Episode1 たぶん、初恋だった。

 真夏の太陽の日が差し込む教室。四限目、数学の授業中でのことである。

 俺は周囲のクラスメイト達がおしゃべりに興じる中、一人至極真面目な表情《かお》をして教科書とノートを開き、いかにもちゃんと授業を聞いてます風な態度を装っていた。

 授業は簡単過ぎるくらい簡単。何せ偏差値44の高校。入試トップで入学した俺。それでも真面目な態度で優等生でいるのは、全ては志望する大学への内申点を稼ぐ為だ。

「今日は八日だから出席番号でいくか。光月七海! 前に出て解いてみろ」
「げっ!」

 あてられたのは、クラスでもはっきりとお馬鹿で通っている、俺の隣の席に座る、顔の可愛い女子。その可愛さが他校の生徒にまで知れ渡っていることで有名な、光月七海《こうづきななみ》だ。興味はないし別段詳しくもないが、その類稀なる容姿と誰に対しても屈託ないあどけない笑顔を魅せるその振る舞い方を見ている限りは、芸能界によく居るアイドルにでも簡単になれそうな気がする。

 ちなみに俺は、彼女と話した事など一度もない。

「ななみん頑張れ〜」
「七海ふぁいとー!」

 同じ様にお馬鹿が目立つグループに所属する、少々顔が良いだけの彼女の友達からの声援。そしてさっきまで授業そっちのけでベラベラ駄弁っていた男子達が一瞬で話を止め、彼女の方を振り向く。同じ男として露骨過ぎる。そう、光月七海はモテている。どこがそんなにいいんだよ。学校にファンクラブがあるって本当だったんだ。昭和かよ。

「うー、解りません……」

 光月七海は黒板の前でチョークを握りしめたまま、えーと、うーんと、と中々答えを導き出せないでいる。勉強嫌いなのかな。

「おいおい光月〜、ここは先週教えたばかりだぞ〜? 全く……」

 先生の奴、彼女がちょっと可愛いからって贔屓《ひいき》しやがって。もっとこう、教師として不真面目な生徒を叱るなりなんなりしたらどうなんだよ。

「あはは、ななみんドンマ〜イ!」

 そして教室に飛び交う黄色い声援。
 イライライライラ。
 言うまでもなく俺はこの状況に苛立っていた。

 なんで中央値《メディアン》の出し方ごときがわかんねんだよ! 下らないこの茶番に、俺はいつまで付き合えばいいんだ?

 ガタッ。スタスタスタスタ。カッ、カッ、カカッ。

 気づけば、俺は無言で席を立ち、クラスメイト全員がシーンとなって見守る中、通常ならばこの後先生が行なわなければならない全ての問題の解答を黒板に書き連ねていた──。

 ◇

「あのっ、優心君!」
「あ?」

 授業で使った数学の教科書やノート、プリント類をカバンに詰めていると、話しかけてきたのは先程易しい問題が解けなかった学校のアイドル、光月七海だ。俺に何の用だ?

