さよなら僕の聖母様
それから半月、本丸では特に大きな事件も起きずに過ごしている。
戦には、あまり出されなくなった。別に僕の戦い方が咎められて……というわけでもないらしい。歌仙が
「君の戦い方はどうかと思うけど、別にそれが原因じゃないよ。単純に練度が追いついたからだ」
と言ってくれた。……よかった、のだろうか。
「あ、松井さん! ちょうどいいところに。ちょっといいですか?」
なんのあてもなく本丸を歩いていたら、ふと堀川国広に呼び止められた。立ち止まって振り返ると、彼は書類の束を持って立っている。
「これ、主さんに持っていってもらっていいですか? 僕これから出陣で」
「ああ、わかったよ」
その分厚い書類たちを受け取る。何もやることがないのだから丁度いい。
階段を登って何度か扉を叩く。しばらく待っても返事がない。
「主、堀川国広から書類を預かっているのだけれど」
そう呼びかけても中から返事が来ることはなくて、不思議に思いながらそっと戸を開けた。
中には誰もいなかった。顎に手を当てて首を傾げる。どこに行ったのだろうか。
ひとまず机の上に雑記と共に置いておくかと思い中に入る。先程まではいたのか、主がいつも羽織っている上着が椅子にかかったままだった。
主の机の上に書類を置いて、付箋と万年筆でも借りようかと小棚を開けたその時、遠くの方から聞き慣れない音がした、気がする。手を止めてその音の出処をそっと探す。主の私室の方からその音は聞こえて来た。そちらに足を向けるけれど、勝手に開けるのはまずいだろうかと少し躊躇してしまう。しかし好奇心には勝てずに、そっと主の私室の扉を開けた。
中はただの少し広い洋室だった。そこにも主の姿はないけれど、代わりに奥の方に扉を見つけた。音の出処はそこからのようだ。微かに戸が開いている。
心の中で謝りながら主の私室に足を踏み入れる。そしてそのまま奥の方へ向かった。
戸の隙間から中を覗く。小さな洋室に所狭しと棚が並んでいた。どこにいるんだと思っていた主は案の定この部屋にいた。こんな部屋があったなんて今の今まで知らなかった。
中にあるのは楽器だ。知っている。ぴあの、とかいう鍵盤楽器だろう。
主はその前に座っていた。音の出処はその楽器だ。……綺麗だ。
ただその後ろ姿を眺めていたら、突然音が止まった。ぐるりと主がこちらを振り見る。あ、と声が出た。
「えっ……あ、松井……どうしたの? 何かあった?」
主が驚いたような顔をしてこちらを見た。
「あ……勝手に覗いてしまって申し訳ない」
「いや……別にいいんだよ。何か私に用があったのかな」
主は椅子から降りるとぱたぱたとこちらに駆け寄ってくる。僕の前まで来ると、僕の顔を見上げて首を傾げた。
「堀川国広から書類を渡してほしいと頼まれてね。執務室の机の上に置いておいたよ」
「ありがとう。気が付かなくてごめんね」
主はそう言うと、後ろ手で扉を閉めようとした。なんとなくそれが勿体無い気がして、「ねえ」と声をかける。
「あれは何?」
「あれ……? ああ、ピアノのこと?」
僕の問いかけに、主は小さく微笑んでそう答える。そして「おいで」と僕の手を引いて、部屋の中へ僕を招き入れた。
「ここを押すとね、音が鳴るの」
主が人差し指で鍵盤を押すとぽろんと音が鳴る。主は僕に座るよう言って、ぴあのというものの前に座らせた。
「指立てて。うん。そのまま、ゆっくり押してみて」
言われた通りに鍵盤を押すと、確かに音が鳴った。
「これ主が買ったの?」
「いや、うちにそんな資金無いし。元々置いてあったの。前の審神者さんが使ってたのかな」
この本丸は以前誰かに使われていた場所を使っているのだということは以前から聞いていた。こういうものも残っているのか。
「随分昔のやつだから調律は直してもらったんだけどね」
「あなたは弾けるの?」
「うん、少しだけ」
聞いてみたいな、そう口にして立ち上がる。主は「ちょっと恥ずかしいな……」といいながら先程まで僕が座っていた場所に腰を下ろした。両手を鍵盤の上に乗せて、そのまま音を紡ぎ始める。
美しい音色だった。人間の指はそんな風に動くのかと、見惚れながらそんなことを思う。
「……はい。あんまり上手くなくてごめんね?」
