さよなら僕の聖母様
目が覚めたときはもう夜だった。酷い雨は止むことなく降り続いている。
今が何時なのかはわからない。傷はもう綺麗さっぱりなくなっていた。清潔な白い布団に寝かされていて、枕元には『よかったら食べてください』と篭手切の字で書かれためもが、握り飯とともにおいてある。
体を起こすと、まだ頭がぼうっとした。
瞬きをするだけで先程の夢が鮮明に蘇ってくる。綺麗な寝衣を着ているのにも関わらず、自分から血の匂いがしている気がして嫌だった。
起き上がって手入れ部屋から出る。すぐそこに見える庭は雨で地面が泥濘んでいた。
何をするわけでもなく、僕はそのままその庭に縁側から裸足のまま降りた。
この雨で血の匂いを流してほしいとでも思ったのだろうか。そんなことできるわけがないのに。
雨に打たれながらぼーっと考える。
この戦いはなんのためにあるのだろう。どこへ向かっていくのだろう。またあの日を繰り返すのはごめんだ。
……ああ、でも……子供に主導させてるのは、もう一緒か。
僕が敵を斬るたびにあの子が血に染まっていくのなら、僕はまたゆるされないことを繰り返しているのだろう。
僕は、きっともう赦されることがない。
「松、何してんだよ」
雨の音に紛れて、そんな声が聞こえた。ゆっくり振り向けばそこには豊前が立っている。
「そんなとこで何してんだ、風邪引くぞ」
豊前も靴下を脱いで、ひょいと庭の方に降りてきた。
来なくていい、君だって濡れる、とか言おうと思ったけれど言葉が出てこない。
「……豊前」
「出陣、お疲れ様」
「……豊前も……」
僕の様子を手入れ部屋まで見に来ようとしてくれたのだろうか。……ああ、嫌だな。豊前を濡らしてしまった。
僕が何も言えずにいると、豊前は眉を下げて困ったように笑う。
「……また多くの血が流れたな」
豊前は僕になんて返して欲しかったのだろう。
……いや、返しなんて求めてなかったのかもしれない。
「豊前、僕は……」
寝衣が肌に張り付いて気持ち悪い。すっかり平らになった髪の毛から水滴が垂れる。
……僕は、豊前に何を言おうとしたのだろう。肯定してもらいたかったのか、僕を救ってくれる言葉をかけてほしかったのか、僕の疑問に対して答えが欲しかったのか、もうなにもわからない。
僕が無言のまま視線を逸らすと、豊前はいつものカラリとした笑顔になってこちらを向いた。
「いいよ、言わなくて」
「……え」
「誰にでも言えないことのひとつやふたつ、あるもんなんだろ? 無理して言わなくてもいいよ」
僕が目を軽く見開くと、彼はそう言ってきた。
……まるで、そうだな。太陽のような刀。そんなたとえが頭に浮かんだ。
「ま、でも、ひとりで抱えきれねーくらい重たいんだったらいつでも言ってくれ。ほら、俺、両手空いてっからさ」
豊前はそう両手を僕に見せて、からりと笑った。……その手に触れるのを躊躇っていると、豊前から僕の手を取ってくる。
「……豊前」
僕とは違い、あたたかい手だった。雨に濡れているのに。そうとは思えないくらいに。
……もしも神様がいるなら、きっと豊前のような形をしているのだろう。
「お二人とも何をしてるんですか!?」
その時、縁側の方から篭手切の驚いたような気がした。豊前は笑って、「行こうぜ」と僕の手を引いて走り始める。
「まって、まってください! 廊下が汚れてしまいます!」
「今タオルを持ってきますから!」と篭手切が走り始める。「まだ濡れてなきゃ行けねーの?」と首を傾げる豊前にごめんと呟くと、彼は「いいよ」と再度繰り返した。
篭手切が桑名を連れてタオルを持って戻ってきて、僕たちは風呂場へ向かって行った。
雨と一緒に血の匂いが流れていくことはなかった。
けれど、豊前が僕のことをわかってくれるなら、それでいいと思ってしまったのだ。
