親子
「そんな、ことが……」
口をパクパクと開閉させながら、ウォルセフは呆然と呟いた。
「私はこのネマの島、艶麗館の遊女、ジュンランです。私が会わないと言えば、イオネツは私に会うことはかないません。エズィエル!」
タジエナが呼ぶと、近くの部屋に控えていたらしい、腰の曲がった下衆が姿を現した。
「あ……! あんた! 昨日手紙持ってきた!」
指をさしたウォルセフに、エズィエルは「昨日はどうも」とペコペコと頭を下げた。
「タジエナ様、何か用かね?」
皆から少しばかり距離を保った場所で、イエズィエルは膝をついた。
「そこの少年を、部屋から出してちょうだい。そして……二度と、この部屋に上げてはいけません!」
タジエナの指の先に、座っているイオネツを見ると、エズィエルは顔色を変えた。
「え? ちょっと待って! 母さん?」
「え? イオネツ様を……ですか?」
慌てたイオネツの声とエズィエルの声が重なった。エズィエルはイオネツとタジエナを見比べると、
「そんなことできるわけねえ!」
ときっぱりと言い切った。
しかし、
「エズィエル! 言うことを聞かないなら、私付きから外れてもらいます!」
というタジエナの言葉に圧倒され、とたんに「……はい」と返事をして、萎れたようにうつむいてしまう。
それでもすぐに動くことはできないようで、自分の下穿きの腿のあたりをもじもじと揉みしだいていた。
「早くなさい!」
と、タジエナの声が追い打ちをかけた。
「え? 嘘でしょ? 母さん? 嘘だよね!」
ようやく我に返り、タジエナの衣装にすがろうとするイオネツを、エズィエルが「申し訳ねえ」とつぶやきながら、担ぎ上げる。
この細く小柄な中年男の、どこにそれほどの力があったのかと思うような怪力で、エズィエルはイオネツを担ぎ上げて、ジタバタしながら喚く彼を、部屋の中から連れ出していく。
◇
「母さん! 母さんってば!」
エズィエルにつまみ出され、それでも諦めきれずに、イオネツは戸をたたきながら母を呼んだ。
内側から心張り棒をかったのだろうか、目の前の戸は固く閉じたまま、まったく開かない。それでも諦めきれずに母を呼び戸を叩いていると、知らずに涙が滲んだ。
「母さん……」
しばらく叫び続け、ついにその場にしゃがみこんでしまう。扉に手をかけながら、力なく、それでも「母さん」と呼びかけた時、かすかな物音がして目の前の戸が開いた。
「母さん!」
イオネツは思わず顔を上げたが、目の前に立っていたのは母ではなく、老女ミラルディだった。
「ついておいで」
しゅんとうつむいてしまったイオネツに、ミラルディは声をかけると、階段を下りていく。
母の部屋の前から立ち去り難て、イオネツはミラルディの背中と、閉じてしまった戸を交互に見ていたが、階段の手前でこちらを振り返ったミラルディと目が合うと、滲んだ涙を腕で乱暴に拭い、立ち上がった。
◇
艶麗館の女主人ミラルディの部屋は、ネマの島のエキゾチックな雰囲気とはガラリと違う内装になっていた。
部屋の中には机と椅子。革張りのソファに大きな一枚板のローテーブル。壁際にはミラルディの仕事のための大きなデスク。デスクの隣には本棚があり、滅多に目にすることのない革の表紙の本が並んでいる。磨き上げられた床板はてろてろと黒光りしていて、開け放たれた窓には硝子が嵌め込まれており、外の景色を少し歪ませていた。窓辺に吊るされたたっぷりとひだを寄せる柔らかな生地のカーテンを、そよ風がふわりと揺らす。
イオネツは硬めのソファにちょこんと腰を掛け、ミラルディ自らが淹れた茶をすすった。
「このお茶にはね、ソンヌの木の葉と、蕾を乾燥させたものが入ってるんだよ」
そう言われると、少しソンヌの花の匂いがするような気もする。ソンヌの木と花は、この艶麗館のシンボルであり、オレンジ色のとても美しい花が咲く。
