黄昏恋々
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………敢えて口付けはしなかった。
それは彼女がいっとう惚れた相手が現れた際に、そいつとするべきだと考えたからだ。
己の身勝手な欲望で、簡単に奪っていいものではない。
その代わりに印をつけた。
たとえ仮初の印だとしても、満足だった。
あの一瞬だけでも、彼女が自分のものになった気がしたから。
だがそれも、ニ、三日もすればいずれ消えるだろう。
彼女の記憶と共にーー
カタン……と微かな物音がして、そちらに目を向けると、そこには一人の青年が静かに佇んでいた。
艷やかな長い黒髪を首の後ろで一つに束ねた涼しげな美貌の青年ーー彼の名は冨岡義勇。
実紅のもう一人の兄弟子であり、錆兎の親友とも呼べる男だ。
だらしなく壁に凭れる錆兎を見て、平生の彼では考えられない姿に義勇は一瞬顔を顰めた。
が、すぐにいつものポーカーフェイスに戻ると、スッと音もなく襖を締めて、錆兎の対面に静かに正座した。
「実紅は今、俺の屋敷にいる」
「ああ。………分かった」
「迎えに来ないのか」
「………………」
錆兎が口を閉ざすと、義勇もまた同じように口を閉ざす。
当然のように沈黙が漂い、このまま此方が喋らなければ、この男もまた永遠に口を開かないであろう事を察して、仕方なく錆兎の方から話し始めた。
「何があったか訊かないんだな……」
「必要ない」
状況から大体の察しはつくのだろう。昔から義勇は勘が鋭かった。
ずっと抑え込んでいた錆兎の想いさえ、この男は見抜いていたのだから。
「怒らないのか?」
「何故だ」
「俺は実紅を傷付けた」
「………………」
義勇はいったん口を閉ざすと、逡巡する様子を見せた。
平生は寡黙なこの男が、今懸命に何かを伝えようとしている。
錆兎は真剣に耳を傾けた。
「錆兎は昔から実紅に惚れていたから」
「………………」
「それを今まで無理矢理抑え込んでいただろう。そんな事を続けていれば、限界が来るのは当然の事だ。だが……、だからといって実紅を傷付けていい理由にはならない」
「……ああ」
そうだな、と言いかけた所で、さらに義勇が言葉を次いだ。
「だからこそ、謝らないのか?」
今さらだ、と錆兎は自嘲気味に方頬を歪めて笑った。
………だが。
「俺は……お前達が仲違いをしているのは悲しい」
それは思ってもみない言葉だった。思わず義勇の方を向けば、僅かばかり眉を下げて少しだけ、本当に少しだけだか悲しそうな顔をした親友の姿に、久々に昔の面影を見て。
「ははっ……」
気が付けば。
「はははははははは!」
考えてみればいつ振りだろうか。こんな風に腹の底から笑ったのは。
「何が可笑しい?」
遺憾そうにぶすくれる義勇(もっとも、親しい間柄でなければ気付かない程の僅かな表情の変化だが)に、錆兎は。
「有り難うな、義勇」
「?」
「実紅ときちんと話をする」
「………そうか」
安心したように微笑む義勇へ錆兎も微笑み返す。
こんなに晴れやかな気分になれたのは、久方ぶりだった。