五月雨には怒られたし村雲には泣かれた。豊前と二人で風呂に入って、冷えた体を温めた。「絶対お二人とも堀川に怒られますから」と篭手切に頭を抱えられてしまった。
桑名は何も言わなかった。でも、「松井がよかったなら別にいいんじゃない」とは言っていたからこいつは案外いいやつかもしれない。
昼間に寝すぎたのかその後は眠れなかった。
どうしても寝られなくて、皆を起こさないように布団を出て廊下に出る。
流石にもう庭に出る気にはならなかった。まだ雨は止んでいなかったし、もう一度濡れようという気分にもなれない。
水でも飲もうか。そう思って厨の方へ足を向けた。
夜の本丸は随分と静かだ。人の気配一つしない。しかし厨の方へ行くと薄明かりがついているのが見えてきて、僕は足を止めた。誰かいるのだろうか。
それだったら気まずいな、とか思いながら扉に手をかける。開けると、思ってもみなかった人と目があった。
「えっ、あ……松井か、びっくりした……」
「……主?」
椅子に座って調理台に飴を広げていた主が、安堵したようにそう呟いた。
「起きてたんだね。よかった」
そしてそう微笑む。扉閉めて、と促されて僕は後ろ手で戸を閉めた。続けて「何か飲みにきたの?」と首を傾げられて、僕は小さく頷く。
「……すまなかったね」
「何が?」
「手入れ……手間をかけさせてしまって」
そのまま冷蔵庫を漁りに行く気にもなれなくて、主の正面にあった椅子に座ってそう伝える。主はただ「気にしないで」と笑った。
「……でも、突っ込んでいくとかは……やめてほしいかも」
「……」
言われてしまった。確かに手入れをするのにも資材が必要だし、手入れだってすぐにできるわけではない。……それは、わかっているのだけど。
「私じゃ役に立てないかもしれないけど、何かあったら言ってね」
主はそう言うと立ち上がって、冷蔵庫の横にある棚の一番下の段を漁り始めた。
そこから何かを取り出したあと、薬缶に湯を入れて沸かし始める。
「何をしているの」
「お茶淹れようと思って。飲むでしょ?」
「……そんな手間をかけなくても」
水でよかったのに、そう言うと主はふわりと微笑んで「口止め料」と言って人差し指を口元に当てた。
「こんな時間に起きてることは内緒ね」
「……わかったよ」
素直に頷いてお湯が沸くのを待つ。しばらくすると、沸いたお湯を主は急須に注いだ。
主が出した茶葉はごく普通の玄米茶のようだった。だけど微かにいい香りがしている。
僕は湯呑みに淹れられたお茶が少し冷めるのを待ちながら、何をすることもなく机を擦っている。
無言のままなのもなんだか気まずくて、僕は口を開いた。
「……手入れしたとき、僕の血に触ったかい」
「あそこまで怪我してると触るしかないよね」
「そう、だよね。ごめん」
「だから大丈夫だから。ね?」
「あなたには血に慣れてほしくない」
絞り出すような声が出た。僕が自分から血に触れさせる状況にしておいて何を言っているんだと、自嘲する他ない。
「……優しいのね。松井」
「そんなことない」
「優しいよ。……でも大丈夫。私は審神者だから、そんなこと気にしないで」
主はそう言うと、主がさっきから何かを飲んでいた湯呑みに茶葉の入った袋を入れてお湯を注いだ。
僕はその姿を見つめながら、控え目に口を開く。
「僕のことを部隊から外すかい」
「外してほしい? 実戦は嫌になった?」
「いや……そういうわけでは」
……言葉を濁して俯いた。
戦場に行きたくないわけではない。血を流さなければとはやる気持ちは今も胸に燻っている。……だけれど、そうすることで心配してくれる仲間がいることもわかっているのだ。
「……僕が血を流すと皆が心配する」
「それは……そうだろうね」
主は苦笑いを零して、それから口を開いた。