「気持ちを落ち着けてくれるのさ。お茶は熱いけどね、飲んだ後スッキリするんだよ」
ずずっと一口啜って、イオネツはカップを持った手を膝の上においた。
「さて、どこから話したものか……」
ミラルディはイオネツから少し離れ、大きな机の前におかれた背の高い椅子に腰を掛けると、風にそよぐカーテンの向こうのを見透かすかのようにすうっと目を細めた。
「イオネツ。この島の掟は知ってるだろう? ルルヌイ川の中洲、ネマの島に暮らすの女はこの地から出てはいけないというやつさ」
イオネツはゆっくりと頷く。
「でもね、例外があるんだよ。私は、生まれたときからこの島に住んでいるんだけどね、一度だけ、たった一度だけだけど、この土地を出た事があるんだ」
ミラルディの話に、イオネツはうつむいていた顔を上げた。初めて聞く話だった。
「死霊憑きだよ。この世に未練を残して死んでしまった人間は、あの世に行くこと無く、霊となって魂だけ残ってしまうことがある。その辺を浮遊しているだけなら、そのうちあの世に旅立っていくのだけど、中には人間に取り憑く奴もいて、そのままにしていたら悪霊になっちまうだろう? なにせ大昔、ヒヤシンス国のセンナの街は死霊憑きに破壊されて、このマスカダインからなくなっちまったくらいなんだ。死霊憑きが出たら、掟なんて言ってられないのさ。悪霊と成り果てちまう前に、さっさと神殿に送って、神霊様に浄化してもらわないとね」
「センナの悲劇」と呼ばれる話なら、有名な昔話だ。悪霊となってしまったワノトギが、たった一人で青のヒヤシンス国にある、センナという大きな町を壊滅させてしまったのだそうだ。過去に悪霊が引き起こした災いの中でも、最も大きな災いだといわれている。実はイオネツの名は、その悪霊を退治したアマランス人のワノトギの名前から頂いたのだと、母から聞いたことがある。赤のアマランス国では英雄として伝えられるワノトギだ。彼はもともとロワンザの町に住む、ルルヌイの子だったと伝えられている。
マスカダインに置いて、それほどまでに悪霊というのは恐ろしい。
「あの時私に憑いた死霊は、このネマの島を抜け出そうとして捕まって……鞭打ち百回の罰を受けた後に死んじまった女でさ。あの女は子を産み落としたばかりで、どだい百叩きになんて耐えられそうもなかったんだけど、私が許してやらなかったのさ」
ミラルディは、少しの間目を閉じて、じっとしていた。閉じた瞼の下で、眼球がひくひくと蠢くのがみえて、それからゆっくりと目を開く。
「女は死んで、生まれたばかりの子どもも、あっという間に死んじまった。この世に未練を残した女は私に取り憑いた。死霊憑きとなった私はこのネマの地から放り出されて、迎えに来たワノトギと一緒に初はじめて外の世界を、神霊様のいらっしゃる神殿まで旅をしたのさ」
「それで、それでミラルディはトギ持ち になったの?」
ミラルディは、ゆっくりと頷いた。
「オネイル……、お前さんはなんで私に取り憑いたかねえ。ああ、お前さんはもちろん私を憎んでたんだろうけどさ……」
ミラルディはここにはいない誰かに向かって語りかけている。
ワノトギというのは神霊様に浄化された霊 を、その身に住まわせているのだという。だからミラルディの中にはそのオネイルの霊 が住んでいるのだろう。
「私みたいのは、きっとワノトギになんてなれないって思ってたのさ。あのまま死霊と一緒に浄化されて死んじまっておしまいかな、なんて、旅している間は考えていたね。死霊憑きを示す黒いミミズ腫れも、どんどん体中に広がっていってさ」
ミラルディは自分自身もソンヌの茶を啜った。
