真実
艶麗館はネマの島の中でも、一二を争う大きな妓楼である。単に建物が大きいということではない。格式も高く、常連客からの紹介がなければ、一見の客などは入ることすらできないのである。
通りに面した本館は五層になっており、ネマの島の中でも随一の高さを誇る。
また本館一層から続く、曲がりくねった渡り廊下からは、四季折々の花々で彩られた美しい庭園を眺めることができた。中洲という限られた土地に建つ妓楼は、皆ひしめくように上へ上へと伸びている。庭を持つということは、それだけで高級妓楼である証となるのだった。
そしてこの、美しい中庭を通る渡り廊下の先には、二層からなる別館があり、その別館もたいそう贅を尽くしたつくりとなっていた。
それらが艶麗館の格式を押し上げることによって、更に上客が集まってくる。
別館の第一層には女主人ミラルディの住居と、最上級の客をもてなすための客室、第二層には風雅の間と名付けられた大広間がある。風雅の間は、特別な客のみを集め、謡 や舞が披露されるための部屋で、大掛かりな舞台を設 えることも可能であった。
別館を利用する客がある場合には人払いがなされ、奥へと伸びる渡り廊下には見張りが立ち、使用人や一般の客の出入りは差し止められる。
しかし特別な客のない日は、多くの下衆や使い女が行き来をしていた。子どもたちもこの別館の清掃が仕事になっており、ミラルディの部屋もあるために、思った以上に人の出入りが激しい場所なのである。
夜が明け、陽の光が差し込む中庭は、今日は珍しくひっそりとしている。
これから特別な客を迎えるために、限られた者を残し、使用人たちは別館への立ち入りが禁じられたのだ。
夜ではない時間帯に客がこの別館を訪れることなど、いまだかつてないことである。常にない事態に、艶麗館の館内は、どこかそわそわと落ち着かない雰囲気で満ちていた。
「お着きでございます」「お着きでございます」「お着きでございます」
来客を告げる遊女の声が艶麗館の入り口から別館まで、広がっていく。
供の者四名を引き連れて艶麗館に現れたのは、ロワンザ北町に本店を構えるヴェイア硝子店の店主、ウィメル=エシャル=ヴェイア=エル=ヴェイアという年老いた男であった。いやに長い名前だが、ヴェイア出身のヴェイア店のウィメルと言うような意味合いだ。
この日ウィメルは、艶麗館に遊興のために訪れたのではなく、タジエナ・ジュンランの息子イオネツを使用人として引き受け、自分の店に連れ帰るための来訪であった。その為ウィメルには本日限りの特別な許可証がネマの島内の大きな妓楼の店主たちによる組合から出されていて、時間外であっても、島への出入りができるようになっていた。
刻の門が閉じる時間を告げる鐘が島中に響き渡った時、ちょうど館の前に止まった人力車から、ウィメルが降り立った。
「いらっしゃいませ、ウィメル様」
「お待ち申し上げておりました」
「ささ、どうぞこちらに」
女たちがウィメルを館の中へと案内する。
「お付きの方々は、どうぞ……こちらへ」
柔らかな薄布に身を包んだ女に促され、供の男たちは本館の広間へ、ウィメルは別館へと続く渡り廊下へと案内された。
渡り廊下を歩くウィメルが足を止める。昨日降った雨に洗われ、鮮やかさを増した庭に思わず目を奪われたのだ。
朝早くから立ち込めていた靄 は、日が高くなるにつれ消えていき、今はしっとりとした緑の木々や赤や白の花々に、太陽の光が眩しく降り注いでいる。
目を細め庭を眺めるウィメルに、背後から高音の嗄れた声がかかった。
「ウィメル様、本日はわざわざのお越し、まことに痛み入ります」
その声に反応し、ウィメルがおもむろに振り返ると、そこには艶麗館の女主人ミラルディが、顔を伏せて控えていた。本当ならうやうやしく腰を折っているところなのだろうが、何しろミラルディの腰は、最初から曲がっており、杖を手にしている。
ウィメルはミラルディの姿を認めると、そのツルリとした頭をなでながら笑顔を浮かべた。
「いや、光差すこの美しい庭園を眺めることができただけで、来たかいがあるというものですよ。常ならば、この時間に私がこの場所に立っていることはできないのですからな。いつも訪れるのは夜ばかりであったが……素晴らしい庭ですな」