そしてまた優しい微笑みに戻って、僕に手を伸ばしてくる。そして僕の手にそっと触れてきた。
豊前の手のように大きいわけではない。温かいわけでもない。むしろ僕の手よりずっと小さくて、指は細くて、肌は白くて……体温はむしろ冷たいほどだった。初めて主に直接触れた気がする。
「松井が戦場に出たいのならそうしたらいいよ。どんな怪我をしても私が直してあげる。……でも、松井のことが大事だからみんな心配するんだよ。自分をもう少しだけ大事にしてもいいんじゃないかな」
「……でも僕は」
主はそう言葉をかけてくれる。僕はそんなことを思われるような大層なものではない。だって、むしろ僕は……
「松井さ、それ以外にやりたいことないの?」
「え」
ぱっと手を離されて、唐突にそう問いかけられた。僕は咄嗟に何も答えることができず、視線を彷徨わせる。
「他に気を向けられることがあればいいんじゃないかな。他に身体を得た意味を見つけてみれば、顕現された意味もちょっとはあるって思えるかも」
「そういう……ものかな……そういうわけではないと思うのだけれど……」
だってこれは僕の物語だ。僕を構成する物語によって、僕に生み出された意識だ。それを、何かで誤魔化すことなんてできない。
「……心を与えてしまってごめんね。面倒だよね。……でも、心があるから楽しめることも沢山ある。それを見つけられたらいいね」
私もお手伝いするから、と主は笑った。
……楽しく過ごす権利が僕にあるものか。そう思ってしまうが、主の優しい声を聞いていると自然と頷いてしまっている自分がいた。
「そういえば、ばたついてて松井としっかり話したことなかったね。何か興味のあることはないの?」
ないよ、と即答する。
「……僕は血を流せればいいから」
そういうと、主は困ったように笑った。
「得意なことは?」
得意なこと、そんなもの……あっただろうか。
暫く考えて、それからゆっくり僕は口を開いた。
「事務仕事」
主は黙って僕が続きを話すのを待っている。
「事務仕事なら、元の主がそういうお人だったから」
「そしたら今度近侍をやってもらおうかな」
「ああ。きっと役に立てるのではないかな」
素敵じゃない、と主は嬉しそうに口にした。
「……篭手切がレッスン頑張ってるけど、松井は参加してないの?」
「たまにしてるよ。豊前がやるって言うから」
「そう。楽しい?」
「どう、だろう……僕は篭手切のように上手くはないから」
でも、と小さく呟いた。
楽しい、そんなこと考えたことがあっただろうか。何かを思ってれっすんに参加したことは、そういえばなかったような気がする。
「篭手切が楽しそうにしているのを見るのは嬉しい」
「そういうのでいいんだよ」
主はそう言いながら自分の髪の毛をくるくるいじった。
「松井」
そして主は、僕の名を呼ぶ。
「松井たちはこれから途方もない時間その体で戦っていくことになるんだろうね。……少しずつ、松井が楽しくて嬉しいことを戦以外に見つけよう。いつか、松井が前に進めるように」
指を組んで、主はそう目を伏せた。
「……そんなにこの戦はかかるのかい」
「さあ、どうだろうね」
主はそう眉を下げて笑う。言葉にはしないけれど、きっとそうなることをこの人は理解しているのだろう。
「でもそうなるかもしれない。だから松井の幸せがこの本丸にあったら嬉しいなって思うよ。私も、お手伝いはするから」
ありったけの幸福が松井に訪れますように、そんな物吉貞宗がいいそうなことを主は指を組んで呟いた。
その瞬間、優しい霊力がこちらに流れ込んでくるのがわかる。
……そのとき、僕は唐突に理解した。
かつてこんのすけに言われた、彼女が審神者になるために生まれてきたという言葉を。
ああ。確かにこの子には才がある。戦の長には、ある意味向いているだろう。
