CRY FOR THE MOON〈序、1、2、3〉
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ーー4、触れられない花の輪郭
三学期も終わりに差し掛かった頃、たまたま今日が日直であった雪桜は二時限目の美術に向けて準備室にいた。
今日の授業は静物画だ。スケッチ用の果物の模型を人数分用意して、先生に渡さなければいけない。
雪桜が模型の収納された戸棚に手を伸ばした、その瞬間。
戸棚の硝子に映る自らの姿に釘付けになった。
まず目についたのは、驚くほどに血の気のない白い肌。何かを憂うような伏目がちの黒い瞳。
自身のレイヤーの入ったロングヘアとは違う、肩の辺りで切り揃えただけの飾り気のない髪型。
服装も違う。ごくシンプルな軍服のような黒い服に真っ白な羽織。
どこまでも白と黒のコントラスト。そんな中で、唇だけがやけに赫くて目を引く。
硝子の中に映っているのは雪桜自身のはずなのに、違うーー否。
これは自分だ。紛れもなく自分自身だ。
ふいにそんな確信が心を満たして、雪桜は知らず戸棚の硝子へと手をのばしていた。
同じように硝子の中の自分も此方へ向かって手を伸ばす。
やがて硝子越しに手が触れ合う。
硝子の中、伏目がちだった瞳が此方を向いた。
その瞬間目の前がじわっと水で滲んだような錯覚に襲われて、突然脳に溢れた膨大な量の映像。
直接鼓膜を殴りつけるような幾重にも重なる音の群れ。
雪桜は理解する。これは“記憶”だ。およそ百年前の、自身の記憶。
突如溢れた膨大な情報量に脳の処理が追いつかず、雪桜はそのまま意識を手放した。
⋯⋯どうして忘れていたんだろう。大切なことだったのに。
決して消えないあの日の“罪”を、忘れてはいけなかったのに。
伏せた睫毛の隙間から、白い頬を涙が伝った。
それを優しく拭ってくれる指先の感触に、雪桜はふわりと薄い瞼を持ち上げる。
「雪桜⋯⋯」
ほっとした顔で此方を見つめているのは、予想通りの人で。
透き通った淡い碧色の瞳にぼんやりとした雪桜の顔が映り込んでいた。
「よかった。君が急に倒れたって報せが入って」
「⋯⋯⋯⋯」
「偶然通りかかった冨岡先生が、君を
「⋯⋯そう、なんですね⋯⋯」
「僕としては少し妬けるけどね」
「ごめんなさい」
「雪桜は悪くないよ。あとでお礼を言いに行こう」
二人でね、と悪戯っぽく微笑う無一郎。その笑顔に酷く安堵して、雪桜もまた微笑を返した。
「無一郎様」
雪桜がそう呼ぶと、無一郎がハッと息を詰めた。
淡い碧色の瞳は見開かれ、ひたりと此方を見据えている。
「思い出したんです。全部」
「⋯⋯⋯⋯。そう」
少し間をおいて、無一郎がそう言った。
⋯⋯かと思った瞬間突然、視界が回った。
そうして気がついた時には、無一郎に組み敷かれていた。
「⋯⋯無一郎様?」
天井を背に此方を見下ろす無一郎の瞳は、冷たく昏く沈んでいた。
酷く冷めた表情。今迄の“優しい先輩”の姿は、何処にもなかった。
「ずっと君に訊きたいことがあったんだ」
視線の強さに耐えかねて、身じろぐが、雪桜の両の手首は身体の横で押さえつけられて、身動きが取れない。
藻掻けば藻掻くほどギリっときつく締まって、雪桜は仕方なく抵抗を諦めた。
「ねぇ、君はーー
少し骨張った長い指が、ゆっくりと雪桜の頬を掠めるように撫でる。
「僕は君のためなら全てを捨てる覚悟だった。それなのにーー」
無一郎の口調は抑揚に欠けるのに、声だけ異様な熱を帯びていく。
「だから僕は、ずっと⋯⋯君を憎んでた」