「神殿では、死霊を祓うために、神霊様のかけらを身体に取り込むんだ。それから試練を与えられる。そりゃあ恐ろしかったよ。私を恨むあの女の情念が私の中に入り込んできたのさ。それと、自分自身が今までしてきた……忘れてしまいたいような過ちをたんと見せられたね。試練は人それぞれだっていうけど、皆それぞれに見たくないものを見せられるんだろうねえ。私は子を産んだことがないけど、あの時、私に取り憑いたオネイルから、子を持つ親の深さとか、恐ろしさを知ったね。それでさ、浄化されて私から離れてさっさとあの世とやらへ旅立つと思っていたオネイルの霊は、なんと私に取り憑いたまんまでさ。わたしゃ、こんな婆さんなのに、ワノトギとやらになったっていうじゃないか? ワノトギってのはふつうの人間より長生きになるんだそうだよ。もっと若けりゃ嬉しいけどさ。この年であと七十年も生きろって言われても、全く嬉しくはなかったねえ」
ミラルディはもう一度お茶に口をつけた。イオネツはお茶を飲むことも、瞬きをするのも忘れて、ミラルディの次の言葉を待っていた。
「私を神殿まで送り届けてくれたワノトギが、その時言ったんだ。もうネマの島に戻る必要はないんだってね。世界中を、ワノトギとして旅して生きていくこともできるって」
「どうして?……なのにどうしてミラルディは戻ってきたの?」
ミラルディはティーカップをテーブルの上に置き、席を立って窓際まで歩いていくと、カーテンを開き、青い空を見上げた。
「あと七十年の人生。一度はね、ここに戻ってこなけりゃいけないと思ったのさ。あのまま世界へ旅立つには、私はこの地で重たいもんを背負い込みすぎてしまっていたからね。ワノトギであることは少しの間内緒にして、この土地で今まで自分が犯した罪を償わなけりゃと、あの時は心のどっかでそんなふうに思ってたのかもしれないねえ」
ミラルディはカーテンをもとのように閉じると「まだまだ外は暑いねえ」とつぶやいて、イオネツの向かいのソファに深く腰を掛けた。ローテーブルの上に乗っている扇子を開き、ぱたぱたと扇ぎ始める。
「それから少しした頃だったね。お前の母親のタジエナが大きなお腹を抱えてこの中洲へやってきたんだよ」
「大きな? お腹?」
「そう、お前さんだ。しかもねえ、タジエナを連れてきたのは、あの時私が世話になったワノトギだったんだ。お前、自分の母さんはどこの国からやってきたか知ってるかい?」
イオネツはうなずく。自分の出生については、地下牢の中でタジエナから聞かされていた。
「そうかい。母さんから聞いたかい。……ダフォディル。あの国は他の国との付き合いがほとんどない国だからねえ。私も聞いたときは驚いたもんだよ」
金の国ダフォディル。雷の精霊チム=レサ様が治める国。
「お前の母さんは長旅でくたびれていたが、私はすぐにお金持ちのお嬢さんだとわかったよ。物腰も、話し方も、この辺の女たちとは全然違った。読み書きも、まだ十六やそこらだったのに、完璧にできたんだよ。そのお嬢さんが――しかもあんなに別嬪さんだよ。ここまでたどり着くのはどれほど大変だったかと思ったね。しかも、大きなお腹を抱えてさ。それで、私の中に住んでいるオネイル……トギが、タジエナをえらく気に入っちまったのさ。お腹の大きなタジエナに自分自身が生きていた頃を重ねたのかも知れないね。イオネツ、どうしてそんなお嬢さん育ちのタジエナが、ネマの島なんてところまで旅をしてきたと思う?」
イオネツは答えなかった。わかっている。けれども自分からそれを口にすることは、恥ずかしいと感じたのだ。
「お前さんのためだよ。あの子はさ、お腹の中のお前をなかったってことにして、婚約させられそうになったところを、身一つで逃げ出してきたのさ」
「そんなの……しってるよ」
イオネツは、唇を尖らせた。
「それにね、女が子どもを生産むっていうのは結構命がけなんだよ」
そのことだって、イオネツは全く知らないわけではない。
ネマの島に住んでいれば、子どもを産むために命を落とす女を何人も見ることになる。無事に出産をしたとしても、なかなか体調が戻らず、そのまま死んでしまう女だってたくさんいる。