夕方、もし神様がいるなら豊前のような形をしているのだろうと思った。今もそう思っている。
豊前はどうしようもないくらいに輝いていて、僕の太陽で、きっと他の皆にとってもそうなはずだ。
豊前がそうならば、この人は特別な意味を持って選ばれた人だ。
さんたまりあ、聖母様、切支丹の言葉にそんなものがあった気がする。よくわからないけれど。
彼らのことを理解しているわけではない。僕は彼らと同じ神を信じる物語をちっとも持ってはいないから。
でも彼らが祈っていたことは知っている。かの少年を仕えた、神の子の、その母のことを。
僕たちはこの人に仕える為に顕現されたのだ。 この途方もない戦の、首謀者の首を、この人に捧げるために。
「主」
それならば、その役目を仰せつかってみよう。
……ただでさえ、あんな地獄を見てきたのだ。
今更この人のためなら、どんなことだってできるだろう。
それが僕たちの役割だというのなら、そうしようではないか。
「僕にも近侍の仕事を回して。役に立ってみせるよ」
「心強いね。じゃあ今度お願いするよ」
そう言ってから、主は使っていた湯呑みを洗い場へ持って行き静かに水を流した。
その背中をじっと見つめて、僕もすっかりぬるくなってしまった湯呑みの中身を飲み干す。
「今話してたことは他の子には内緒だよ。おやすみ、松井」
綺麗に食器を元あった場所に戻した主は、そう僕にひらひら手を振ると厨を出て行ってしまった。
しばらくぼーっとしていたあと、僕も立ち上がる。
洗い場で水を出して洗剤をすぽんじに付けながら、主の言葉を反芻していた。
優しい人だ。僕の幸せなんて、願っても何も起きないというのに。
……ああ、僕の聖母様 。
僕はあなたに報いたい。
この肉体を得た意味を、あなたのために使えたらこれほど幸せなことはないだろう。
僕にはあなたのために、何ができるだろうか。
僕も主と同じように食器棚に湯呑みを入れて、先程主が歩いて行った道と同じ廊下へと戻った。
今が何時なのかはわからない。傷はもう綺麗さっぱりなくなっていた。清潔な白い布団に寝かされていて、枕元には『よかったら食べてください』と篭手切の字で書かれためもが、握り飯とともにおいてある。
体を起こすと、まだ頭がぼうっとした。
瞬きをするだけで先程の夢が鮮明に蘇ってくる。綺麗な寝衣を着ているのにも関わらず、自分から血の匂いがしている気がして嫌だった。
起き上がって手入れ部屋から出る。すぐそこに見える庭は雨で地面が泥濘んでいた。
何をするわけでもなく、僕はそのままその庭に縁側から裸足のまま降りた。
この雨で血の匂いを流してほしいとでも思ったのだろうか。そんなことできるわけがないのに。
雨に打たれながらぼーっと考える。
この戦いはなんのためにあるのだろう。どこへ向かっていくのだろう。またあの日を繰り返すのはごめんだ。
……ああ、でも……子供に主導させてるのは、もう一緒か。
僕が敵を斬るたびにあの子が血に染まっていくのなら、僕はまたゆるされないことを繰り返しているのだろう。
僕は、きっともう赦されることがない。
「松、何してんだよ」
雨の音に紛れて、そんな声が聞こえた。ゆっくり振り向けばそこには豊前が立っている。
「そんなとこで何してんだ、風邪引くぞ」
豊前も靴下を脱いで、ひょいと庭の方に降りてきた。
来なくていい、君だって濡れる、とか言おうと思ったけれど言葉が出てこない。
「……豊前」
「出陣、お疲れ様」
「……豊前も……」
僕の様子を手入れ部屋まで見に来ようとしてくれたのだろうか。……ああ、嫌だな。豊前を濡らしてしまった。
僕が何も言えずにいると、豊前は眉を下げて困ったように笑う。
「……また多くの血が流れたな」
豊前は僕になんて返して欲しかったのだろう。
……いや、返しなんて求めてなかったのかもしれない。
