ネマの島の子どもたち
『ネマの島は、それ自体、えらく派手で綺羅びやかな牢獄なのだ』
イオネツの母であるタジエナ・ジュンランはそう言った。
イオネツは、太陽が川向うに沈んでいった時、母の働く娼館「艶麗館」の最上階から、島と川岸を結ぶ玄の橋を眺めていた。
このルルヌイ川にぽつんと浮かぶネマの島という場所について、イオネツは母のように深く考えたことはない。
生まれたときからずっとこの場所で暮らしているのだし、この小さな島から出たことが一度もないのだから、他の場所と比べることもできない。
ただ、母がこの地にいる。
この川の中の小さな中州で暮らす理由としては、もうそれだけでイオネツにとっては充分なのだった。
それに、これから行われる開門の儀。夕闇が迫る中執り行われる幽玄で美しい儀式が、イオネツは好きだった。
人間が作り出したものであるにも関わらず、まるで、神霊様やナトギ様の技ではないのかと思うほどの幻想的なひとときは、見ているだけでわくわくとしてくる。
イオネツは、太鼓橋へ向けていた視線を、島中央に位置する、緑に囲まれた場所へと向けた。
ナトギの社と呼ばれるその場所には、小さな祠に自然の精霊ナトギ様が祀られている。ナトギ様は、緑多い自然のままの場所を愛するから、祠の周囲は木々が生い茂るままに残されていて、その一帯をナトギの社と呼ぶのだった。
たくさんの「アヤメ」や「シキ」と呼ばれる格下の遊女を引き連れ、今日の鍵役であるタジエナ・ジュンランのお練りが、ナトギの社の前から始まる。
見つめる木々の向こうから、ゆるりゆるりと歩を進めるタジエナが小さく見え始めた。練り歩く女たちの手には、硝子と鉄でできたランタンがぶら下げられている。
鉄と硝子は、火の精霊イオヴェズの治めるアマランス国だけが生成できるもので、アマランス国の象徴であった。
太陽は沈んだとはいえまだ明るいから、女たちの手元のランタンはぼんやりとして、ついているのかいないのかも定かではない。けれど、この行列が島と岸との境目である刻の門に到着する頃には、ほんのりと光りだすことだろう。どんよりとした曇り空は、夜を早くに運んできてくれるはずだ。
刻一刻と夜が迫る中、たっぷりと時間をかけて、女郎の行列が太鼓橋のたもとに到着する。
開門の時を告げる太鼓の音や、沸き起こる人々の歓声が、イオネツのもとにまで届いた。
「なあなあ、これが終わったらなにする?」
そんな声が聞こえて、反射的にイオネツは振り返る。
背後では、火の灯されていないランタンを手にした数人の子どもたちがおしゃべりをしていた。
この島にも子どもはいる。女たちによって産み落とされた子どもたちだ。父親のわかっている者など、皆無といっていい。
昼の間は、掃除や台所の手伝いなど、子どもにだってたくさんの仕事がある。だが、開門の儀に合わせてランタンを吊るすという仕事を終えれば、そこからは子どもたちの自由時間となる。母親が客を取って働く間、子らは女郎屋の裏で、好きに遊び好きに食べ好きに寝る事ができるのだった。客の目につかないようにさえしていれば、何をしていようとめったなことで咎められることはない。
「なんだか雨になりそうだからさぁ、家の中で遊ばない?」
「石あては?」
「みんなで遊べるほどの石がないだろ?」
「ううん、じゃあ札合わせ?」
楽しげに笑いながら相談している。
イオネツは、ぼんやりと開門の儀を眺めながら、子どもたちの話に耳を傾けた。
「イオネツも……一緒に遊ぶ?」
背後から、モニエルの声が聞こえた。今まで賑やかにおしゃべりをしていた子どもたちが、しんと黙り込む。モニエルが自分を誘ったのだと気づいたイオネツは、驚いて後ろを振り返った。
モニエルは艶麗館の子どもたちの中では年長で、みんなの姉のような存在だ。母親のいない小さな子どもは、彼女を母代わりのように慕っている。イオネツも幼い頃はよく一緒に遊んでもらった。
モニエルは、自分が発した言葉のもたらした反応の大きさに、顔を赤らめ、もじもじとしながらイオネツの方をうかがっていた。