島の子どもは、生まれたときから母親のいない子も少なくない。艶麗館の子どもたちにしたって、テノッサやモニエルのように、母親のいない者が半数近くにものぼるのだ。
「このマスカダインで女一人で生きて行こうとしたら……悲しいことだけど、こんな場所しかないのさ。もちろん、誰かの囲われ者になるという手もある。でもそうしたら、お前さんを第一に考えてやることは難しくなる。タジエナはさ、お前が一人で生きていけるようになるまでお前を守ろうと、必死で生きてきたんだよ。いつかお前が自分の手元から飛び立っていくのを、それだけを支えにしてさ。お前さんはね、あの娘の生きていく意味、そのものだったんじゃないかと思うよ」
「やめてよ、ミラルディ……」
イオネツが声を上げ、ふいっと横を向いた。
「僕……そんなこと頼んでないよ……そんなこと、僕が望んだわけじゃないよ……お母さんだって、自分のために生きればいいじゃないか……」
けれども、そう言ったイオネツの声は小さくしぼんでいった。
「母さんのことは好きかい?」
「好き……だい……好きだよ!」
ミラルディは枯れ枝のように骨ばった指を伸ばし、イオネツの髪を撫でる。
「だったら、どれだけ離れていても、お前さんはタジエナの息子だ。お前たちは、離れていても互いを思いやって生きていくことができるだろう? 会えるか会えないかなんてのは、ほんの些細なことだよ」
ついにイオネツの瞳からは涙が滲み出していた。
「ねえ、イオネツ。どんなに近くにいても、思いやれない親子だってあるんだよ」
そう言うと、ミラルディは席を立つ。そして、ため息にもにた似た笑い声を立てた。
「柄にもない話をしちまったねえ。さて、日が暮れるまではまだ時間がある。よく考えるんだね」
ミラルディは、空になったカップをトレーに乗せると、テーブルの上に突っ伏してしまったイオネツを置いて、そっと部屋を出てい出て行った。
口をパクパクと開閉させながら、ウォルセフは呆然と呟いた。
「私はこのネマの島、艶麗館の遊女、ジュンランです。私が会わないと言えば、イオネツは私に会うことはかないません。エズィエル!」
タジエナが呼ぶと、近くの部屋に控えていたらしい、腰の曲がった下衆が姿を現した。
「あ……! あんた! 昨日手紙持ってきた!」
指をさしたウォルセフに、エズィエルは「昨日はどうも」とペコペコと頭を下げた。
「タジエナ様、何か用かね?」
皆から少しばかり距離を保った場所で、イエズィエルは膝をついた。
「そこの少年を、部屋から出してちょうだい。そして……二度と、この部屋に上げてはいけません!」
タジエナの指の先に、座っているイオネツを見ると、エズィエルは顔色を変えた。
「え? ちょっと待って! 母さん?」
「え? イオネツ様を……ですか?」
慌てたイオネツの声とエズィエルの声が重なった。エズィエルはイオネツとタジエナを見比べると、
「そんなことできるわけねえ!」
ときっぱりと言い切った。
しかし、
「エズィエル! 言うことを聞かないなら、私付きから外れてもらいます!」
というタジエナの言葉に圧倒され、とたんに「……はい」と返事をして、萎れたようにうつむいてしまう。
それでもすぐに動くことはできないようで、自分の下穿きの腿のあたりをもじもじと揉みしだいていた。
「早くなさい!」
と、タジエナの声が追い打ちをかけた。
「え? 嘘でしょ? 母さん? 嘘だよね!」
ようやく我に返り、タジエナの衣装にすがろうとするイオネツを、エズィエルが「申し訳ねえ」とつぶやきながら、担ぎ上げる。
この細く小柄な中年男の、どこにそれほどの力があったのかと思うような怪力で、エズィエルはイオネツを担ぎ上げて、ジタバタしながら喚く彼を、部屋の中から連れ出していく。