「とっても素敵だよ」
食い気味にそう伝えると、主はぱちくりと目を瞬かせた。
「あ、ありがとう……」
「綺麗だった。凄いね、主はこんなこともできるんだね」
主は照れ臭そうにはにかむと、体の前で手を組んで「ありがとう」と再度呟いた。
「松井もやってみる?」
「さっき触らせてもらったし主の大切なものにこれ以上触れるわけにはいかないよ」
僕は血で汚れているから、そう言えば主は首を横に振って「松井だって私の大切なものだよ」と口にした。そしてそのまま立ち上がると、ぴあのの横にある棚を漁り始める。
「この前、松井趣味無いみたいなこと言ってたでしょう。いい趣味になると思うよ」
主は何冊かの本を椅子の上に乗せた。
「これ、前の審神者さんが使ってたのかわからないけど……私はもう使わないからさ、やってみない?」
一冊手に取る。たしかに古びてはいるけれど、いい状態のまま保管されていたようだ。ページの抜けもない。
それは平仮名中心で書かれた子ども向けの教本のようだ。
「私教えてあげるよ。暇なときにおいで」
「あなたの手を煩わせるわけには……」
「私がやりたいの。松井は嫌?」
「いや……嫌では、ないけれど……」
言葉を濁して教本を椅子に戻す。
「僕にできるかな」
それからポツリとそう呟いた。
実務は得意だけれど、それと戦以外のことが僕にできるだろうか。
そんな美しい音。出すみたいなこと、できるだろうか。
「篭手切みたいに上手く歌えるわけでも上手く踊れるわけでもないよ」
「大丈夫だよ。嫌になったら辞めればいいし。ね?」
その言葉に、僕は思わず頷いてしまっていた。
それから互いに空いている時間に、主は僕にぴあのを教えてくれるようになった。
正直思っていたよりも楽しい。自分がやるのもだけれど、心なしかいつもより明るい主を見ることが何よりも楽しかった。
ぴあのを弾いている間は、思っていたよりも主は子供っぽい笑みを見せる。……たまに忘れそうになるが、彼女はまだ16だった。普段は随分と大人びているけれど、こういうときは年相応の表情を見せるようだ。
主の新しい一面を垣間見た気がして、少し嬉しかった。
戦には、あまり出されなくなった。別に僕の戦い方が咎められて……というわけでもないらしい。歌仙が
「君の戦い方はどうかと思うけど、別にそれが原因じゃないよ。単純に練度が追いついたからだ」
と言ってくれた。……よかった、のだろうか。
「あ、松井さん! ちょうどいいところに。ちょっといいですか?」
なんのあてもなく本丸を歩いていたら、ふと堀川国広に呼び止められた。立ち止まって振り返ると、彼は書類の束を持って立っている。
「これ、主さんに持っていってもらっていいですか? 僕これから出陣で」
「ああ、わかったよ」
その分厚い書類たちを受け取る。何もやることがないのだから丁度いい。
階段を登って何度か扉を叩く。しばらく待っても返事がない。
「主、堀川国広から書類を預かっているのだけれど」
そう呼びかけても中から返事が来ることはなくて、不思議に思いながらそっと戸を開けた。
中には誰もいなかった。顎に手を当てて首を傾げる。どこに行ったのだろうか。
ひとまず机の上に雑記と共に置いておくかと思い中に入る。先程まではいたのか、主がいつも羽織っている上着が椅子にかかったままだった。
主の机の上に書類を置いて、付箋と万年筆でも借りようかと小棚を開けたその時、遠くの方から聞き慣れない音がした、気がする。手を止めてその音の出処をそっと探す。主の私室の方からその音は聞こえて来た。そちらに足を向けるけれど、勝手に開けるのはまずいだろうかと少し躊躇してしまう。しかし好奇心には勝てずに、そっと主の私室の扉を開けた。
中はただの少し広い洋室だった。そこにも主の姿はないけれど、代わりに奥の方に扉を見つけた。音の出処はそこからのようだ。微かに戸が開いている。
心の中で謝りながら主の私室に足を踏み入れる。そしてそのまま奥の方へ向かった。
戸の隙間から中を覗く。小さな洋室に所狭しと棚が並んでいた。どこにいるんだと思っていた主は案の定この部屋にいた。こんな部屋があったなんて今の今まで知らなかった。
中にあるのは楽器だ。知っている。ぴあの、とかいう鍵盤楽器だろう。