「豊前、僕は……」
寝衣が肌に張り付いて気持ち悪い。すっかり平らになった髪の毛から水滴が垂れる。
……僕は、豊前に何を言おうとしたのだろう。肯定してもらいたかったのか、僕を救ってくれる言葉をかけてほしかったのか、僕の疑問に対して答えが欲しかったのか、もうなにもわからない。
僕が無言のまま視線を逸らすと、豊前はいつものカラリとした笑顔になってこちらを向いた。
「いいよ、言わなくて」
「……え」
「誰にでも言えないことのひとつやふたつ、あるもんなんだろ? 無理して言わなくてもいいよ」
僕が目を軽く見開くと、彼はそう言ってきた。
……まるで、そうだな。太陽のような刀。そんなたとえが頭に浮かんだ。
「ま、でも、ひとりで抱えきれねーくらい重たいんだったらいつでも言ってくれ。ほら、俺、両手空いてっからさ」
豊前はそう両手を僕に見せて、からりと笑った。……その手に触れるのを躊躇っていると、豊前から僕の手を取ってくる。
「……豊前」
僕とは違い、あたたかい手だった。雨に濡れているのに。そうとは思えないくらいに。
……もしも神様がいるなら、きっと豊前のような形をしているのだろう。
「お二人とも何をしてるんですか!?」
その時、縁側の方から篭手切の驚いたような気がした。豊前は笑って、「行こうぜ」と僕の手を引いて走り始める。
「まって、まってください! 廊下が汚れてしまいます!」
「今タオルを持ってきますから!」と篭手切が走り始める。「まだ濡れてなきゃ行けねーの?」と首を傾げる豊前にごめんと呟くと、彼は「いいよ」と再度繰り返した。
篭手切が桑名を連れてタオルを持って戻ってきて、僕たちは風呂場へ向かって行った。
雨と一緒に血の匂いが流れていくことはなかった。
けれど、豊前が僕のことをわかってくれるなら、それでいいと思ってしまったのだ。
五月雨には怒られたし村雲には泣かれた。豊前と二人で風呂に入って、冷えた体を温めた。「絶対お二人とも堀川に怒られますから」と篭手切に頭を抱えられてしまった。
桑名は何も言わなかった。でも、「松井がよかったなら別にいいんじゃない」とは言っていたからこいつは案外いいやつかもしれない。
昼間に寝すぎたのかその後は眠れなかった。
どうしても寝られなくて、皆を起こさないように布団を出て廊下に出る。
流石にもう庭に出る気にはならなかった。まだ雨は止んでいなかったし、もう一度濡れようという気分にもなれない。
水でも飲もうか。そう思って厨の方へ足を向けた。
夜の本丸は随分と静かだ。人の気配一つしない。しかし厨の方へ行くと薄明かりがついているのが見えてきて、僕は足を止めた。誰かいるのだろうか。
それだったら気まずいな、とか思いながら扉に手をかける。開けると、思ってもみなかった人と目があった。
「えっ、あ……松井か、びっくりした……」
「……主?」
椅子に座って調理台に飴を広げていた主が、安堵したようにそう呟いた。
「起きてたんだね。よかった」
そしてそう微笑む。扉閉めて、と促されて僕は後ろ手で戸を閉めた。続けて「何か飲みにきたの?」と首を傾げられて、僕は小さく頷く。
「……すまなかったね」
「何が?」
「手入れ……手間をかけさせてしまって」
そのまま冷蔵庫を漁りに行く気にもなれなくて、主の正面にあった椅子に座ってそう伝える。主はただ「気にしないで」と笑った。
「……でも、突っ込んでいくとかは……やめてほしいかも」
「……」
言われてしまった。確かに手入れをするのにも資材が必要だし、手入れだってすぐにできるわけではない。……それは、わかっているのだけど。
「私じゃ役に立てないかもしれないけど、何かあったら言ってね」
主はそう言うと立ち上がって、冷蔵庫の横にある棚の一番下の段を漁り始めた。
そこから何かを取り出したあと、薬缶に湯を入れて沸かし始める。
