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旅立ち

「まだ見ぬ愛しい子よ
 わたしがあなたに会えるのを どれほど心待ちにしているか
 あなたにつたえることができるといいのに」

 沈まり返っていた広場に、小さな囁きがあちこちから漏れ始める。

「この歌……」
「聞こえる?」
「ああ、神霊の子守唄だろう?」

「あなたがどんな足跡をこの大地に刻んでいくのか
 どんな試練に出会うのか
 どんな大人になってゆくのか
 どう世界を超えていくのか

 見守ることのできる 私のよろこびが 
 あなたに伝わるといいのに

 さあ 目を覚まして 
 さあ 声をきかせて

 わたしの愛しい子よ

 わたしの心がとどくといいのに
 わたしの願いがとどくといいのに……」

 子守唄なのに、目を覚ませというのもおかしな歌詞なのだが、もともとは、まだ覚醒していない人間たちに、神霊が呼びかけた歌なのだそうだ。
 その歌詞にアレンジが加えられ、各地で子守唄として歌い継がれている。マスカダインに住んでいる人々の間では、知らない者のいない歌だった。
 広場に集まる人々の間からも、いつしか歌声が聞こえ始はじめ、タジエナの声に重なっていく。広場が歌声に包まれる。
 そうして、歌が終わると、タジエナの舞はスピードを増していった。

「こんな舞は見たことねえな」

 モーセルの言うとおり、開門の儀で通常踊られる舞は、それぞれの鍵役によって微妙に違いはあるものの、ゆったりとした舞である。
 しかし、いま玄の橋の中央で踊るたタジエナはくるくると旋回しながら髪を振り乱すような勢いで舞い、次第にテンポを上げていっている。

「あれは、ダフォディル地方の舞に似ているわねえ」

 近くにいた、旅の途中らしい女性がそう言った。

「アマランスに来る前、ダフォディルに寄ったのだけど、あそこの舞は次第にスピードを上げて、くるくると旋回するのが特徴なのよ」

 熱気を帯びるタジエナの舞に引き込まれ、周囲からはどよめきと、ヒュウヒュウという指笛の音が巻き起こる。

「いいぞー!」

  そんな掛け声を合図に、広場を埋めた人々の間から割れんばかりの拍手が巻き起こった。

 そして、タジエナの動きがピタリと止まった。

 両の手を真横に広げ、うつむき、肩で息をしている。
 ぜいぜいという呼吸が聞こえてきそうなほど、タジエナの肩は激しく上下していた。
 次第にタジエナの息が整っていき、ゆっくりとその面を上げる。岸辺に群がる観客に向かって優雅な一礼をすると、そのまま踵を返し、ネマの島の中へと消えていった。
 
 ほうっと、あちこちからため息が聞こえた。
 広場にざわめきが戻ってくる。
 ウォルセフが様子を見ると、イオネツはテーブルの上に突っ伏して肩を震わせていた。
 なんと声をかけていいのか見当もつかない。

「ふうーん」

 モーセルの声がした。

「お前もまた、面倒なもんを……」
「モーセル!」
「いや、別に悪いと言ってるわけじゃねえよ。でも、今日だけだぞ。他の奴らには、同じグループの奴らにだって、悟らせんなよ。ほら、客が来るぞ」

 開門の儀の終了とともに、店の中へと客がチラホラと流れ込んでくる。

「いらっしゃいませ」

 ウォルセフは木製の丸い盆をつかんで、客の座ったテーブルへと向かった。
 幾人かの客の相手をしながら、ふとネマの島の方へと視線を向けた時、ウォルセフは信じられないものを目にした。
 慌ててイオネツの元へ行くと、うつむいて、必死で涙をこらえようと試みている彼の肩を揺さぶる。

「おい、あれ……みろよ!」

 イオネツが、まつげに水滴をまとわせたまま、しぶしぶといった様子で顔を上げた。

「ひくっ!」

 変な音を立てて、イオネツが息を呑み、ついでにぴょこんと椅子の上で跳ねる。
 二人が見つめる先に、ゆっくりと玄の橋を渡ってくる小さな人影が見えた。
 人影は、深く腰を曲げ、杖を突き、一歩一歩は小さいけれども、確実にロワンザの岸を目指している。
 二人がぱぽかんと大きく口を開いている間に、その人影はテーブルの前までやってきた。

「なんだい。イオネツ。お前さん、まぁだメソメソしているのかい?」

 声をかけられて、二人はやっと正気に返った。

「ミ、ミ、ミ、ミラルディ!」

 ウォルセフとイオネツの声がシンクロする。

「ミラルディ! どうしたの? なんで島を出てこれたの? どっかいくの?」

 質問攻めにするイオネツには答えず、ミラルディは店の奥にいたモーセルの視線を捕まえると杖をついていない方の手を軽く上げる。

「兄さん、熱いお茶はあるかい?」
「ああ、あるよ! ソンヌ茶と、バーム茶、スープもあるが?」
「ああ、じゃあソンヌ茶を頼むよ」

 ミラルディは「どっこいしょ」とイオネツの前に腰を下ろした。

「さて、なんで島を出たきたか、か。まあ、私がワノトギだとバレちまったからね。あのまま艶麗館の女主人に収まっているわけにはいかないだろう?」
「だって……え? そしたら艶麗館はどうなるの?」

 ミラルディはにやりと笑った。

「ウォルセフ、お前さんもお座りよ」

 ミラルディは奥からお茶を持ってきたモーセルに「この二人をちょいと借りるよ!」と声を上げながらテーブルの上に銅貨を一枚置いた。
 モーセルは泣いてばかりで仕事にならないイオネツに渋い顔をしていたが、テーブルの上の銅貨を前掛けのポケットに入れると、笑顔になった。何しろ銅貨は銅銭十枚分もの値打ちがあるのだ。