「ありがとうございます。小さな庭ではございますが、ウィメル様に褒めていただけるとは、恐悦に存じます」
「あの花は、なんというのだったかな……」
庭の中央に立つ支柱に蔦を絡め、こぼれんばかりのオレンジの花を咲かせる一本の木にウィメルは顔を向けた。
「ああ、ちょうど良い時期に来てくださいました。あれはソンヌの木と申しまして、この艶麗館のシンボルでございます。私の正式名はミラルディ=エシャ=ソンヌと申します。あの美しい花と同じ名前など、お恥ずかしいのですけれど」
「いやあ、おなたのお若い頃はそれはそれは美しかったではありませんか。美しくて、気風が良くて、伝説のジュンランでいらっしゃいました。私どもにとっては、 憧れでしたよ」
ミラルディは笑い声を上げた。
二人は談笑しながら別館へと渡っていく。
別館、特別室の扉の前には、タジエナがウィメルを迎えるために待ち構えていた。
「タジエナ、今日は楽しみにしていたよ」
開いた扉から部屋へ入っていくウィメルに、タジエナはわずかに膝を折り、目線を落として挨拶をした。
ウィメルが特別室へと入ると、茶や菓子の乗った盆を、女達が運ぶ。その様子を確認したタジエナとミラルディは、部屋の中へは入らずに特別室の扉を閉めた。
「タジエナ」
閉じた特別室の扉の前で、ミラルディはタジエナに声をかける。中にいるウィメルに聞こえないようにと言う配慮であろう、ほとんど唇を動かさず、ため息のような声だった。
「ルルヌイの子は、来なかった。間に合わなかったのかもしれない、でも、今この場にはいない」
ミラルディは一呼吸置いて、タジエナの目を見据える。
「お前さんの、望んだ通りで、いいんだね?」
その言葉に、タジエナはただ一度、こっくりとうなづいた。
タジエナの決意を見届けると、ミラルディは別室の扉を大きく開ける。
部屋の上座で、ウィメルはゆったりと椅子に腰を掛け、茶をすすっているところだった。
ウィメルの前まで進み出たミラルディは、膝をつく。膝の前に両手を揃えると、頭を垂れた。
「どうしたのだね、ずいぶんとあらたまって……」
頭の上でカチャリとカップを置く音がした。
「大変申し訳ございません。イオネツは、今ここに来ることができないのでございます」
そう言うと、ミラルディは床に額を擦り付ける。遅れてきたタジエナも、ミラルディの隣で、それに倣った。
「顔を、上げてくださらんか」
しばらくの沈黙の後、ウィメルが二人に声をかけた。
上目遣いでそっと見上げると、そこには何かを見定めるように目を細めてこちらを見下ろすウィメルの顔があった。すっと薄く開かれた目がこちらをひたと見つめている。
ミラルディの背を冷や汗が伝った。
「イオネツは、今、地下牢に入っております」
ミラルディはそこで一旦ウィメルの反応を待ったが、返ってきたのは沈黙で、その表情にはいささかの変化も表れてはいない。
そこでミラルディは言葉を続けた。
「先日私の所持する指輪が盗まれてしまい、荷改めを行ったのでございます。その際に、イオネツの所持品からイオヴェズの火……その指輪が発見されたのです。イオネツの無実が証明されなければ、彼は地下牢から出ることはできませぬ。ここまでご足労頂き、本当に申し訳なく思っているのですが、これは曲げることのできぬ私共のしきたりでございます」
「イオネツは!」
ミラルディの声を遮るようにタジエナの声が響いた。
「イオネツはそのようなことをする子ではございません。彼の無実は証明されます」
「控えよタジエナ」
ミラルディの叱咤がタジエナを制した。
タジエナは顔を伏せ、またもや沈黙が訪れる。
その時、沈黙の中にざわめきが聞こえた。本館の方から聞こえる人々の声や走り回る音や怒声が、特別室のなかの静けさを乱す。
ミラルディは身を起こし、耳をそばだてた。
パタパタと走り回るような音。
言い合いをするような声が次第に近づいてくる。
タジエナの青い瞳は、きらきらと輝きながら入り口の扉を見つめていた。
「困ります! タジエナでしたらこちらで呼びに行きますので、どうか、本館でお待ち下さい!」
