第五話 困惑
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時間は一昨日の晩に遡る。
唇と唇の触れ合う感触がやけに生々しくて、キスをされたという事実が実感を伴って脳に伝達されて。
沙羅は必死に藻掻いた。傷のせいで発熱しているらしく、意識が朦朧としているのか意外なほどにあっさりと手が離れ、沙羅はその場に尻餅をつく形で逃れる事に成功した。
それでも、熱に浮かされた淡い碧色の瞳が沙羅を捉える。
蒼白い月灯りが片頬に影を落とすと、平生の少年ぽさが抜け、骨張った男らしい雰囲気を作る。
「……沙羅」
それが何とも言い難い色香を伴って、尚も手を伸ばして来るのだ。
ゾクッ……。怖くなった沙羅は、走って病室を後にした。
翌日。無一郎の病室の前で立ち往生していると、中から何やら話し声が聞こえてきた。
母親の声と、無一郎の声だった。
「あの子の好物は、鯵南蛮ですよー。それと茶碗蒸し」
「ふろふき大根じゃないの?」
「ふろふき大根は、作るのが好きなのかしら?」
「よく作るから、好きなのかと思ってた……」
「ふふふ。鯵南蛮ですよー。覚えててあげて下さいね?」
「うん」
またあの人は余計な事を……。
室外でギリィと歯軋りをする沙羅の存在など知る由もない母親は、「それではお大事にー」とにこやかに病室を後にする。
だが、病室を出て廊下の角を曲がった瞬間、
「!!」
ドス黒いオーラを立ち昇らせた般若(の形相をした沙羅)に出くわして盛大にビクついて、うっかり冷水で満たされた洗面器を取り落としそうになっていた。
「………沙羅ちゃん?なぜそんな怖い顔をしているの?」
「威嚇に決まってるでしょ」
「威嚇?なぜかしら?」
「とぼけないで」
「ええー?」
「お久しぶり。……ミュリエルちゃん」
「あらー……」
罰が悪そうに苦笑したかと思うと、
「バレちゃった?」
両の頰に人差し指を宛てにっこりおとぼけスマイルでお母様(INミュリエルちゃん)。
沙羅は深い溜め息をついた。
彼女は時々こうして転生先に現れては、身近な人間に憑依して推しに余計な事を吹き込んだり、煽ったりするのだ。
今度は一体どんな余計な真似をしてくれたのやら。
そういえば昨日推しに、
「キスされたんだけど」
「え?」
沙羅の言葉にミュリエルちゃんが一瞬嬉しそうに目を輝かせたのが癪に障り、
「キスされたんだけど?」
「そ、それは私のせいではありませんよ〜ぅ」
今度はこれ以上ないドアップで(しかも血走った瞳で)告げてやると、漸く少しばかり焦りを見せ始めたので、怒りを納めてあげる事にした沙羅だった。
「ほんとぉーに、ミュリエルちゃんの差金じゃないのね?」
「違いますぅ。今回、私はただ貴女の本当の好物を教えて差し上げただけですぅ」
ふぅ、と溜め息を一つ。では、一体何であんな事……。考え倦ねていると、
「やぁやぁ主殿の様子はどうかな?」
今度は父親が現れた。またややこしい人が……。
「大丈夫ですよ」
母親(INミュリエルちゃん)が助け舟を出してくれる。
「そうかそうか。それは安心じゃな。して、キッスとは何ぞ?」
まるで新しい言葉を覚えたがる小学生男児のようなキラキラした眼差しで尋ねて来るのである。
沙羅と母親(INミュリエルちゃん)は神妙な顔でうなずき合った。
「さぁさぁ、お父様。沙羅ちゃんと主殿を二人きりにして差し上げましょうねー」
「うむ、それもそうじゃな。して、キッスとは何ぞ?」
「さぁさぁ、向こうでお話しましょうねー」
ずるずると背中を押されながら遠ざかっていく父親と、母親の後姿を見送る沙羅は、14歳にして既に人生に疲れた顔をしていた。