さよなら僕の聖母様

 顕現してから一ヶ月、主と話すことは一切無かった。それどころかそのうちの三週間は顔すら見ていない。主の顔を見たのは、顕現したときの一度きりだった。
 なんだかよくわからないけれど体調が悪いだとか、歌仙と喧嘩したとかで。どれが本当なのかはわからないが。もしかしたらどっちもなのかもしれないけれど。
 そして顕現してから四週間目に入ったところで、歌仙が修行に出た。
 どうやら刀剣男士は修行に出ることもあるらしい。歌仙が初めてらしいけれど、他の本丸では多くの刀がもう修行に出ているのだとこんのすけが話していた。……いつか僕もそんな日が来るのだろうか。今はまだ、考えられないけれど。

 主との二度目の会話は歌仙が修行に行っている最中だった。初めて政府の修行場ではない、本物の戦場に出た日のことだ。
 敵と交戦している最中、不覚を取って少しだけ背中を斬られた。幸いにもその刀が迫ってくる少し前に気が付き避けようとしたから少しで済んだのだが。
 軽傷ではあったし血が流れてるからこのままでいいと言ったけれど篭手切が強く手入れを、と言うものだから本丸に戻ってすぐ手入れ部屋へ向かった。というか連れて行かれた。

「お疲れ様。大変だったね。軽傷ですんでよかったよ」

 手入れ部屋で待機していた主は僕の顔を見るなりそう言った。
 僕は「こんな傷で手入れをさせてしまってすまないね」と返す。これが二回目の会話だった。

 審神者の力というものは不思議なもので、傷はほんの数分で全て塞がった。あっという間に、受けた傷も流した血も綺麗になかったことになってしまった。

「気分は悪くない? 結構血が出てたみたいだけど……」
「特に問題はないよ。ありがとう」
「そっか。ならよかった。また何かあったら言ってね」

 それだけの言葉を交わすと僕はもう手入れ部屋を出る。
 ここまで大所帯だと主と関わりが少ないのは仕方がないとは思う。それに、別に積極的に関わりに行こうとも思っていないし。だから何ら気にしてはいなかった。

「松井江様」

 その時、下からそう呼びかけられた。こんのすけとかいう管狐がそこに立っている。

「手入れの際に何か不具合はありませんでしたか」
「いや、特に」
「そうですか。それならなによりです」

 先ほど主と交わしたものと同じような会話をした。なぜ声をかけられたのかわからず、僕は何も言えず立ちすくんでいた。

「審神者様は手入れがお上手でしょう」

 こんのすけは続けてそう口にする。何を基準にして上手いとか下手とか、よくわからないから「そうだね」とテキトウに返事をした。

「審神者になるために生まれてきたような人なのですよ。あの人は」

 それだけ言ってこんのすけはいなくなってしまった。
 ……確かに主は悪い人ではないと思う。霊力も強いのではないだろうか。
 でも、どうも主を見ると、昔のことを薄っすらと思い出してしまう。……あの少年を思い出してしまうのだ。あまりいい気分にはならない。主が悪いわけではないからこそ負い目を感じてしまうのだが……こればかりはどうしようもないだろうと思うことにした。

 それから戦場に出ることが増えて、僕も実戦での立ち回り方を随分と覚えてきた。
 実戦はやはり訓練とは違う。
 敵が同じ動きをしてくるわけではない。いつも同じような敵が出てくるわけでもない。相手方もそれなりの信念で歴史を変えようとしているのだろうからありとあらゆる手を尽くしてくる。擬似的なものを切っているわけではない。きちんと血が流れる。
 僕からも、敵からも。

「……い、松井! 何してるの、帰るよ」

 上からそんな声がしてハッとして顔を上げた。随分と呆けていたみたいだ。桑名が呆れたように、僕の方を見ている。

「今行くよ。ごめん」

 もう皆は帰る準備を勧めているようだ。僕はといえばまだ本体を手に持ったままである。鋒からは赤い血が垂れていて、呆けた頭のまま左腕でそれを拭った。

「……フ」

 自然と口角が上がっていく。戦装束が赤く染まって行った。よく見れば至るところに血がついている。……ああ、これでいい。僕にはこれがお似合いだ。

「松井、行くよ」

 もう一度桑名に声をかけられて、僕は軽く頷いてから他の皆がいる方へ歩き出した。
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