「何をしているの」
「お茶淹れようと思って。飲むでしょ?」
「……そんな手間をかけなくても」
水でよかったのに、そう言うと主はふわりと微笑んで「口止め料」と言って人差し指を口元に当てた。
「こんな時間に起きてることは内緒ね」
「……わかったよ」
素直に頷いてお湯が沸くのを待つ。しばらくすると、沸いたお湯を主は急須に注いだ。
主が出した茶葉はごく普通の玄米茶のようだった。だけど微かにいい香りがしている。
僕は湯呑みに淹れられたお茶が少し冷めるのを待ちながら、何をすることもなく机を擦っている。
無言のままなのもなんだか気まずくて、僕は口を開いた。
「……手入れしたとき、僕の血に触ったかい」
「あそこまで怪我してると触るしかないよね」
「そう、だよね。ごめん」
「だから大丈夫だから。ね?」
「あなたには血に慣れてほしくない」
絞り出すような声が出た。僕が自分から血に触れさせる状況にしておいて何を言っているんだと、自嘲する他ない。
「……優しいのね。松井」
「そんなことない」
「優しいよ。……でも大丈夫。私は審神者だから、そんなこと気にしないで」
主はそう言うと、主がさっきから何かを飲んでいた湯呑みに茶葉の入った袋を入れてお湯を注いだ。
僕はその姿を見つめながら、控え目に口を開く。
「僕のことを部隊から外すかい」
「外してほしい? 実戦は嫌になった?」
「いや……そういうわけでは」
……言葉を濁して俯いた。
戦場に行きたくないわけではない。血を流さなければとはやる気持ちは今も胸に燻っている。……だけれど、そうすることで心配してくれる仲間がいることもわかっているのだ。
「……僕が血を流すと皆が心配する」
「それは……そうだろうね」
主は苦笑いを零して、それから口を開いた。
そしてまた優しい微笑みに戻って、僕に手を伸ばしてくる。そして僕の手にそっと触れてきた。
豊前の手のように大きいわけではない。温かいわけでもない。むしろ僕の手よりずっと小さくて、指は細くて、肌は白くて……体温はむしろ冷たいほどだった。初めて主に直接触れた気がする。
「松井が戦場に出たいのならそうしたらいいよ。どんな怪我をしても私が直してあげる。……でも、松井のことが大事だからみんな心配するんだよ。自分をもう少しだけ大事にしてもいいんじゃないかな」
「……でも僕は」
主はそう言葉をかけてくれる。僕はそんなことを思われるような大層なものではない。だって、むしろ僕は……
「松井さ、それ以外にやりたいことないの?」
「え」
ぱっと手を離されて、唐突にそう問いかけられた。僕は咄嗟に何も答えることができず、視線を彷徨わせる。
「他に気を向けられることがあればいいんじゃないかな。他に身体を得た意味を見つけてみれば、顕現された意味もちょっとはあるって思えるかも」
「そういう……ものかな……そういうわけではないと思うのだけれど……」
だってこれは僕の物語だ。僕を構成する物語によって、僕に生み出された意識だ。それを、何かで誤魔化すことなんてできない。
「……心を与えてしまってごめんね。面倒だよね。……でも、心があるから楽しめることも沢山ある。それを見つけられたらいいね」
私もお手伝いするから、と主は笑った。
……楽しく過ごす権利が僕にあるものか。そう思ってしまうが、主の優しい声を聞いていると自然と頷いてしまっている自分がいた。
「そういえば、ばたついてて松井としっかり話したことなかったね。何か興味のあることはないの?」
ないよ、と即答する。
「……僕は血を流せればいいから」
そういうと、主は困ったように笑った。
「得意なことは?」
得意なこと、そんなもの……あっただろうか。
暫く考えて、それからゆっくり僕は口を開いた。
「事務仕事」
