ルルヌイの岸辺
島の中の通りは、炎の光で溢れていた。
店の軒下に吊るされたランタンや、大きな通りで焚かれる篝火が、辺りをオレンジ色に照らし出す。
炎が作り出す光は、どこか怪しいほの暗さを含み、濃淡様々にゆらめく影を街中に作り出していた。
川中に浮かぶ中洲は、いくら大きいとはいえ、二刻(八十分程度)もあれば一周することができた。けれども幾つもの通りが蜘蛛の巣のように張り巡らされており、それぞれをくまなく見て回ろうとすれば、いくら時間があっても足りない。
人とぶつからないで行き交うことが難しいほどの狭い路地には、小さくても一風変わった土産物屋や、占いの店などがあり、意外にも観光客に人気がある。
ウォルセフはそういった店の情報も集めながら、通りから通り、路地から路地を足早に抜けていった。
「兄さん、兄さん! ウチんところ、なんと今ならアヤメちゃんが空いてるよ!」
通り過ぎようとしたウォルセフの背に客引きの声がかかった。
アヤメと言えば、一般の客が相手をしてもらえる遊女の中では、最も格の高い女だ。
しかし、その声に振り返ったウォルセフは眉間にシワを寄せ、不機嫌を隠そうとはしていなかった。
「っと! なんだ、ウォルセフかよ!」
声をかけてきた下衆のほうでも、相手がウォルセフであるとわかると素に戻り、落胆の声を上げた。
しかしすぐに気を取り直し、威勢よく話しかけてくる。
「うちの店、この月は三人も新しい子が店に出たんだよ。売り込みよろしく頼まあ!」
ルルヌイの子たちは、店に客を運んでくれる窓口と言ってもいい存在だ。売り込みを担当する下衆ならば、ルルヌイの子のリーダーたちの顔を知らない者はいない。
呼び込みの男は、話しながら自然な動きで銅銭を一枚ウォルセフの手に滑り込ませた。マスカダインで流通する硬貨は、それぞれ大きさや形が違うから、目で確認することもなくウォルセフはそれを帯に挟み込む。
「わかった。で、他にこの辺で最近変わったことないか?」
ウォルセフがたずねると、男は目をぐるりと上に向けて記憶を手繰っているようだった。
「んー、ああ、黄昏通りの占い屋、アェラナの店のアェラナ婆さんが店じまいだとさ」
探りを入れつつも、返事を期待はしていなかったウォルセフは「マジで?」と、聞き返した。
「あの店、評判良かったじゃないか?」
「まあな。でも婆さんが、もう店をやってくのはしんどいんだとさ。店じまいはするけど、ここだけの話な、顔見知りなら頼めば見てくれるってよ?」
客引きは、話の後半になるとぐっと声をひそめ、いかにも秘密を打ち明けるかのようにウォルセフの耳元に口を寄せる。
だが、ウォルセフはただ笑って、踵を返す。ありがとうという意味を込めて、親指を突き出して、左右に軽く振ってみせた。
客引きも、軽く手を上げて、また通りをそぞろ歩く男たちに声をかけ始めた。
ウォルセフ自身は、占いに興味はない。確かにアェラナ婆さんはよく当たると評判だが、占ってもらいたいとは思わない。
ただ客に
『いい占い店はないかねえ』
と尋ねられた時、紹介できる店が一つ減ってしまった。それだけのことだ。
島の中をひと通り見て回ったウォルセフは、中央にある小さくこんもりとした闇へと向かった。
ナトギの社と言われるその場所には、自然霊ナトギを祀った祠が安置されている。
いつもというわけではないが、この島で情報収集をした後には、なるべくこの場所を訪れるようにしている。そして、マスカダインの地に恵みをもたらしてくれるというナトギ様に手を合わせ、参拝者用に用意されているろうそくを捧げる。
