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旅立ち

 艶麗館を後にした二人は、暑さに淀むネマの島を歩いていた。
 ウォルセフの後ろをついてくるイオネツは、懐の中の短刀を服の上からしっかりと握りしめている。
 影は長く石畳に落ちてはいるが、日が暮れるまでにはまだ時間がある。あと少しすれば、風も涼しくなってくるのだろうが、今はまだ気温は高く、空は青い。
 汗を吸った衣服が背中にぺったりと張り付いていた。
 二人は刻の門の前までたどり着くと、無言のまま、扉に背中を預けて座り込んだ。ピタリと閉じた門からは、外へ出てい出て行くことが許されていないのだ。二人の上に、ちょうど建物から長く伸びた影が落ちる。
 とにかく、開門の儀までは待つしかない。
 
「あっちぃ」

 ウォルセフはバタバタと襟をはためかせて、服の中に空気を入れた。
 しばらくすると、門の脇に設置された門番の詰めている小屋の中から、男が一人こちらへ向かってくるのが見えた。
 まるまると腹の突き出した、恰幅のいい男だ。簡素な上着は、その体には少し小さいようで、合わせからは毛むくじゃらの胸板が丸見えになっている。下穿きも穿いていないらしく、下着からにょきりと太い、これまた毛むくじゃらの足が見えていた。
 男はゆっくりとした足取りで、近づいてくる。

「おお、おまえがイオネツだな? 待ってたぜ!」

 ガラガラとした、大きな声がウォルセフとイオネツの頭の上から降ってきた。
 二人の目の前には褌に似た形状の下着と、そこから伸びる太い毛むくじゃらの二本の足があった。
 ウォルセフとイオネツは顔を上げて、男を仰ぎ見る。
 丸々した体の上にはやはり丸々とした顔が乗っていて、ねじり鉢巻きの下は意外にも人懐こい表情で、浅黒い顔には大きな耳と太い揉み上げがついていた。

「あなた、だれ?」

 そう聞いたのは、イオネツだった。

「俺? 俺はこの刻の門の門番だよ。で? おまえさんがイオネツで間違いねえよな? その金髪」
「うん、僕がイオネツだよ。で、こっちがウォルセフ」

 答えを聞くと、毛むくじゃらの門番は、ニカッと満面の笑みを浮かべる。

「よっしゃ、わかった」

 門番は、刻の門の横にある小さな門ををあっさりと開けた。
 開門の儀で、女郎たちが舞いながらで出てきた、あの門だ。
 ウォルセフとイオネツの二人は、外の世界にと開かれた四角い出入り口をしばらくぽかんと眺めていた。
 先に正気に返ったイオネツが

「え! なんで!?」

 と、腰を浮かせる。

「どういうわけだよ」

 ウォルセフも立ち上がり、尻についた土をパンパンと音を立てて払いながら門番にたずねた。

「あのな、この島だって、門が閉まってる間にも結構出入りはあるんだぜ。使い走りの下衆は出入りを許されてるし、まあ、お前さんのように十三を前にこの島を出てい出て行く者も、幾つかある例外の中の一つというわけだ」
「ちょっと待てよ、そしたら十三になる前のやつだったら、だれでも出入り自由なのかよ!」

 眉間にしわを寄せるウォルセフに。、門番が呆れたように首を振る。

「ばっかだな、おめえ。いくらなんでもそんなんじゃ示しがつかねえだろうが。ちゃんとこの島を仕切ってらっしゃる上の方々と、妓楼の主人の申請がなきゃ、たとえ十三前だからって門を開けてやるわけにゃあいかねえ。だいたいそんなやつぁ、十年に一人いるかいないかだぜ? 今回もヴェイア硝子店のウィメルさんは先にけえっちまうし、どうなることかと思ったぜ……まったく……」

 門番は、終いの方を口の中でもごもごとつぶやきながら、早く行けとでも言うように、手の甲を門の外へ向けて振った。

 いろいろありすぎて忘れていたが、そういう例外がなければ、いくら大店おおだなの主人だとはいえ、ヴェイア硝子店のウィメルも、この中洲から白昼堂々と出てい出て行くことなどできないのだ。要するに、予め、ウィメルとイオネツについては例外として、中洲を取り仕切っている上の方々の間で、本日に限り、刻の門の出入りを認められていたというわけだ。