 彼女は、何故か頬を赤らめてこう言った。

「良かったら、お弁当、一緒に食べない? その、えと、屋上で!」

 なんだいきなり。何故に屋上? 普通に考えてそんなん無理だろ。屋上へ通じる扉には鍵がかかっているはずだ。

 俺がそう言うと、

「ナイショなんだけど、私、屋上の鍵をね、ヘアピン駆使して開けられるんだ。すごいっしょ?」

 えへへ〜、といたずらっぽい表情で微笑む光月七海は、どこまでもあどけなかった。

 ◇

「ふあー、良い天気!」

 彼女が両腕を高くあげてうーんと背伸びをする。その時一瞬、制服から白い腹がチラと見えたが、見なかったことにした。

「いただきまーす!」

 胸の前でお箸を合わせ、美味しそうに弁当を食べ始める光月七海。

「で」
「?」
「なんで急に弁当一緒に食ってんの、俺ら」

 こんな真夏に、人気のない屋上。とにかく暑い。暑過ぎる。核心をついた質問でもあり、思ったことをそのまま告げる。

「えっ。だって、今日私が先生にあてられて困ってた時、優心君助けてくれたじゃん。私今まで優心君が気になってたんだけどね、勇気出なくてさ。何か話すキッカケないかなぁ〜って、ずっと思ってたの」
「…………」
「他にも、教室の花瓶の水、いつも優心君が替えてるよね。飼育委員の男の子がサボって帰っちゃった時、うさぎ小屋でうさぎにエサあげてるとこなんかも、何度か見たよ!」

 ──私、知ってるんだから!

 少し興奮気味に得意げにそう言った後で、彼女はそのいかにも快活な丸い瞳を閉じ、決意した様にすうっと息を吸い込んで叫んだ。

「優心君の優しさに、光月七海は惚れました。おねがいっ! 私と、付き合って下さいっ!」
「…………は」

 突然の事態に戸惑う俺。
 暫しの沈黙。二人の間に流れる、もしくは光月七海が流しているなんともいえない甘い雰囲気。なんだこれ。告白? マジで言ってんのか。……まじで?

「あっ、でもねッ、まずは、お友達からねッ。私は優心君ってもう既に呼び捨てだから、優心君も七海って呼んで」

 焦った風にそう言うから、俺は、

「……はい」

 まあ、そういうことなら。そう返事をした。

 ◇

「優心君っ」
「何?」

 ホームルームが終わって帰ろうとしていたときだった。

「あのね、放課後、図書館。数学教えて? 勿論友達としてね!」
「……別に、いいけど」

 そして、その日から、俺はほぼ毎日のように放課後、図書館に行き七海に勉強を教えた。お互い部活はやっていなかったから、その辺の都合は良かった。

 ただ、図書館で七海の隣に座って、そこで初めて気が付いたのだが、男は皆誰もが揃って七海を見る。それ程彼女は目立つのだ。

「ほえー、さっすが、学年トップ! アンド、入試トップ!」

 勉強中。難問とされている問題を解いた俺に放たれた七海の言葉。これには少し驚いた。

「覚えてたんだ?」
「勿論」

 七海は、えへへ、と笑顔ではにかんだ。

 七海は、思いの外飲み込みのスピードが早かった。一つの公式を覚えるにしたって、一度言えば直ぐにその公式を使って問題に正答することが出来る。

 どうしてこれまで勉強してこなかったのか問うと「単にやる気が出ないだけだった、優心君が教えてくれたから、これからは頑張る」そう言った。

 思えばこのあたりから、俺は、無意識の内にこのやたらと目立つ可愛らしい外見を持ち合わせていながらも、上辺だけではない内に秘めた強い芯を持つ彼女──光月七海という女の子に、惹かれていたのだった。

 ◇

 放課後、七海と図書館で勉強会なるものをするようになってから一ヶ月が経った頃。
 ふと立ち寄ろうとした男子トイレ。

「マジでムカつく。あいつ、寺島優心」

 ビクッ。身体が跳ねた。やばいやばいやばい。俺の名前だ。話しているのは七海のファンクラブにも入っている同じクラスの男子数人。プラス、三年のヤンキーの先輩。

「優等生気取りやがって。《《俺らの》》七海に勉強教えるとか。チョーシ乗ってんじゃねーよ」

 その台詞が、妙に心に引っかかった。
 誰が……
 俺は無意識の内に拳を握りしめていた。爪が掌に食い込んで痛い。
 誰が《《お前らの》》七海だよッ……
 何故だか胸が熱い。気付かれないように俺はその場から無言で立ち去った。