ウォルセフがナトギの社の門をくぐった時、ちょうどフドの時イオの刻(午後八時頃)を告げる鐘の音が低く響くのを聞いた。この歓楽街の雰囲気だけを楽しもうという客は、たいていこの鐘を合図に宿へと戻る。
鐘の音を聞きながら、樹々の間の簡素な門を抜けると、その先は細い路がグルグルと円を描きながら中心へと向かっていった。踏みしめられ固くなってはいるが、石畳に覆われていない路にはところどころに草が生えている。
深い緑に囲まれたこの場所は、人でひしめいているネマの島の中にありながら、ひっそりと静まり返っている。ところどころに小さく灯るランタンがなければ、歩くこともままならないような闇がそこにはあった。
自然霊であるナトギは、人工物より自然のままの場所を愛するのだという。そのために、この社の中には、自然のままの暗闇が残されているのだ。
中心部にある祠までまっすぐたどり着くことができぬよう、細道は曲がりくねる。
ナトギの祠に近づくにつれ、マスカダイン一の歓楽街の中にいるとは思えないような静寂が、ウォルセフの耳を覆った。
「ナトギ様とやらは、本当にいるもんなのかねえ……?」
思わずそうつぶやいたのは、静けさに押しつぶされそうになったからかもしれない。
その時、すぐ前の空間から何者かの気配を感じ、ウォルセフはとっさに身構えた。
背中に挟み込んだロープに手をかける。ボーラという名の武器は、ロープに錘がつけられていて、武器としても捕獲の道具としても役に立つ。ルルヌイの子はたいていこのボーラを所持しており、特にウォルセフは、この武器の扱いを得意としていた。
ボーラに手を添えたまま、そっと木立の先に踏み込むと、その先はナトギの祠のある中心部で、少し開けた空間になる。
小さな広場には高床式の小さな祠があり、その祠の手前に、まるでウォルセフを待ち構えてでもいたかのように、一人の少年がこちらを向いて立っていた。
ウォルセフを認めると、少年の口元がゆるみ、その顔にはにこりと可愛らしい笑顔が浮かぶ。
少年の屈託のない笑顔に、敵意はないと感じ、ふっとウォレセフの肩から力が抜けた。
目の前で笑顔を見せる少年は、よく見ると、ぞっとするほどに美しい顔立ちをしていた。
長い金色の髪は後ろで一つにまとめられており、身を清めるための清めの場に吊るされたランタンの光を受けて、きらめく瞳は澄んだ碧 だった。そして肌の色は抜けるように白い。褐色の肌と栗色の髪をもつアマランス人ではないはずだ。この外見はダフォディル人かロウレンティア人。でなければ……。
(精霊ナトギが、人の形を取って現れたのではないか?)
そう思った矢先
「ナトギ様はいるよ」
そう少年の唇が動いた。
耳に届いた声は、普通の人間と変わりないもので、作り物めいてみえた少年に人間味をあたえて、ウォルセフはほっとする。
しかし、次の瞬間、ウォルセフの思考は再び停止した。
少年が左手をすっと上下に振ると、清めの場に用意されている桶の中の水が、飛沫を上げて飛び上がった。次いで右手を振ると、ナトギの祠の前に何本も供えられているろうそくの炎が伸び上がる。炎と水が、まるで意思を持っているかのように、少年の周りを飛び回り、周囲の木立がざわざわとざわめいた。
――炎と水と風を自在に操り、笑顔を浮かべて戯れる少年。
「お前……だれだ?」
問いかけに、少年は小さく笑う。
「僕、イオネツだよ」
ウォルセフは肩をすくめてみせた。誰だとは聞いたけれど、別に名前を聞きたかったわけではない。
「ナトギ様はいるよ。ね? ナトギ様?」
イオネツは何もない空間に話しかけた。
しばらくすると、少年の回りを飛び回っていた炎と水が、元あった場所に吸い込まれるように戻っていく。