◇
「母さん! 母さんってば!」
エズィエルにつまみ出され、それでも諦めきれずに、イオネツは戸をたたきながら母を呼んだ。
内側から心張り棒をかったのだろうか、目の前の戸は固く閉じたまま、まったく開かない。それでも諦めきれずに母を呼び戸を叩いていると、知らずに涙が滲んだ。
「母さん……」
しばらく叫び続け、ついにその場にしゃがみこんでしまう。扉に手をかけながら、力なく、それでも「母さん」と呼びかけた時、かすかな物音がして目の前の戸が開いた。
「母さん!」
イオネツは思わず顔を上げたが、目の前に立っていたのは母ではなく、老女ミラルディだった。
「ついておいで」
しゅんとうつむいてしまったイオネツに、ミラルディは声をかけると、階段を下りていく。
母の部屋の前から立ち去り難て、イオネツはミラルディの背中と、閉じてしまった戸を交互に見ていたが、階段の手前でこちらを振り返ったミラルディと目が合うと、滲んだ涙を腕で乱暴に拭い、立ち上がった。
◇
艶麗館の女主人ミラルディの部屋は、ネマの島のエキゾチックな雰囲気とはガラリと違う内装になっていた。
部屋の中には机と椅子。革張りのソファに大きな一枚板のローテーブル。壁際にはミラルディの仕事のための大きなデスク。デスクの隣には本棚があり、滅多に目にすることのない革の表紙の本が並んでいる。磨き上げられた床板はてろてろと黒光りしていて、開け放たれた窓には硝子が嵌め込まれており、外の景色を少し歪ませていた。窓辺に吊るされたたっぷりとひだを寄せる柔らかな生地のカーテンを、そよ風がふわりと揺らす。
イオネツは硬めのソファにちょこんと腰を掛け、ミラルディ自らが淹れた茶をすすった。
「このお茶にはね、ソンヌの木の葉と、蕾を乾燥させたものが入ってるんだよ」
そう言われると、少しソンヌの花の匂いがするような気もする。ソンヌの木と花は、この艶麗館のシンボルであり、オレンジ色のとても美しい花が咲く。
「気持ちを落ち着けてくれるのさ。お茶は熱いけどね、飲んだ後スッキリするんだよ」
ずずっと一口啜って、イオネツはカップを持った手を膝の上においた。
「さて、どこから話したものか……」
ミラルディはイオネツから少し離れ、大きな机の前におかれた背の高い椅子に腰を掛けると、風にそよぐカーテンの向こうのを見透かすかのようにすうっと目を細めた。
「イオネツ。この島の掟は知ってるだろう? ルルヌイ川の中洲、ネマの島に暮らすの女はこの地から出てはいけないというやつさ」
イオネツはゆっくりと頷く。
「でもね、例外があるんだよ。私は、生まれたときからこの島に住んでいるんだけどね、一度だけ、たった一度だけだけど、この土地を出た事があるんだ」
ミラルディの話に、イオネツはうつむいていた顔を上げた。初めて聞く話だった。
「死霊憑きだよ。この世に未練を残して死んでしまった人間は、あの世に行くこと無く、霊となって魂だけ残ってしまうことがある。その辺を浮遊しているだけなら、そのうちあの世に旅立っていくのだけど、中には人間に取り憑く奴もいて、そのままにしていたら悪霊になっちまうだろう? なにせ大昔、ヒヤシンス国のセンナの街は死霊憑きに破壊されて、このマスカダインからなくなっちまったくらいなんだ。死霊憑きが出たら、掟なんて言ってられないのさ。悪霊と成り果てちまう前に、さっさと神殿に送って、神霊様に浄化してもらわないとね」
「センナの悲劇」と呼ばれる話なら、有名な昔話だ。悪霊となってしまったワノトギが、たった一人で青のヒヤシンス国にある、センナという大きな町を壊滅させてしまったのだそうだ。過去に悪霊が引き起こした災いの中でも、最も大きな災いだといわれている。実はイオネツの名は、その悪霊を退治したアマランス人のワノトギの名前から頂いたのだと、母から聞いたことがある。赤のアマランス国では英雄として伝えられるワノトギだ。彼はもともとロワンザの町に住む、ルルヌイの子だったと伝えられている。