「ばっか、アイツはもうすぐここ出て行くんだぜ、俺らとなんか、遊ばねえだろ?」
「あぁ、読み書きの勉強でもすんだろう?」
「お利口なイオネツは、俺らたちなんかと遊んだりしないよなぁ?」
「もう、後何日かで出て行くやつなんか。誘うんじゃねえよ!」
「三日後だろ? その次の日には十三になっちまうしな」
しばしの沈黙の後に、子どもたちは口々にそんなことを言いだした。
イオネツについて話しているにも関わらず、だれも直接イオネツには話しかけようとしない。
いったんは声をかけてくれたモニエルも、うつむいて、イオネツから視線を外してしまった。
もともと、イオネツはこの艶麗館の子どもたちの中でも、ひときわ浮いている存在だった。
ネマの島で生まれた子どもは皆ネマの島で生き、ネマの島の中で一生を終える。
ネマの島には『十三を迎えるまでに外の世界へ出て行かなかった者は、以後島から出ることはまかりならぬ』という、掟がある。きちんと何かに書き記されているわけではないが、暗黙の了解といったようなもので、その掟のため、この地で生まれた女は遊女に、男は下衆になるほかはない。誰もが、それを己の定めだと受け入れていた。
だが、イオネツの母タジエナは、その掟を良しとはしない人だった。
彼女はもともとネマの島で生まれた女ではない。それどころか、アマランス人でもない。よそから島に流れ着き、そのまま遊女となったのだそうだ。
『お前は、十三になる前にこの地を出ておいき』
幼い頃から母にそう言われていたイオネツは、その時のためにと、母から読み書きの手ほどきを受けている。話し方も、きちんとしなければ怒られた。
島に暮らす子どもたちは字など読めなかったし、言葉づかいも、川の渡しをしている孤児、ルルヌイの子たちよりも乱暴だと言われている。そんな中にあって、礼儀正しい振る舞いをし、読み書きをするイオネツは、間違いなく周囲から浮いていた。
まだ何もわからない小さいうちはそうでもなかったが、物心がつくにつれ、他の者たちはイオネツを遠ざけるようになっていった。
「あいつ、ロワンザの町の大きな店の使用人になるんだって?」
と言う声がしたが、イオネツはなんの反応も返さず、皆に背を向けてしまう。
「あ、無視? 無視した? あいつ?」
背後からはムッとしたような声と、くすくすと笑う声がする。悪意のこもった言葉に返事をする義理はない。イオネツは、背後の友人たちに興味を失った。
「お前たち、ちゃんと外の様子を見ておけよ!」
運良く、子どもたちの監督をしていた下衆の怒声が飛び、潮を引くようにおしゃべりはおさまっていった。
イオネツも外で行なわれている開門の儀に意識を集中させる。
橋の上ではタジエナ・ジュンランが舞っている最中だった。
イオネツにはゆるりと舞う母親が、光り輝いてみえた。先程までのどよめきがやみ、空気がしんと静まっている。皆がタジエナの舞に引き込まれているのだ。
タジエナ・ジュンランは、とても美しい人だった。
彼女は、金色の絹糸のようなふわりとした髪と、抜けるように白い肌を持っている。それでいて、頬や唇は紅を差さなくてもほんのりと色づいている。
アマランスでは金色の髪色の者は、まずいない。肌は褐色で、髪色は黒から栗色といった暗めの色がほとんどだ。
タジエナも、この中洲では異端の存在なのである。
イオネツがうっとりとその姿を眺めていると、橋の上の母の動きが静かに止まった。
玄の橋の欄干には、ランタンを吊るすための鈎 がある。タジエナの舞が終わると、周囲にいた女たちは、手にしたランタンを一斉にそこへ吊るした。それと同時にネマの島にある数知れない楼閣の軒下にも、幾千というランタンが吊るされる。
子どもたちや中洲に残る女たちや下衆は、その時を見誤ること無く、自分の受け持ちである軒下の鈎に、ランタンをどんどんと吊るしていった。
薄闇の中に中洲がほのかな光を帯びて浮かび上がり、玄の橋の向こうでこの儀式を見守っていた人々の間から拍手と歓声が沸き上がった。
橋の上では女たちが中洲へと戻り、それと入れ違いに、客引きの下衆が対岸へと向かう。