「ほらね? ナトギ様が、遊んでいるんだよ」
「お前……いったい?」
イオネツが笑顔を浮かべながら一歩ウォルセフに近づいた。ウォルセフは一歩後退して二人の間の距離を保った。ウォルセフは得体の知れないこの少年への警戒心を、まだ完全に解いてはいない。
けれどもイオネツは変わらず笑っていた。
「僕はイオネツだよ。ネマの島で生まれて、ずっとここに住んでるんだ。あのね。ただ少しだけ、感じる力が強いんだよ。だから、あのね、感じるんだ。そう、ナトギ様がここに存在しているって。……見ててね! 彼らとちょっと力を合わせれば、こういうこともできるよ」
イオネツが手のひらを向けると、清めの場に用意されていた水が、こぶし大ほど空中に持ち上がり、破裂するように小さな水滴となって、周囲に消えた。
「そんな話。聞いたことない……」
ウォルセフはどこかに何か仕込まれているのではないかと、用心深く周囲に気を向けるが、自分たち二人以外の気配はない。
「ねえ、あのね、まだあなたの名前、聞いてないよ?」
自分よりいくぶん小さい、まだウォルセフの首ほどまでの背丈の少年だ。こちらへ向かってこようとする少年に、ウォルセフはかすかな恐怖を感じたが、奥歯を噛み締め、それをぐっと押さえ込んだ。
未知の力への恐怖は確かにあるが、こうやって会話をしてみても、イオネツから邪気は感じられない。
「……ウォルセフだ」
そう答えると、イオネツはもうウォルセフの目と鼻の先に立っていた。上体をわずかにかがめて、くんくんとウォルセフの匂いを嗅いでいる。
まるで動物が相手を確認するときのようだ。
「ウォルセフ、あなた、いい人なんだね?」
ウォルセフの周囲を数回廻りながら、さんざん匂いを嗅ぎ終えると、イオネツはようやく身を起こした。
「俺が?」
「うん。とてもいいニオイがする。あなたからは、澄んだ気持ちのよいニオイがする」
イオネツの言っている意味がよくわからず、ウォルセフは自分自身の腕を鼻の前に持っていき、クンクンと匂いを嗅いでみた。
だが、とくにいい匂いなどはしない。
「雨だよ!」
イオネツの声に天を見上げると、顔に雨粒が当たるのを感じた。
ぽつ。
ぽつ。
ぽっ、ぽっ、ぽっ……。
降り出した雨が少しずつ勢いを増していく。
イオネツがウォルセフの手を取り、二人は小走りに清めの場の屋根の下へと避難した。体についた水滴を払い、屋根の下のつるつるに磨かれた白い石の上に腰を掛ける。
「イオネツ、お前、その力で雨をどうにかすることはできないのか?」
「そんなこと、ナトギ様にだってできやしないよ」
イオネツはそう言うとぷうっとほっぺたを膨らませた。
「そんなこと、できたとしても、僕の力も吸い取られて死んじゃう。僕にはさっき見せたくらいで精一杯。遊ぶことはできても、役に立つようなことは、何にもできやしないよ。だから、あの力は誰にも内緒なんだ。知ってるのは母さんだけ。内緒だよ?」
そう言いながら、イオネツは人差し指を唇に当てた。
「イオネツ、あんたの母親ってまさか……」
思い至って、隣りに座るイオネツの顔を見つめる。
開門の儀で、艶やかに舞を披露した女。
切れ長の、強い意志を持った青い瞳。金色の髪と白い肌。そして、人形のように整った顔立ち。一瞬視線があっただけで、すべてを持っていかれそうになった女。
「タジエナ・ジュンランだよ。知ってる?」
イオネツは、タジエナにそっくりな顔とまだあどけない瞳で、ウォルセフに笑いかけた。
「ちょっと待て……」
ウォルセフは頭を抱える。
確かに似ている。遠目ではあったが、太鼓橋の上で舞う人間離れした美しさを持つ女と、目の前の少年はとても他人とは思えない。