主は黙って僕が続きを話すのを待っている。
「事務仕事なら、元の主がそういうお人だったから」
「そしたら今度近侍をやってもらおうかな」
「ああ。きっと役に立てるのではないかな」
素敵じゃない、と主は嬉しそうに口にした。
「……篭手切がレッスン頑張ってるけど、松井は参加してないの?」
「たまにしてるよ。豊前がやるって言うから」
「そう。楽しい?」
「どう、だろう……僕は篭手切のように上手くはないから」
でも、と小さく呟いた。
楽しい、そんなこと考えたことがあっただろうか。何かを思ってれっすんに参加したことは、そういえばなかったような気がする。
「篭手切が楽しそうにしているのを見るのは嬉しい」
「そういうのでいいんだよ」
主はそう言いながら自分の髪の毛をくるくるいじった。
「松井」
そして主は、僕の名を呼ぶ。
「松井たちはこれから途方もない時間その体で戦っていくことになるんだろうね。……少しずつ、松井が楽しくて嬉しいことを戦以外に見つけよう。いつか、松井が前に進めるように」
指を組んで、主はそう目を伏せた。
「……そんなにこの戦はかかるのかい」
「さあ、どうだろうね」
主はそう眉を下げて笑う。言葉にはしないけれど、きっとそうなることをこの人は理解しているのだろう。
「でもそうなるかもしれない。だから松井の幸せがこの本丸にあったら嬉しいなって思うよ。私も、お手伝いはするから」
ありったけの幸福が松井に訪れますように、そんな物吉貞宗がいいそうなことを主は指を組んで呟いた。
その瞬間、優しい霊力がこちらに流れ込んでくるのがわかる。
……そのとき、僕は唐突に理解した。
かつてこんのすけに言われた、彼女が審神者になるために生まれてきたという言葉を。
ああ。確かにこの子には才がある。戦の長には、ある意味向いているだろう。
夕方、もし神様がいるなら豊前のような形をしているのだろうと思った。今もそう思っている。
豊前はどうしようもないくらいに輝いていて、僕の太陽で、きっと他の皆にとってもそうなはずだ。
豊前がそうならば、この人は特別な意味を持って選ばれた人だ。
さんたまりあ、聖母様、切支丹の言葉にそんなものがあった気がする。よくわからないけれど。
彼らのことを理解しているわけではない。僕は彼らと同じ神を信じる物語をちっとも持ってはいないから。
でも彼らが祈っていたことは知っている。かの少年を仕えた、神の子の、その母のことを。
僕たちはこの人に仕える為に顕現されたのだ。 この途方もない戦の、首謀者の首を、この人に捧げるために。
「主」
それならば、その役目を仰せつかってみよう。
……ただでさえ、あんな地獄を見てきたのだ。
今更この人のためなら、どんなことだってできるだろう。
それが僕たちの役割だというのなら、そうしようではないか。
「僕にも近侍の仕事を回して。役に立ってみせるよ」
「心強いね。じゃあ今度お願いするよ」
そう言ってから、主は使っていた湯呑みを洗い場へ持って行き静かに水を流した。
その背中をじっと見つめて、僕もすっかりぬるくなってしまった湯呑みの中身を飲み干す。
「今話してたことは他の子には内緒だよ。おやすみ、松井」
綺麗に食器を元あった場所に戻した主は、そう僕にひらひら手を振ると厨を出て行ってしまった。
しばらくぼーっとしていたあと、僕も立ち上がる。
洗い場で水を出して洗剤をすぽんじに付けながら、主の言葉を反芻していた。
優しい人だ。僕の幸せなんて、願っても何も起きないというのに。
……ああ、僕の
僕はあなたに報いたい。
この肉体を得た意味を、あなたのために使えたらこれほど幸せなことはないだろう。
僕にはあなたのために、何ができるだろうか。
僕も主と同じように食器棚に湯呑みを入れて、先程主が歩いて行った道と同じ廊下へと戻った。