 ◇

 はあっ、はあっ、は。

「あ、優心君」

 気付けば俺は、階段を駆け上がって屋上に来ていた。何故だかわからなかったけれど、七海がいる気がしたんだ。そして、彼女は本当にいた。

「どうしたの? なんか怒ってる?」
「怒ってねえ」
「怒ってるじゃん」
「怒ってねぇっつってんだろ!」
「! 優心君、変だよ。なんでそんな、《《いつもと違う》》の?」

 七海のその一言で、俺はハッとした。いつもと違う。そうか。この一ヶ月で、俺を変えたのは……。

 途端に恥ずかしくなり、俺は、俺の肩にそっと触れようとしてきた七海の手を強い力で掴んだ。

「痛っ……! 優心君?」

 さっきあんなことがあったばかりだ。多分俺は複雑な表情をしていたんだと思う。

 切羽詰まった様子の俺。握りしめた手の力を弛めない俺。不安げな様子で、七海は聞いてきた。

「優心君は、私に、ヒドい事するの……?」

 ああ、するよ。してやるよ。今すぐお前の目の前から消えてやる──。こんな、面倒くさい事になるんなら、もう二度とお前となんか話さない。

 そう言おうと開きかけた口元。だが続きを紡ぐ言葉が、どうしても出て来ない。

 七海は、はあっ、とため息をついた。

 俺の手を振りほどく。強く握っていたはずがいとも簡単に振り払われた気がした。

「いくじなしだよ。優心君。本当はもうとっくに、私の存在が頭から離れないくらいには、私のことが好きなはず」
「なっ!」

 俺は、たじろいだ。こんなにも胸を抉られるこの甘い気持ちの正体に、今頃気づくなんて。そう思った。

「はい。もう正直に答えてくださーい。優心君は私のことが?」

 もう、どうにでも、なれ。

「俺は、な、なみが」
「私がぁ〜?」
「す」
「酢? ポン酢ですか?」

 タチわりぃいいい!!

「俺は、光月七海が好きだ。好き、です」
「嬉しいな! 恥ずかしい!」

 きゃあーっ、とその場でジャンプして喜ぶ七海。……可愛い。

「だから、同じ男として、お前のファンとか、三年の先輩とかにも、負けねー……」

 とは言ったものの、正直怖い。何かを察したらしい彼女は、少し考えてからこう言った。

「だいじょーぶ! 任せといて!」

 ◇

 翌日。四限目の授業が終わり、生徒達は皆待ちに待ったランチタイム。

『皆さんこんにちは。光月七海です! 毎日暑いですね〜。日本では昨今酷暑が叫ばれています! 私も難しい言葉、知ってるんですよ〜』

 七海の声が学校中に響き渡る。そう、彼女は放送委員だ。

『さて、そんな私には最近、彼氏が出来ました。この場を借りて発表したいと思います! その名は……』

 ぎゃあああ! やめてくれ! マジでやめてくれえええ! 任せといてってこういうこと!?

 俺の心の懇願虚しく、七海はその良く通る耳に心地よい鈴の声で言った。

『成績は常に! 学年トップ! ポーカーフェイスのその裏に、実はアツいハートを隠し持つ超絶イケメン! 二年B組、寺島優心君でーす!!』

 二年B組の教室にどよめきが走る。勿論隣のクラスにもだ。クラスメイト全員が俺を見た。

『だから、私のファンクラブの皆さん……』



『《《私の》》優心君に何かしたら、許さないんだからねーーッ!』

 キーン、とマイクが反響した。

 七海のこのアクションには、クラス一同、いや三年の先輩も含め生徒一同、皆絶句する他なかった。

「優心君、だーい好きっ!!」

 放送を終え教室に戻ってきた七海が、俺に飛びついて抱きつく。

 周りの生徒達からは、ヒューヒューと冷やかしの歓声が止まらない。七海の事を好きな男子達は最早半泣きである。

 当の俺は、恥ずかしいったらこの上ない。

『えー、放送委員の光月七海さん。至急職員室へ』
「げっ!」

 俺の青春は──、初めての彼女。初めて好きになった女。ななみ色に、染まっていく。
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