大体、ロワンザに住んでいる者で、金色の髪と白い肌の者など、この二人以外にはいないだろう。
店の軒下に吊るされたランタンや、大きな通りで焚かれる篝火が、辺りをオレンジ色に照らし出す。
炎が作り出す光は、どこか怪しいほの暗さを含み、濃淡様々にゆらめく影を街中に作り出していた。
川中に浮かぶ中洲は、いくら大きいとはいえ、二刻(八十分程度)もあれば一周することができた。けれども幾つもの通りが蜘蛛の巣のように張り巡らされており、それぞれをくまなく見て回ろうとすれば、いくら時間があっても足りない。
人とぶつからないで行き交うことが難しいほどの狭い路地には、小さくても一風変わった土産物屋や、占いの店などがあり、意外にも観光客に人気がある。
ウォルセフはそういった店の情報も集めながら、通りから通り、路地から路地を足早に抜けていった。
「兄さん、兄さん! ウチんところ、なんと今ならアヤメちゃんが空いてるよ!」
通り過ぎようとしたウォルセフの背に客引きの声がかかった。
アヤメと言えば、一般の客が相手をしてもらえる遊女の中では、最も格の高い女だ。
しかし、その声に振り返ったウォルセフは眉間にシワを寄せ、不機嫌を隠そうとはしていなかった。
「っと! なんだ、ウォルセフかよ!」
声をかけてきた下衆のほうでも、相手がウォルセフであるとわかると素に戻り、落胆の声を上げた。
しかしすぐに気を取り直し、威勢よく話しかけてくる。
「うちの店、この月は三人も新しい子が店に出たんだよ。売り込みよろしく頼まあ!」
ルルヌイの子たちは、店に客を運んでくれる窓口と言ってもいい存在だ。売り込みを担当する下衆ならば、ルルヌイの子のリーダーたちの顔を知らない者はいない。
呼び込みの男は、話しながら自然な動きで銅銭を一枚ウォルセフの手に滑り込ませた。マスカダインで流通する硬貨は、それぞれ大きさや形が違うから、目で確認することもなくウォルセフはそれを帯に挟み込む。
「わかった。で、他にこの辺で最近変わったことないか?」
ウォルセフがたずねると、男は目をぐるりと上に向けて記憶を手繰っているようだった。
「んー、ああ、黄昏通りの占い屋、アェラナの店のアェラナ婆さんが店じまいだとさ」
探りを入れつつも、返事を期待はしていなかったウォルセフは「マジで?」と、聞き返した。
「あの店、評判良かったじゃないか?」
「まあな。でも婆さんが、もう店をやってくのはしんどいんだとさ。店じまいはするけど、ここだけの話な、顔見知りなら頼めば見てくれるってよ?」
客引きは、話の後半になるとぐっと声をひそめ、いかにも秘密を打ち明けるかのようにウォルセフの耳元に口を寄せる。
だが、ウォルセフはただ笑って、踵を返す。ありがとうという意味を込めて、親指を突き出して、左右に軽く振ってみせた。
客引きも、軽く手を上げて、また通りをそぞろ歩く男たちに声をかけ始めた。
ウォルセフ自身は、占いに興味はない。確かにアェラナ婆さんはよく当たると評判だが、占ってもらいたいとは思わない。
ただ客に
『いい占い店はないかねえ』
と尋ねられた時、紹介できる店が一つ減ってしまった。それだけのことだ。
島の中をひと通り見て回ったウォルセフは、中央にある小さくこんもりとした闇へと向かった。
ナトギの社と言われるその場所には、自然霊ナトギを祀った祠が安置されている。
いつもというわけではないが、この島で情報収集をした後には、なるべくこの場所を訪れるようにしている。そして、マスカダインの地に恵みをもたらしてくれるというナトギ様に手を合わせ、参拝者用に用意されているろうそくを捧げる。
