから時を知らせる鐘が八つ。そこに合わさる小さき虫たちの声。
 女が一人、楠木の大木にそっと手を添えて、夜風の運ぶ短い楽曲に耳を傾けていた。
 木々に囲まれた神社の境内は暗かったが、鳥居から本堂まで続く参道の上は木の葉の天井にポカリと穴が空いている。
 女は顔を上げ、散らばる星を眺めているようだった。まだ月の沈む刻限ではないはずだが、木立の影に入ってしまっているのだろう、その姿は見えない。
 長い髪を結うこともせずに風になびかせて、真っ白な浴衣の裾にさっと散るのは、赤い濃淡の美しい躑躅の花だろうか。
 どこか儚げな雰囲気の、美しい女であった。男であれば、ふらふらと吸い寄せられて声の一つもかけたくなるような……そんな女である。
 しかし。
 夜の最も深くなる丑の刻である。
 神社の境内、丑の刻に女とくれば、大抵の人間は丑の刻まいりを想起するに違いない。
 女の手には藁人形も五寸釘も握られてはいなかったが、何処か歪な、この世ならざるものの怪しさを纏っているようにもみえる。
 長く尾を引いていた鐘の音がすっかり天へと登り、震えていた空気が静止すると、女の立つ場所とは参道を挟んで反対側の茂みがザワザワと音を立てて揺れ始めた。
 なにか大きなものが、草をかき分けて進んでくるような、そんな音だ。
 いくら鬱蒼としているとはいえ、江戸の町中の神社である。めったなことでは熊などでないであろうし、かといって野犬のような小さいものの気配でもない。
 女は怯える様子も見せずにざわざわと揺れる梢を、感情のこもらぬ瞳で眺めている。
 すると、茂みの中から突然褐色の鬼が現れた。
 筋肉の盛り上がった肉体は、腰に襤褸布をまとっただけで、惜しげもなく晒されている。捻じ曲がった角が二本額からにょきりと生えているが、それを抜きにしても、まごうことなき鬼の形相だ。
「羅刹様」
 女は恐れることもなくそう呼びかけると、その場で地面に膝をついた。
『せん。お前、まだ留まっているのか』
 鬼の瞳がぎょろりと動き、せんを見下ろす。
「私は、あなた様のものでございますから」
 せんは面を上げると、羅刹を見上げた。
『みやぎは、どうしたのだ。まだ、おまえの中に戻って来ぬのか』
 せんは、わずかに小首をかしげた。
「戻ってきたのかどうかはわかりませんが、ひとつ、わかったことがございます。あのみやぎというかわいそうな女のことです。あれは……あれは、私自身であったのだと。あの女を哀れと思い、蔑みながら、実のところあの女は……必死に目を背け、蓋をし続けてきた私自身でしかないのだと……」
『そこまで気づいたのなら、成仏もできように』
 せんは、ふっと笑んだ。
「私自身の願いは聞き届けていただきました」
『お前の願い?』
「はい。みやぎに襲われたとよの、助けを求める声に、私は長い眠りから覚めました。でも、私にはあの子を助けてあげる力がなかったのでございます。あのときの私は、まだみやぎから自分の体を取り戻せるだけの力はありませんでした。それで矢も盾もたまらず、気がつけばここでお百度を踏んでいたのです」
 懐かしむようにせんは目の前の参道を入口から社までずうっと眺め、その視線は最後に羅刹の上に止まった。
「そこで貴方様に見つけていただくことができました。とよは姉のことを案じておりましたから、私はみつに取り憑き、出立を遅らせました。そしてとよは、最後の力を振り絞り、化けもの屋を、有吾様を探し当てました。そうして……私の願いは聞き届けられたのです。あの子は助かりました……」
 羅刹の眉がピクリと動いた。
『それから?』
 と、先を促す。
「有吾様という、あの子の特異な能力の理解者を得ることもできるでしょう。契約は、成立したのです」
 立ち上がったせんは、参道を横切り、羅刹へと近づいていった。羅刹は動かず、ただ瞳だけでせんを追っている。
「血肉は土に帰ってしまいました。この魂しか今はございませんが、どうぞ、羅刹様の好きになさってくださいませ」
 もう半歩も踏み出せば触れるのではというほどの距離まで来て、せんは足を止める。
 羅刹は、ふん、と鼻息を鳴らした。
『お前にどれほどの価値があるというのだ。お前、めぐる輪にも戻らんというのか。この世の理から外れた存在になるのだぞ。いらぬわ、そんな厄介なもの。往ね。ああ、面白くもない』
 羅刹はぷいっとせんから目を背けた。
「私は、自由の身ということなのでしょうか?」
 羅刹はそっぽを向いたまま、答えない。
「では私は、このまま此処にとどまりましょう。そうして、とよと有吾様を見守りとうございます」
『なんだと?』
 横を向いていた羅刹の目が大きく見開かれる。
「そうすれば自ずと羅刹様のお側にいることになるかも知れませんね」
 羅刹の振り返った先には、せんが婉然と微笑んでいた。

 虫の音が響く境内。
 鬼は眉間にシワを寄せ、目の前で微笑む女の顔を睨みつけていた。女の方ではまるで気にした様子もなく、鬼に笑顔を向けている。
 どれほど間、そうして睨み合っていたものか。
 鬼の眉間のシワが消え、突然呵い出した。
 まるで獣の咆哮のような声だったが、確かに呵っているのだろう。
『迷惑な話よ』
 鬼は女の腰を抱いた。
『女というのは嘘がうまい。好かぬ。まったくもって好かぬ』
「私は嘘などつきませぬ」
『嘘をつかぬなどと抜かす人間が、一番嘘つきだと知らぬのか? 俺の前では嘘をつくな』
「はい」
 女は嬉しそうに答えると、鬼の胸に顔をうずめた。
 静かだった空気がゆらぎ、やにわに風が吹き始める。
 風は参道の入口に立つ鳥居のあたりで渦を巻き、旋風となって境内を吹き抜けていった。
 鬼の笑い声が、風に乗る。
 鬱蒼と茂る葉を引きちぎり、雄叫びを上げ、あっと思う間に去っていく。
 星影と虫の声。
 あとに残るのは、いつもと変わらぬ秋の夜だった。

 了 
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