女の甲高い声は、もうはっきりと聞き取ることができる。
「それじゃ、間に合わねえだろ! 特別室ってのは、ここか!」
聞いたことのない若い男の声が、扉のすぐ向こうから聞こえた。
通りに面した本館は五層になっており、ネマの島の中でも随一の高さを誇る。
また本館一層から続く、曲がりくねった渡り廊下からは、四季折々の花々で彩られた美しい庭園を眺めることができた。中洲という限られた土地に建つ妓楼は、皆ひしめくように上へ上へと伸びている。庭を持つということは、それだけで高級妓楼である証となるのだった。
そしてこの、美しい中庭を通る渡り廊下の先には、二層からなる別館があり、その別館もたいそう贅を尽くしたつくりとなっていた。
それらが艶麗館の格式を押し上げることによって、更に上客が集まってくる。
別館の第一層には女主人ミラルディの住居と、最上級の客をもてなすための客室、第二層には風雅の間と名付けられた大広間がある。風雅の間は、特別な客のみを集め、
別館を利用する客がある場合には人払いがなされ、奥へと伸びる渡り廊下には見張りが立ち、使用人や一般の客の出入りは差し止められる。
しかし特別な客のない日は、多くの下衆や使い女が行き来をしていた。子どもたちもこの別館の清掃が仕事になっており、ミラルディの部屋もあるために、思った以上に人の出入りが激しい場所なのである。
夜が明け、陽の光が差し込む中庭は、今日は珍しくひっそりとしている。
これから特別な客を迎えるために、限られた者を残し、使用人たちは別館への立ち入りが禁じられたのだ。
夜ではない時間帯に客がこの別館を訪れることなど、いまだかつてないことである。常にない事態に、艶麗館の館内は、どこかそわそわと落ち着かない雰囲気で満ちていた。
「お着きでございます」「お着きでございます」「お着きでございます」
来客を告げる遊女の声が艶麗館の入り口から別館まで、広がっていく。
供の者四名を引き連れて艶麗館に現れたのは、ロワンザ北町に本店を構えるヴェイア硝子店の店主、ウィメル=エシャル=ヴェイア=エル=ヴェイアという年老いた男であった。いやに長い名前だが、ヴェイア出身のヴェイア店のウィメルと言うような意味合いだ。
この日ウィメルは、艶麗館に遊興のために訪れたのではなく、タジエナ・ジュンランの息子イオネツを使用人として引き受け、自分の店に連れ帰るための来訪であった。その為ウィメルには本日限りの特別な許可証がネマの島内の大きな妓楼の店主たちによる組合から出されていて、時間外であっても、島への出入りができるようになっていた。
刻の門が閉じる時間を告げる鐘が島中に響き渡った時、ちょうど館の前に止まった人力車から、ウィメルが降り立った。
「いらっしゃいませ、ウィメル様」
「お待ち申し上げておりました」
「ささ、どうぞこちらに」
女たちがウィメルを館の中へと案内する。
「お付きの方々は、どうぞ……こちらへ」
柔らかな薄布に身を包んだ女に促され、供の男たちは本館の広間へ、ウィメルは別館へと続く渡り廊下へと案内された。
渡り廊下を歩くウィメルが足を止める。昨日降った雨に洗われ、鮮やかさを増した庭に思わず目を奪われたのだ。
朝早くから立ち込めていた
目を細め庭を眺めるウィメルに、背後から高音の嗄れた声がかかった。
「ウィメル様、本日はわざわざのお越し、まことに痛み入ります」
その声に反応し、ウィメルがおもむろに振り返ると、そこには艶麗館の女主人ミラルディが、顔を伏せて控えていた。本当ならうやうやしく腰を折っているところなのだろうが、何しろミラルディの腰は、最初から曲がっており、杖を手にしている。
ウィメルはミラルディの姿を認めると、そのツルリとした頭をなでながら笑顔を浮かべた。
「いや、光差すこの美しい庭園を眺めることができただけで、来たかいがあるというものですよ。常ならば、この時間に私がこの場所に立っていることはできないのですからな。いつも訪れるのは夜ばかりであったが……素晴らしい庭ですな」
「ありがとうございます。小さな庭ではございますが、ウィメル様に褒めていただけるとは、恐悦に存じます」