 小さく開いた門の向こうには、黒々とした玄の橋が見える。橋は弓形になっているので、向こう側の橋のたもとは見えなかったが、その向こうには広場がみえた。広場を取り囲む店は、この時間はまだ閉まっている。中洲の中の建物とは違って、皆平屋の埃っぽいベージュ色の石造りの建物だ。その建物の後ろに見えるのはロワンザの国土の大半を占める急峻な山々……火を司る神霊イオヴェズ様が御座す、フラガリエ山脈。

「行こうぜ」

 ウォルセフがまだ座り込んだままのイオネツに声をかけた。
 びっくりとしたような表情でイオネツはノロノロと立ち上がり、ウォルセフの目の前を通り過ぎ、小さな門からネマの島の外へとでてい出て行った。その表情はぼんやりとして、足取りは夢の中を歩いてでもいるように、フラフラとしていた。
 イオネツが出てい出て行ったのを見届けてから、ウォルセフもその後に続く。

「じゃあな、外に行っても頑張れよ」

 背後で門番の声がして、パタンと扉の閉じる音がした。
 二人が後ろを振り返ると、大門の脇の小さな出入り口は、何事もなかったかのようにすでにピタリと閉じていた。

「ここが……外?」

 ぽかんとした表情のイオネツにウォルセフが頷いてみせる。イオネツは、まだ信じられないといった表情をしていて、それでもゆっくりと玄の橋の上を歩き始めた。
 太鼓橋の一番高くなっているあたりで足を止め、欄干に手を乗載せて、あたりを見回している。
 ウォルセフもその隣に並んで、周囲を見回した。

「そうだな。まあ、外の世界の入り口って感じかな?」

 しばらくの間、イオネツはぼんやりと川の流れを見ていたが、ふと、ウォルセフを振り返った。

「……僕ね、ウォルセフのその首飾り、羨ましいなあって思ってたんだ」

 一瞬何を言われたのかと面食らったウォルセフは、自分の首から下がっている革紐の首飾りに視線を落とした。そして、革紐の先についている石を手のひらで握り込む。黒っぽいその石はゴツゴツとして、そしてつやつやと光っていた。

「これか? 高価なものじゃないぜ? ルルヌイ川の周辺でよく取れる石さ。岩の中から切り出して、ちょっとこすってやれば光るんだ。まあ、きれいだからよくアクセサリーにはなるけど、そのへんの土産物屋でだって、嫌ってほど売ってるぜ?」
 
 ウォルセフはそう言うと、手のひらを開いて、その黒光りする石を眺めた。
 
「うん。中洲のお店にも、似たようなアクセサリーは売ってるよ。だけどそれは、そういうものとは違う。その石からは、うっすらとだけど、とってもステキな匂いがするんだ」
「におい?」
「そうだよ。なにか、大切なものなんでしょう? その石には優しさとか、切なさとか……そんな大切な何かが詰まってるんだ」

 ウォルセフはイオネツの言葉を聞くと、その小さな黒っぽい石を、食い入るように見つめた。

「おまえ、本当にすごいな。……これはさ、俺が川岸に捨てられてた時、俺を包んだ布の中に、一緒にあったんだってさ。革紐は取り替えてるけど、石はそん時のまんまなんだ。そっか……。そんな匂いがするんだ……」

 自分が誰かの息子であったのだと知らせるものは、ウォルセフにはもうこれしかない。くるまれていた布は、とっくの昔に使い回され、最後は雑巾にでもなったに違いない。記憶の中にすら、自分の両親はいない。

「それを磨いた人がどんな人だったのかは僕にはわからないけど……。それを磨いている時は、祈りとか、愛しいとか、そういうたくさんの気持ちを込めて磨いたんだろうなあって感じるよ」

 近づいてきたイオネツが、脇からウォルセフの手のひらの中を覗き込んだ。

「そっか……」

 ウォルセフは、胸が詰まってそれ以上の返事ができなかった。

「うん。だから羨ましいなって思ったんだけど……」

 イオネツは後ろを向く。その先には今までイオネツの世界のすべてであったネママイアの島が浮かんでいる。イオネツはそうして、懐から短刀を取り出し、ぎゅうっと胸の前で握りしめた。