マスカダインに置いて、それほどまでに悪霊というのは恐ろしい。
「あの時私に憑いた死霊は、このネマの島を抜け出そうとして捕まって……鞭打ち百回の罰を受けた後に死んじまった女でさ。あの女は子を産み落としたばかりで、どだい百叩きになんて耐えられそうもなかったんだけど、私が許してやらなかったのさ」
ミラルディは、少しの間目を閉じて、じっとしていた。閉じた瞼の下で、眼球がひくひくと蠢くのがみえて、それからゆっくりと目を開く。
「女は死んで、生まれたばかりの子どもも、あっという間に死んじまった。この世に未練を残した女は私に取り憑いた。死霊憑きとなった私はこのネマの地から放り出されて、迎えに来たワノトギと一緒に初はじめて外の世界を、神霊様のいらっしゃる神殿まで旅をしたのさ」
「それで、それでミラルディは
ミラルディは、ゆっくりと頷いた。
「オネイル……、お前さんはなんで私に取り憑いたかねえ。ああ、お前さんはもちろん私を憎んでたんだろうけどさ……」
ミラルディはここにはいない誰かに向かって語りかけている。
ワノトギというのは神霊様に浄化された
「私みたいのは、きっとワノトギになんてなれないって思ってたのさ。あのまま死霊と一緒に浄化されて死んじまっておしまいかな、なんて、旅している間は考えていたね。死霊憑きを示す黒いミミズ腫れも、どんどん体中に広がっていってさ」
ミラルディは自分自身もソンヌの茶を啜った。
「神殿では、死霊を祓うために、神霊様のかけらを身体に取り込むんだ。それから試練を与えられる。そりゃあ恐ろしかったよ。私を恨むあの女の情念が私の中に入り込んできたのさ。それと、自分自身が今までしてきた……忘れてしまいたいような過ちをたんと見せられたね。試練は人それぞれだっていうけど、皆それぞれに見たくないものを見せられるんだろうねえ。私は子を産んだことがないけど、あの時、私に取り憑いたオネイルから、子を持つ親の深さとか、恐ろしさを知ったね。それでさ、浄化されて私から離れてさっさとあの世とやらへ旅立つと思っていたオネイルの霊は、なんと私に取り憑いたまんまでさ。わたしゃ、こんな婆さんなのに、ワノトギとやらになったっていうじゃないか? ワノトギってのはふつうの人間より長生きになるんだそうだよ。もっと若けりゃ嬉しいけどさ。この年であと七十年も生きろって言われても、全く嬉しくはなかったねえ」
ミラルディはもう一度お茶に口をつけた。イオネツはお茶を飲むことも、瞬きをするのも忘れて、ミラルディの次の言葉を待っていた。
「私を神殿まで送り届けてくれたワノトギが、その時言ったんだ。もうネマの島に戻る必要はないんだってね。世界中を、ワノトギとして旅して生きていくこともできるって」
「どうして?……なのにどうしてミラルディは戻ってきたの?」
ミラルディはティーカップをテーブルの上に置き、席を立って窓際まで歩いていくと、カーテンを開き、青い空を見上げた。
「あと七十年の人生。一度はね、ここに戻ってこなけりゃいけないと思ったのさ。あのまま世界へ旅立つには、私はこの地で重たいもんを背負い込みすぎてしまっていたからね。ワノトギであることは少しの間内緒にして、この土地で今まで自分が犯した罪を償わなけりゃと、あの時は心のどっかでそんなふうに思ってたのかもしれないねえ」
ミラルディはカーテンをもとのように閉じると「まだまだ外は暑いねえ」とつぶやいて、イオネツの向かいのソファに深く腰を掛けた。ローテーブルの上に乗っている扇子を開き、ぱたぱたと扇ぎ始める。
「それから少しした頃だったね。お前の母親のタジエナが大きなお腹を抱えてこの中洲へやってきたんだよ」
「大きな? お腹?」