「あの花は、なんというのだったかな……」
庭の中央に立つ支柱に蔦を絡め、こぼれんばかりのオレンジの花を咲かせる一本の木にウィメルは顔を向けた。
「ああ、ちょうど良い時期に来てくださいました。あれはソンヌの木と申しまして、この艶麗館のシンボルでございます。私の正式名はミラルディ=エシャ=ソンヌと申します。あの美しい花と同じ名前など、お恥ずかしいのですけれど」
「いやあ、おなたのお若い頃はそれはそれは美しかったではありませんか。美しくて、気風が良くて、伝説のジュンランでいらっしゃいました。私どもにとっては、 憧れでしたよ」
ミラルディは笑い声を上げた。
二人は談笑しながら別館へと渡っていく。
別館、特別室の扉の前には、タジエナがウィメルを迎えるために待ち構えていた。
「タジエナ、今日は楽しみにしていたよ」
開いた扉から部屋へ入っていくウィメルに、タジエナはわずかに膝を折り、目線を落として挨拶をした。
ウィメルが特別室へと入ると、茶や菓子の乗った盆を、女達が運ぶ。その様子を確認したタジエナとミラルディは、部屋の中へは入らずに特別室の扉を閉めた。
「タジエナ」
閉じた特別室の扉の前で、ミラルディはタジエナに声をかける。中にいるウィメルに聞こえないようにと言う配慮であろう、ほとんど唇を動かさず、ため息のような声だった。
「ルルヌイの子は、来なかった。間に合わなかったのかもしれない、でも、今この場にはいない」
ミラルディは一呼吸置いて、タジエナの目を見据える。
「お前さんの、望んだ通りで、いいんだね?」
その言葉に、タジエナはただ一度、こっくりとうなづいた。
タジエナの決意を見届けると、ミラルディは別室の扉を大きく開ける。
部屋の上座で、ウィメルはゆったりと椅子に腰を掛け、茶をすすっているところだった。
ウィメルの前まで進み出たミラルディは、膝をつく。膝の前に両手を揃えると、頭を垂れた。
「どうしたのだね、ずいぶんとあらたまって……」
頭の上でカチャリとカップを置く音がした。
「大変申し訳ございません。イオネツは、今ここに来ることができないのでございます」
そう言うと、ミラルディは床に額を擦り付ける。遅れてきたタジエナも、ミラルディの隣で、それに倣った。
「顔を、上げてくださらんか」
しばらくの沈黙の後、ウィメルが二人に声をかけた。
上目遣いでそっと見上げると、そこには何かを見定めるように目を細めてこちらを見下ろすウィメルの顔があった。すっと薄く開かれた目がこちらをひたと見つめている。
ミラルディの背を冷や汗が伝った。
「イオネツは、今、地下牢に入っております」
ミラルディはそこで一旦ウィメルの反応を待ったが、返ってきたのは沈黙で、その表情にはいささかの変化も表れてはいない。
そこでミラルディは言葉を続けた。
「先日私の所持する指輪が盗まれてしまい、荷改めを行ったのでございます。その際に、イオネツの所持品からイオヴェズの火……その指輪が発見されたのです。イオネツの無実が証明されなければ、彼は地下牢から出ることはできませぬ。ここまでご足労頂き、本当に申し訳なく思っているのですが、これは曲げることのできぬ私共のしきたりでございます」
「イオネツは!」
ミラルディの声を遮るようにタジエナの声が響いた。
「イオネツはそのようなことをする子ではございません。彼の無実は証明されます」
「控えよタジエナ」
ミラルディの叱咤がタジエナを制した。
タジエナは顔を伏せ、またもや沈黙が訪れる。
その時、沈黙の中にざわめきが聞こえた。本館の方から聞こえる人々の声や走り回る音や怒声が、特別室のなかの静けさを乱す。
ミラルディは身を起こし、耳をそばだてた。
パタパタと走り回るような音。
言い合いをするような声が次第に近づいてくる。
タジエナの青い瞳は、きらきらと輝きながら入り口の扉を見つめていた。
「困ります! タジエナでしたらこちらで呼びに行きますので、どうか、本館でお待ち下さい!」
女の甲高い声は、もうはっきりと聞き取ることができる。
「それじゃ、間に合わねえだろ! 特別室ってのは、ここか!」
聞いたことのない若い男の声が、扉のすぐ向こうから聞こえた。