遊女は、一足たりとも玄の橋の向こうの世界に出て行くことを許されないから、外の広場で客引きをするのは、男の下働きである下衆の仕事なのだった。
イオネツの母であるタジエナ・ジュンランはそう言った。
イオネツは、太陽が川向うに沈んでいった時、母の働く娼館「艶麗館」の最上階から、島と川岸を結ぶ玄の橋を眺めていた。
このルルヌイ川にぽつんと浮かぶネマの島という場所について、イオネツは母のように深く考えたことはない。
生まれたときからずっとこの場所で暮らしているのだし、この小さな島から出たことが一度もないのだから、他の場所と比べることもできない。
ただ、母がこの地にいる。
この川の中の小さな中州で暮らす理由としては、もうそれだけでイオネツにとっては充分なのだった。
それに、これから行われる開門の儀。夕闇が迫る中執り行われる幽玄で美しい儀式が、イオネツは好きだった。
人間が作り出したものであるにも関わらず、まるで、神霊様やナトギ様の技ではないのかと思うほどの幻想的なひとときは、見ているだけでわくわくとしてくる。
イオネツは、太鼓橋へ向けていた視線を、島中央に位置する、緑に囲まれた場所へと向けた。
ナトギの社と呼ばれるその場所には、小さな祠に自然の精霊ナトギ様が祀られている。ナトギ様は、緑多い自然のままの場所を愛するから、祠の周囲は木々が生い茂るままに残されていて、その一帯をナトギの社と呼ぶのだった。
たくさんの「アヤメ」や「シキ」と呼ばれる格下の遊女を引き連れ、今日の鍵役であるタジエナ・ジュンランのお練りが、ナトギの社の前から始まる。
見つめる木々の向こうから、ゆるりゆるりと歩を進めるタジエナが小さく見え始めた。練り歩く女たちの手には、硝子と鉄でできたランタンがぶら下げられている。
鉄と硝子は、火の精霊イオヴェズの治めるアマランス国だけが生成できるもので、アマランス国の象徴であった。
太陽は沈んだとはいえまだ明るいから、女たちの手元のランタンはぼんやりとして、ついているのかいないのかも定かではない。けれど、この行列が島と岸との境目である刻の門に到着する頃には、ほんのりと光りだすことだろう。どんよりとした曇り空は、夜を早くに運んできてくれるはずだ。
刻一刻と夜が迫る中、たっぷりと時間をかけて、女郎の行列が太鼓橋のたもとに到着する。
開門の時を告げる太鼓の音や、沸き起こる人々の歓声が、イオネツのもとにまで届いた。
「なあなあ、これが終わったらなにする?」
そんな声が聞こえて、反射的にイオネツは振り返る。
背後では、火の灯されていないランタンを手にした数人の子どもたちがおしゃべりをしていた。
この島にも子どもはいる。女たちによって産み落とされた子どもたちだ。父親のわかっている者など、皆無といっていい。
昼の間は、掃除や台所の手伝いなど、子どもにだってたくさんの仕事がある。だが、開門の儀に合わせてランタンを吊るすという仕事を終えれば、そこからは子どもたちの自由時間となる。母親が客を取って働く間、子らは女郎屋の裏で、好きに遊び好きに食べ好きに寝る事ができるのだった。客の目につかないようにさえしていれば、何をしていようとめったなことで咎められることはない。
「なんだか雨になりそうだからさぁ、家の中で遊ばない?」
「石あては?」
「みんなで遊べるほどの石がないだろ?」
「ううん、じゃあ札合わせ?」
楽しげに笑いながら相談している。
イオネツは、ぼんやりと開門の儀を眺めながら、子どもたちの話に耳を傾けた。
「イオネツも……一緒に遊ぶ?」
背後から、モニエルの声が聞こえた。今まで賑やかにおしゃべりをしていた子どもたちが、しんと黙り込む。モニエルが自分を誘ったのだと気づいたイオネツは、驚いて後ろを振り返った。
モニエルは艶麗館の子どもたちの中では年長で、みんなの姉のような存在だ。母親のいない小さな子どもは、彼女を母代わりのように慕っている。イオネツも幼い頃はよく一緒に遊んでもらった。
モニエルは、自分が発した言葉のもたらした反応の大きさに、顔を赤らめ、もじもじとしながらイオネツの方をうかがっていた。