「そう、お前さんだ。しかもねえ、タジエナを連れてきたのは、あの時私が世話になったワノトギだったんだ。お前、自分の母さんはどこの国からやってきたか知ってるかい?」
イオネツはうなずく。自分の出生については、地下牢の中でタジエナから聞かされていた。
「そうかい。母さんから聞いたかい。……ダフォディル。あの国は他の国との付き合いがほとんどない国だからねえ。私も聞いたときは驚いたもんだよ」
金の国ダフォディル。雷の精霊チム=レサ様が治める国。
「お前の母さんは長旅でくたびれていたが、私はすぐにお金持ちのお嬢さんだとわかったよ。物腰も、話し方も、この辺の女たちとは全然違った。読み書きも、まだ十六やそこらだったのに、完璧にできたんだよ。そのお嬢さんが――しかもあんなに別嬪さんだよ。ここまでたどり着くのはどれほど大変だったかと思ったね。しかも、大きなお腹を抱えてさ。それで、私の中に住んでいるオネイル……トギが、タジエナをえらく気に入っちまったのさ。お腹の大きなタジエナに自分自身が生きていた頃を重ねたのかも知れないね。イオネツ、どうしてそんなお嬢さん育ちのタジエナが、ネマの島なんてところまで旅をしてきたと思う?」
イオネツは答えなかった。わかっている。けれども自分からそれを口にすることは、恥ずかしいと感じたのだ。
「お前さんのためだよ。あの子はさ、お腹の中のお前をなかったってことにして、婚約させられそうになったところを、身一つで逃げ出してきたのさ」
「そんなの……しってるよ」
イオネツは、唇を尖らせた。
「それにね、女が子どもを生産むっていうのは結構命がけなんだよ」
そのことだって、イオネツは全く知らないわけではない。
ネマの島に住んでいれば、子どもを産むために命を落とす女を何人も見ることになる。無事に出産をしたとしても、なかなか体調が戻らず、そのまま死んでしまう女だってたくさんいる。
島の子どもは、生まれたときから母親のいない子も少なくない。艶麗館の子どもたちにしたって、テノッサやモニエルのように、母親のいない者が半数近くにものぼるのだ。
「このマスカダインで女一人で生きて行こうとしたら……悲しいことだけど、こんな場所しかないのさ。もちろん、誰かの囲われ者になるという手もある。でもそうしたら、お前さんを第一に考えてやることは難しくなる。タジエナはさ、お前が一人で生きていけるようになるまでお前を守ろうと、必死で生きてきたんだよ。いつかお前が自分の手元から飛び立っていくのを、それだけを支えにしてさ。お前さんはね、あの娘の生きていく意味、そのものだったんじゃないかと思うよ」
「やめてよ、ミラルディ……」
イオネツが声を上げ、ふいっと横を向いた。
「僕……そんなこと頼んでないよ……そんなこと、僕が望んだわけじゃないよ……お母さんだって、自分のために生きればいいじゃないか……」
けれども、そう言ったイオネツの声は小さくしぼんでいった。
「母さんのことは好きかい?」
「好き……だい……好きだよ!」
ミラルディは枯れ枝のように骨ばった指を伸ばし、イオネツの髪を撫でる。
「だったら、どれだけ離れていても、お前さんはタジエナの息子だ。お前たちは、離れていても互いを思いやって生きていくことができるだろう? 会えるか会えないかなんてのは、ほんの些細なことだよ」
ついにイオネツの瞳からは涙が滲み出していた。
「ねえ、イオネツ。どんなに近くにいても、思いやれない親子だってあるんだよ」
そう言うと、ミラルディは席を立つ。そして、ため息にもにた似た笑い声を立てた。
「柄にもない話をしちまったねえ。さて、日が暮れるまではまだ時間がある。よく考えるんだね」
ミラルディは、空になったカップをトレーに乗せると、テーブルの上に突っ伏してしまったイオネツを置いて、そっと部屋を出てい出て行った。