「でも、僕には母さんがいたんだなあ……って……」

 イオネツは握りしめた短刀を、自分の胸に強く押し当てた。そして、ネマの島を囲む壁の上から艶麗館を探し出す。一番背の高い立派な建物が、今まで暮らしていた艶麗館だ。
 イオネツは艶麗館を見上げながら、くしゃりと顔を歪ませた。
 ウォルセフは短刀でブツリと切られたイオネツの金の髪に手を伸ばす。とん、と乗せた手を多少乱暴に動かしワシャワシャとかき混ぜると、絹糸のようなそれは、サラサラと音を立てた。
 
「うゎあ!」

 髪の毛をぐしゃぐしゃにされてイオネツが悲鳴を上げる。

「イオネツ! 今日から俺が、おまえの兄貴になる」
「……うん」
「ルルヌイの子は、同じグループの奴らは全員兄弟だからな!」
「……うん」
「まずは、自分のことを僕って呼ぶのをやめろ」
「……え!?」
「俺! 俺だからな! 言ってみろよ」

 イオネツは、目を大きくして、口を数回パクパクとさせた。

「な……なんでそんなこと?」
「ほら、オ・レ!」
「……お、れ……」
「声小さい」
「おれ」
「もっと元気に!」
「俺!」

 ウォルセフは腕組みをして、うんうんと頷いている。

「ま、まずはそれだな。それができてれば他は次第に馴染んでくるだろう。僕なんて言ってたら、バカにされっからな。同じグループなら俺がなんとか抑えられるが、別のグループの奴らに目をつけられると、これが意外と厄介なんだよ。僕なんて言うやつはルルヌイの子にはいないから、目立つんだ」
「うん、わかったよ!」

 行儀の良い返事をするイオネツにウォルセフは「ま、急には無理か……」と、口の中でブツブツとつぶやく。

「そういうときは、オーケー! とかりょーかい、とかかな?」
「りょ、りょーかい?」
「そうそう。いい感じだ」

 そう褒めてやると、イオネツはうれしそうににこりと笑う。 
 その笑顔を見て、ウォルセフは顔を片手で覆ってがっくりとうなだれた。

「言葉遣いくらいじゃあ、追いつかねえなこれ」

 イオネツの姿形はあまりにも目立つだろう。それがルルヌイの子たちの中に、どんな波紋を投げかけていくのか、ウォルセフにも予測はつかない。

「まあ、そん時はそん時だな……」

 口の中でモゴモゴつぶやくウォルセフを、イオネツはキョトンとした表情で見上げている。

「しかたねえ。俺が引き受けたんだもんな。ちゃんと面倒見てやるよ。困ったことがあったらなんでも言えよ?」

 橋の向こうに目をやると、広場にはまだ人影はまばらだったが、何軒かの店では開店の準備が始まっていた。
 日が落ちれば、また開門の儀が始まるのだ。

 橋の隅までやってくると、二人はいったんそこで足を止めた。
 ここまでは、まだネマの島と岸辺の境界だ。
 この橋から一歩踏み出せばイオネツはもう、二度とネマの島の中に住むことはないのだろう。行き来することはできるけれども、タジエナと再び会う日は来るのか来ないのか、今はまだわからない。
 ルルヌイの子がジュンランであるタジエナと面会するなんてことは、普通ならありえないことだし、それ以前におそらくタジエナが、イオネツとは会ってくれないだろう。
 その後神官になったとしても、神官は神霊のお傍で慎ましやかに生きる者たちのことだから、やはりネマの島を訪れることは難しくなるだろう。
 ウォルセフがネママイアの島を振り返る。
 イオネツもまた、河に浮かぶ島に目を向けた。
 しばらくじっと二人はそこに立ち尽くしていた。

「んじゃ行くか?」
「りょーかい!」

 イオネツの答えに、ウォルセフは指で小さな丸を作ってみせた。イオネツは得意げに笑う。

「行こう、イオネツ!」

 二人はくるりと中州に背を向けると、勢いよく玄の橋を蹴り、ルルヌイの岸辺へと飛び出して行った。
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