「ばっか、アイツはもうすぐここ出て行くんだぜ、俺らとなんか、遊ばねえだろ?」
「あぁ、読み書きの勉強でもすんだろう?」
「お利口なイオネツは、俺らたちなんかと遊んだりしないよなぁ?」
「もう、後何日かで出て行くやつなんか。誘うんじゃねえよ!」
「三日後だろ? その次の日には十三になっちまうしな」
しばしの沈黙の後に、子どもたちは口々にそんなことを言いだした。
イオネツについて話しているにも関わらず、だれも直接イオネツには話しかけようとしない。
いったんは声をかけてくれたモニエルも、うつむいて、イオネツから視線を外してしまった。
もともと、イオネツはこの艶麗館の子どもたちの中でも、ひときわ浮いている存在だった。
ネマの島で生まれた子どもは皆ネマの島で生き、ネマの島の中で一生を終える。
ネマの島には『十三を迎えるまでに外の世界へ出て行かなかった者は、以後島から出ることはまかりならぬ』という、掟がある。きちんと何かに書き記されているわけではないが、暗黙の了解といったようなもので、その掟のため、この地で生まれた女は遊女に、男は下衆になるほかはない。誰もが、それを己の定めだと受け入れていた。
だが、イオネツの母タジエナは、その掟を良しとはしない人だった。
彼女はもともとネマの島で生まれた女ではない。それどころか、アマランス人でもない。よそから島に流れ着き、そのまま遊女となったのだそうだ。
『お前は、十三になる前にこの地を出ておいき』
幼い頃から母にそう言われていたイオネツは、その時のためにと、母から読み書きの手ほどきを受けている。話し方も、きちんとしなければ怒られた。
島に暮らす子どもたちは字など読めなかったし、言葉づかいも、川の渡しをしている孤児、ルルヌイの子たちよりも乱暴だと言われている。そんな中にあって、礼儀正しい振る舞いをし、読み書きをするイオネツは、間違いなく周囲から浮いていた。
まだ何もわからない小さいうちはそうでもなかったが、物心がつくにつれ、他の者たちはイオネツを遠ざけるようになっていった。
「あいつ、ロワンザの町の大きな店の使用人になるんだって?」
と言う声がしたが、イオネツはなんの反応も返さず、皆に背を向けてしまう。
「あ、無視? 無視した? あいつ?」
背後からはムッとしたような声と、くすくすと笑う声がする。悪意のこもった言葉に返事をする義理はない。イオネツは、背後の友人たちに興味を失った。
「お前たち、ちゃんと外の様子を見ておけよ!」
運良く、子どもたちの監督をしていた下衆の怒声が飛び、潮を引くようにおしゃべりはおさまっていった。
イオネツも外で行なわれている開門の儀に意識を集中させる。
橋の上ではタジエナ・ジュンランが舞っている最中だった。
イオネツにはゆるりと舞う母親が、光り輝いてみえた。先程までのどよめきがやみ、空気がしんと静まっている。皆がタジエナの舞に引き込まれているのだ。
タジエナ・ジュンランは、とても美しい人だった。
彼女は、金色の絹糸のようなふわりとした髪と、抜けるように白い肌を持っている。それでいて、頬や唇は紅を差さなくてもほんのりと色づいている。
アマランスでは金色の髪色の者は、まずいない。肌は褐色で、髪色は黒から栗色といった暗めの色がほとんどだ。
タジエナも、この中洲では異端の存在なのである。
イオネツがうっとりとその姿を眺めていると、橋の上の母の動きが静かに止まった。
玄の橋の欄干には、ランタンを吊るすための
子どもたちや中洲に残る女たちや下衆は、その時を見誤ること無く、自分の受け持ちである軒下の鈎に、ランタンをどんどんと吊るしていった。
薄闇の中に中洲がほのかな光を帯びて浮かび上がり、玄の橋の向こうでこの儀式を見守っていた人々の間から拍手と歓声が沸き上がった。
橋の上では女たちが中洲へと戻り、それと入れ違いに、客引きの下衆が対岸へと向かう。
遊女は、一足たりとも玄の橋の向こうの世界に出て行くことを許されないから、外の広場で客引きをするのは、男の下働きである下衆の仕事なのだった。