ウォルセフがナトギの社の門をくぐった時、ちょうどフドの時イオの刻(午後八時頃)を告げる鐘の音が低く響くのを聞いた。この歓楽街の雰囲気だけを楽しもうという客は、たいていこの鐘を合図に宿へと戻る。
鐘の音を聞きながら、樹々の間の簡素な門を抜けると、その先は細い路がグルグルと円を描きながら中心へと向かっていった。踏みしめられ固くなってはいるが、石畳に覆われていない路にはところどころに草が生えている。
深い緑に囲まれたこの場所は、人でひしめいているネマの島の中にありながら、ひっそりと静まり返っている。ところどころに小さく灯るランタンがなければ、歩くこともままならないような闇がそこにはあった。
自然霊であるナトギは、人工物より自然のままの場所を愛するのだという。そのために、この社の中には、自然のままの暗闇が残されているのだ。
中心部にある祠までまっすぐたどり着くことができぬよう、細道は曲がりくねる。
ナトギの祠に近づくにつれ、マスカダイン一の歓楽街の中にいるとは思えないような静寂が、ウォルセフの耳を覆った。
「ナトギ様とやらは、本当にいるもんなのかねえ……?」
思わずそうつぶやいたのは、静けさに押しつぶされそうになったからかもしれない。
その時、すぐ前の空間から何者かの気配を感じ、ウォルセフはとっさに身構えた。
背中に挟み込んだロープに手をかける。ボーラという名の武器は、ロープに錘がつけられていて、武器としても捕獲の道具としても役に立つ。ルルヌイの子はたいていこのボーラを所持しており、特にウォルセフは、この武器の扱いを得意としていた。
ボーラに手を添えたまま、そっと木立の先に踏み込むと、その先はナトギの祠のある中心部で、少し開けた空間になる。
小さな広場には高床式の小さな祠があり、その祠の手前に、まるでウォルセフを待ち構えてでもいたかのように、一人の少年がこちらを向いて立っていた。
ウォルセフを認めると、少年の口元がゆるみ、その顔にはにこりと可愛らしい笑顔が浮かぶ。
少年の屈託のない笑顔に、敵意はないと感じ、ふっとウォレセフの肩から力が抜けた。
目の前で笑顔を見せる少年は、よく見ると、ぞっとするほどに美しい顔立ちをしていた。
長い金色の髪は後ろで一つにまとめられており、身を清めるための清めの場に吊るされたランタンの光を受けて、きらめく瞳は澄んだ
(精霊ナトギが、人の形を取って現れたのではないか?)
そう思った矢先
「ナトギ様はいるよ」
そう少年の唇が動いた。
耳に届いた声は、普通の人間と変わりないもので、作り物めいてみえた少年に人間味をあたえて、ウォルセフはほっとする。
しかし、次の瞬間、ウォルセフの思考は再び停止した。
少年が左手をすっと上下に振ると、清めの場に用意されている桶の中の水が、飛沫を上げて飛び上がった。次いで右手を振ると、ナトギの祠の前に何本も供えられているろうそくの炎が伸び上がる。炎と水が、まるで意思を持っているかのように、少年の周りを飛び回り、周囲の木立がざわざわとざわめいた。
――炎と水と風を自在に操り、笑顔を浮かべて戯れる少年。
「お前……だれだ?」
問いかけに、少年は小さく笑う。
「僕、イオネツだよ」
ウォルセフは肩をすくめてみせた。誰だとは聞いたけれど、別に名前を聞きたかったわけではない。
「ナトギ様はいるよ。ね? ナトギ様?」
イオネツは何もない空間に話しかけた。
しばらくすると、少年の回りを飛び回っていた炎と水が、元あった場所に吸い込まれるように戻っていく。
「ほらね? ナトギ様が、遊んでいるんだよ」
「お前……いったい?」