「どうぞどうぞ」

 とたんに、ウォルセフのためにイスまで持ってくる。
 ミラルディは二人が落ち着いたのを確認すると、ゆっくりと話し始めた。

「艶麗館は、タジエナに後を任せた。あれももうずいぶんと長くジュンランをやってきたからね。引退してもおかしくない年だしねえ。贔屓衆への挨拶なんかもあるから、今すぐすっぱり遊女をやめるわけにはいかないだろうけどね。だから今日は、急遽タジエナに最後の鍵役をやってもらったのさ。本人も今日の鍵役をやりたがってたしね。イオネツ、お前さんに見せたかったんだろうね。あ! ほら、イオネツ! メソメソするんじゃないよ!……まあ、今日ばっかりはしょうがないかねえ。お前さん、明日っからは泣いたりしないで、しっかり働くんだよ」

 イオネツの世話を焼くミラルディをウォルセフは不思議な気持ちで眺めていた。

「で? ミラルディはどうするんだ?」

 持っていたハンカチでイオネツの目元を拭ってやっていたミラルディの手が止まる。

「私はワノトギだよ。決まってるだろ。ワノトギというのは旅人のことさ。マスカダインの島中を旅して、悪霊と戦わなくちゃいけないのさ。それが、オネイルに取り憑かれて、神霊様のかけらを宿しちまった私の勤めなんだよ」

 ミラルディは目の前のお茶を手に取ると、目を細めて香りを吸い込んだ。

「ま、艶麗館のソンヌ茶には劣るけど、なかなかいい香りだよ」

 そう呟いて、ずずずっと茶をすする。

「ああ、わかってるよ。……でも駄目だよ……ああ、そうだね……」

 ミラルディが、独り言をつぶやいていた。独り言というよりは、ここにはいない誰かと会話を交わしているという感じだった。
 そういえば、ワノトギは、自分の中に住むトギと会話をすることができるのだという。

「私に取り憑いたオネイルは神霊様に浄化されたから、生きている頃のような激しい感情を抱くことはもうないんだけどね、彼女はさ、イオネツのことをまるで自分の息子のように感じていたんだよ。お前さんは覚えてないだろうけど、一度、どうしてもって頼まれて、私の身体をオネイルに明け渡して、生まれたばかりのお前さんを抱いたことがあったねえ。いまも、お前さんに別れの挨拶をしたいって言ってるけど、この体をオネイルに使わせると、その後私の足腰がたたなくなっちまうからね」
「ねえ、ミラルディ」

 イオネツの瞳は、ミラルディと話している内にすっかり乾いていた。

「もしかして、母さんはミラルディがワノトギだって、知ってたの?」
「おや、今頃気がついたのかい?」

 ミラルディはからからと笑う。

「兄さん! 上手いお茶だったよ! ここにお代をおいておくよ!」

 ミラルディはモーセルに向かって大きな声で話しかけると、銅銭一枚をテーブルの上に置き立ち上がる。

「もう……行っちゃうの?」

 イオネツの瞳が揺れた。

「なんだいイオネツ。またそんな顔をして。お前にはウォルセフがいるだろう?」

 イオネツがこっくりとうつむく。

「ウォルセフ。十五になるまで、イオネツを頼むよ」
「おう、任せとけよ」

 ウォルセフも立ち上がった。

「イオネツ、お前さんが十五になる時には、私が迎えに来るよ。そして、ダフォディル神殿まで、一緒に行ってやろうじゃないか」
「本当!?」

 イオネツが勢いよく立ち上がった拍子に、座っていたイスが後ろにひっくり返った。
 イオネツは慌てた様子でひっくり返ったイスをもとに戻している。ウォルセフもそんなイオネツの様子に気を取られ、一瞬ミラルディから視線を外していた。
 ふと顔をあげると、もうミラルディは店を後にして、通りを南に向かって歩き始はじめていた。

「ミラルディ! えっと、それと、オネイル! さようなら! また会おうね!」

 イオネツが叫んだ。

「しっかり働きなさい」

 最後に振り返ったミラルディの瞳が、一瞬赤く光った。
 最後の言葉を発したのは、ミラルディだったのだろうか、オネイルだったのだろうか。

「ありがとうございましたー!」

 モーセルの野太い声が店の奥から聞こえた。

「ほらおまえら! 今の言葉を聞いたか! しっかり働けとさ。ほいほい、イオネツ、この盆を、あちらのお客様に持ってきな!」

 モーセルはカップがいっぱい乗載った盆をイオネツに手渡した。
 イオネツは飲み物がこぼれないようにと、両手に力を込めて盆を受け取っている。

 ウォルセフは、ミラルディの消えた道の先を眺めた。
 広場から南へと伸びる道は、暗い夜の中にあっという間に溶け込んでいって、その先を見ることはできない。

「ウォルセフ、お前は洗い物だ!」
「はいよー」

 いつか、イオネツもこのロワンザから旅立っていくのかもしれない。
 でも、それは今じゃない。
 ウォルセフは店の中へと向かいながら、ミラルディの消えていった道の先へ、今一度目を向けた。
 すべてを飲み込んでしまいそうな真っ暗な山の陰が見える。けれども、その山並みがそびえる空の上には満天の星がきらきらと輝いているのだ。

「おーい、ウォルセフ!」

 喉の奥からせり上がるような涙を飲み込んで、ウォルセフは、

「今行く!」

 と、夜の空に背を向けた。


 了
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