主はその前に座っていた。音の出処はその楽器だ。……綺麗だ。
ただその後ろ姿を眺めていたら、突然音が止まった。ぐるりと主がこちらを振り見る。あ、と声が出た。
「えっ……あ、松井……どうしたの? 何かあった?」
主が驚いたような顔をしてこちらを見た。
「あ……勝手に覗いてしまって申し訳ない」
「いや……別にいいんだよ。何か私に用があったのかな」
主は椅子から降りるとぱたぱたとこちらに駆け寄ってくる。僕の前まで来ると、僕の顔を見上げて首を傾げた。
「堀川国広から書類を渡してほしいと頼まれてね。執務室の机の上に置いておいたよ」
「ありがとう。気が付かなくてごめんね」
主はそう言うと、後ろ手で扉を閉めようとした。なんとなくそれが勿体無い気がして、「ねえ」と声をかける。
「あれは何?」
「あれ……? ああ、ピアノのこと?」
僕の問いかけに、主は小さく微笑んでそう答える。そして「おいで」と僕の手を引いて、部屋の中へ僕を招き入れた。
「ここを押すとね、音が鳴るの」
主が人差し指で鍵盤を押すとぽろんと音が鳴る。主は僕に座るよう言って、ぴあのというものの前に座らせた。
「指立てて。うん。そのまま、ゆっくり押してみて」
言われた通りに鍵盤を押すと、確かに音が鳴った。
「これ主が買ったの?」
「いや、うちにそんな資金無いし。元々置いてあったの。前の審神者さんが使ってたのかな」
この本丸は以前誰かに使われていた場所を使っているのだということは以前から聞いていた。こういうものも残っているのか。
「随分昔のやつだから調律は直してもらったんだけどね」
「あなたは弾けるの?」
「うん、少しだけ」
聞いてみたいな、そう口にして立ち上がる。主は「ちょっと恥ずかしいな……」といいながら先程まで僕が座っていた場所に腰を下ろした。両手を鍵盤の上に乗せて、そのまま音を紡ぎ始める。
美しい音色だった。人間の指はそんな風に動くのかと、見惚れながらそんなことを思う。
「……はい。あんまり上手くなくてごめんね?」
「とっても素敵だよ」
食い気味にそう伝えると、主はぱちくりと目を瞬かせた。
「あ、ありがとう……」
「綺麗だった。凄いね、主はこんなこともできるんだね」
主は照れ臭そうにはにかむと、体の前で手を組んで「ありがとう」と再度呟いた。
「松井もやってみる?」
「さっき触らせてもらったし主の大切なものにこれ以上触れるわけにはいかないよ」
僕は血で汚れているから、そう言えば主は首を横に振って「松井だって私の大切なものだよ」と口にした。そしてそのまま立ち上がると、ぴあのの横にある棚を漁り始める。
「この前、松井趣味無いみたいなこと言ってたでしょう。いい趣味になると思うよ」
主は何冊かの本を椅子の上に乗せた。
「これ、前の審神者さんが使ってたのかわからないけど……私はもう使わないからさ、やってみない?」
一冊手に取る。たしかに古びてはいるけれど、いい状態のまま保管されていたようだ。ページの抜けもない。
それは平仮名中心で書かれた子ども向けの教本のようだ。
「私教えてあげるよ。暇なときにおいで」
「あなたの手を煩わせるわけには……」
「私がやりたいの。松井は嫌?」
「いや……嫌では、ないけれど……」
言葉を濁して教本を椅子に戻す。
「僕にできるかな」
それからポツリとそう呟いた。
実務は得意だけれど、それと戦以外のことが僕にできるだろうか。
そんな美しい音。出すみたいなこと、できるだろうか。
「篭手切みたいに上手く歌えるわけでも上手く踊れるわけでもないよ」
「大丈夫だよ。嫌になったら辞めればいいし。ね?」
その言葉に、僕は思わず頷いてしまっていた。
それから互いに空いている時間に、主は僕にぴあのを教えてくれるようになった。
正直思っていたよりも楽しい。自分がやるのもだけれど、心なしかいつもより明るい主を見ることが何よりも楽しかった。
ぴあのを弾いている間は、思っていたよりも主は子供っぽい笑みを見せる。……たまに忘れそうになるが、彼女はまだ16だった。普段は随分と大人びているけれど、こういうときは年相応の表情を見せるようだ。
主の新しい一面を垣間見た気がして、少し嬉しかった。