イオネツが笑顔を浮かべながら一歩ウォルセフに近づいた。ウォルセフは一歩後退して二人の間の距離を保った。ウォルセフは得体の知れないこの少年への警戒心を、まだ完全に解いてはいない。
けれどもイオネツは変わらず笑っていた。
「僕はイオネツだよ。ネマの島で生まれて、ずっとここに住んでるんだ。あのね。ただ少しだけ、感じる力が強いんだよ。だから、あのね、感じるんだ。そう、ナトギ様がここに存在しているって。……見ててね! 彼らとちょっと力を合わせれば、こういうこともできるよ」
イオネツが手のひらを向けると、清めの場に用意されていた水が、こぶし大ほど空中に持ち上がり、破裂するように小さな水滴となって、周囲に消えた。
「そんな話。聞いたことない……」
ウォルセフはどこかに何か仕込まれているのではないかと、用心深く周囲に気を向けるが、自分たち二人以外の気配はない。
「ねえ、あのね、まだあなたの名前、聞いてないよ?」
自分よりいくぶん小さい、まだウォルセフの首ほどまでの背丈の少年だ。こちらへ向かってこようとする少年に、ウォルセフはかすかな恐怖を感じたが、奥歯を噛み締め、それをぐっと押さえ込んだ。
未知の力への恐怖は確かにあるが、こうやって会話をしてみても、イオネツから邪気は感じられない。
「……ウォルセフだ」
そう答えると、イオネツはもうウォルセフの目と鼻の先に立っていた。上体をわずかにかがめて、くんくんとウォルセフの匂いを嗅いでいる。
まるで動物が相手を確認するときのようだ。
「ウォルセフ、あなた、いい人なんだね?」
ウォルセフの周囲を数回廻りながら、さんざん匂いを嗅ぎ終えると、イオネツはようやく身を起こした。
「俺が?」
「うん。とてもいいニオイがする。あなたからは、澄んだ気持ちのよいニオイがする」
イオネツの言っている意味がよくわからず、ウォルセフは自分自身の腕を鼻の前に持っていき、クンクンと匂いを嗅いでみた。
だが、とくにいい匂いなどはしない。
「雨だよ!」
イオネツの声に天を見上げると、顔に雨粒が当たるのを感じた。
ぽつ。
ぽつ。
ぽっ、ぽっ、ぽっ……。
降り出した雨が少しずつ勢いを増していく。
イオネツがウォルセフの手を取り、二人は小走りに清めの場の屋根の下へと避難した。体についた水滴を払い、屋根の下のつるつるに磨かれた白い石の上に腰を掛ける。
「イオネツ、お前、その力で雨をどうにかすることはできないのか?」
「そんなこと、ナトギ様にだってできやしないよ」
イオネツはそう言うとぷうっとほっぺたを膨らませた。
「そんなこと、できたとしても、僕の力も吸い取られて死んじゃう。僕にはさっき見せたくらいで精一杯。遊ぶことはできても、役に立つようなことは、何にもできやしないよ。だから、あの力は誰にも内緒なんだ。知ってるのは母さんだけ。内緒だよ?」
そう言いながら、イオネツは人差し指を唇に当てた。
「イオネツ、あんたの母親ってまさか……」
思い至って、隣りに座るイオネツの顔を見つめる。
開門の儀で、艶やかに舞を披露した女。
切れ長の、強い意志を持った青い瞳。金色の髪と白い肌。そして、人形のように整った顔立ち。一瞬視線があっただけで、すべてを持っていかれそうになった女。
「タジエナ・ジュンランだよ。知ってる?」
イオネツは、タジエナにそっくりな顔とまだあどけない瞳で、ウォルセフに笑いかけた。
「ちょっと待て……」
ウォルセフは頭を抱える。
確かに似ている。遠目ではあったが、太鼓橋の上で舞う人間離れした美しさを持つ女と、目の前の少年はとても他人とは思えない。
大体、ロワンザに住んでいる者で、金色の髪と白い肌の者など、この二人以外にはいないだろう。