さよなら僕の聖母様

 そうやって日々は続いている。

 蝉の声が五月蝿い。何も遮るもののない日光が直接伝わってくる。

「まったく……なんで僕がこんなことしなければいけないんだ」
「文句言わないの。僕からお願いしたんだよ」

 額から流れ出る汗を拭おうとしたら顔に土がついた。暑い。暑さで判断力まで失ってしまったようだ。

「桑名が頼まなければ僕は今日豊前と手合わせだった」
「はいはい、ごめんごめん」

 立っているだけで暑いというのに、なんでこの熱い中動き回らなければいけないんだ。

「はあ……こんなことをするくらいなら土に還りたい」

 そう呟いて、大きく息を吐いた。
 適材適所だろう、こういうのは。僕には向いていない。
 桑名はそこら中になっているトマトを色々見漁りながら口を開いた。

「僕は松井のことをそこそこ心配してるんだよ」
「……突然何」

 桑名の方を見た。桑名は僕のことをこれっぽっちも見ないまま話を続ける。

「歴史は巡り巡ってるものだよ。過去は過去、今は今で未来は未来だ」

 ねえ松井、そう桑名が口にした。

「それが松井の物語だから否定はしないよ。でも、もう少し周りを見て。篭手切も豊前も……主だって松井のことを心配してるんだよ」

 そんなことわかってる。
 即座にそう呟いた。

「……桑名に僕の気持ちはわからない」
「うん。わからないよ」

 ぶつん、と鋏でトマトをひとつ茎から切り落とす音がする。桑名はそのままそれを僕におしつけてきた。

「……説教がしたくて僕を畑当番に?」
「説教なんかじゃないよ。畑仕事してたらちゃっとは気が紛れるでしょ」

 食べていいから、それ。と先程僕に押し付けてきたトマトを指差して桑名が言う。

「……畑は得意じゃない」
「知ってる」
「もっと別の気の紛らわせ方を提案してほしいのだけれど」
「もー、わがまま言わんといて」

 トマトにはまだ土がついている。これをそのまま食べろなんて正気か。

「飢え死にしたくないでしょ」
「まあ……それは」
「それにさせたくないでしょ。主にも」

 何気なく桑名から発せられたその言葉に、胸の奥が冷たくなる心地がした。

「そんなことさせない」
「なら手を動かしてよ」

 水を撒くための蛇管を手に取って、呆けたまま地面を見つめる。
 ああ、まあ、そうだな。こんなにいい土は人工的じゃなければ作れないか。

「確かに、ここに還っても仕方ないかも」
「止めてよ? 刀は肥料にならないから」
「そういう問題なのか?」

 飢餓……それは嫌だな。
 あの時も皆飢えて死んでいった。

「最近いい野菜が採れて嬉しいって歌仙兼定に言われたよ」

 それは桑名が畑の大改造を行ったからだろう。僕が初め案内されたときは今こんな広い農地になっているここも荒れ地だったというのに。

「松井が頑張ったら歌仙に松井のいいところいっぱい伝えといてあげるね」
「結構だ」

 桑名は笑うと「ほら、ちゃんとやってね」と僕の背中を叩いた。その泥だらけの手で僕に触らないでほしい。
 僕は蛇管で水を出しながら、桑名の方をちらりと見た。桑名はもう何も僕にいうことはせず、農作物の世話を続けていた。

 あの戦も飢餓から始まったのだったか。いつの時代も一揆とはそんな理由から始まる。

「……やっぱり一度土に還ってみようかな」
「やめてよ。松井肥料にならないんだから」 
「わかってるよ」

 この土に還ったら何か、わかるだろうか。
 ……そんなわけないのだろうけど。

「ほら松井、ぼーっとしてないで」

 強めに桑名にそう言われ、僕はこくりと頷いて桑名の後を追った。
 しばらく僕達は無言で作業を行った。動く度に汗が流れてきて鬱陶しい。

「僕たちも時が来たら土に還るよ」

 桑名が突然そう口にした。僕はゆっくりと桑名を見るために顔を上げる。

「みんなそうだよ。人間も動物も植物も……僕たちも、刀もいつか循環の一部になるんだ」

 例外なくね、と桑名は淡々と続ける。

「まあ松井が何を思っててどうするかは好きにしたらいいと思ってるんだけどさ」

 誰も言わないだろうから僕が言うよ、そう桑名は告げるとこちらを見た。

「松井が足落として帰ってきた日さ、主具合悪かったみたいで」

 口を開けたまま僕は動きを止めた。

「あそこでそんな重傷になって帰ってくるとは思わなかったんだろうね。主松井が重傷だって聞くと血相変えて手入れ部屋に来て、真っ青な顔で手入れしてたよ」

 そうなのか、と掠れた声が出た。

「手入れ自体は主がいなくても札があればできるからさ、それでいいって言ってたんだけど『松井がずっと痛いのは可哀想でしょ』って聞かないから」

 桑名は本当に、ただ淡々とその話を続けていく。

「その後色々大変だったんだよ。まあその自分がそんな状況で松井たちを出陣に行かせた主も主だけど」

 額から噴き出てきた汗を拭えず、ぽたりと顎から汗が垂れた。

「そういう人だよ。あの人自分のことあんまり大事じゃないんだろうね」

 そう、と繰り返し素っ頓狂な声が漏れた。

「あんまり心配かけないであげてね」

 桑名はそう言うと作業に戻っていく。
 僕は何も返せないまま、その場に立ち竦んでいた。

 主は僕たちに無償の愛を与えている。そういうことなのだろう。
 思えば主は僕たちと話すとき、必ず僕たちを気にかける言葉から話し始めるなとか、そんなことを思った。
 いつ見ても主は完璧だった。すらりと伸ばされた背筋も、その美しい所作も、僕たちに向けられる微笑みも。なんだか、作り物みたいだ。……それとも、意図的に僕にその姿しか見せていないだけなのだろうか。
 神様、ああそうだ。そう言ったな。本当に神様みたいだ。
 常に首から掛かっている銀色の鎖をじっと見つめる。胸元でそっと握りしめると、誰にも見られないよう服の下に入れこんだ。
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