二小節のペルデーンドシ
その日もいつも通り仕事を始めた。
そうしてすぐの頃、誰かにトントンと控えめに肩を叩かれて後ろを振り向く。まだ若い女性の職員が泣きそうな目でこちらを見ていた。
「松井さん……。採血、お願いしてもいいですか……」
またか。別に構わないけれど、僕にばかり任せるのはどうなのだろうか。そろそろ皆どんなに細い血管でも見つける練習をした方がいいのではないだろうか。頼ってもらえるのは、嬉しいけれど。
「わかったよ。すぐ終わらせよう」
そう頷いて立ち上がる。ありがとうございます! と嬉しそうな彼女の後を追って、僕は事務所を出た。
廊下には僕たちの靴音だけが響いている。
検査室の寝台に一人の少年が座っていた。
一人、と言っても刀剣男士か。霊力が人間のそれではない。
少年は僕たちが入ってきたことに気が付くと、顔をゆっくり上げた。そしてハッとしたような顔で僕の顔を見てくる。
「松井さん……!」
彼は小さくそう零した。
……なぜ僕の名前を。
「……どうして僕のことを?」
「え……」
僕がそう首を傾げると、彼は少し戸惑ったような表情を浮かべてこちらを見る。もしかして、刀だった頃にどこかで会ったことがあるのだろうか。もしそうだとしたら申し訳ない。僕はあまり刀であった頃の記憶が鮮明じゃないのだ。
「採血をお願いします」
考え込んでいると、女性の職員が語気を強めてそう言ってくる。僕はそちらの方を向くと、小さく息を吐きながら採血の支度を進めた。
「ごめん。すぐに終わらせると言ったばかりだったね」
寝台の側の椅子に腰をかけて、少年の腕を軽く掴んだ。
本当に彼には血が流れているのかと疑いたくなるほど、彼は真っ白な腕をしていた。どんなに血管が見えにくい人であっても絶対に認識できるような太い血管すら、薄っすらとしか見えてこない。なるほど、これは確かに苦戦するのもわけない。彼の腕にはすでに数回針を刺して抜いた跡があった。その関節部分にそっと触れながら、血管の場所を探す。いつもより苦戦して、刺せそうな血管の位置を見つけた。注射針を露出させて、そこに向けて針を刺す。
「おお……さすがです」
後ろでじっと見つめていた職員がそう声を漏らす。僕は針を固定しながら、目の前の少年に声をかけた。
「痺れや痛みは大丈夫?」
「……はい」
真っ白な顔で彼は頷く。それなら良かった、と採血管に血が流れ込んでいることを確認する。
「はい。これで大丈夫かい」
「ありがとうございます! もう戻っていただいて大丈夫です」
職員がそう頭を下げた。続きは彼女に任せることにして、僕は自分の仕事に戻ることにした。
「お大事に」
そう軽く手を振って検査室を後にする。少年は、何も言わなかった。僕は返事を待つこともせずに、そのまま事務所へ戻っていく。
なんだかあの少年は他人じゃないような気がした。やはりどこかで一緒になったことがあるのだろうか。
気になったけれど、もう彼と会うこともないのだろう。
……と、思っていたのだが。
僕はなぜかまた次の日も彼の採血に駆り出された。そしてそのまた次の日にも。そのまた次の日にも駆り出された頃には、もうあの女性の職員がついてくることすら無くなった。「じゃあお願いします」と完全に彼女は僕に採血を押し付け始めたのだ。
事務仕事ばかりしているのも疲れるでしょうと言われ、僕は不本意ながら彼の面倒を少しばかり見ることになった。ただの事務員である僕に、一体何を期待しているのだか。採血の一連の流れは学んだから知っているが、それ以外のことは何もわからない。いわば僕は彼の採血専用看護師のようなものだった。
「というわけだから、よろしく」
「は、はい……。……すみません、ご迷惑をおかけして……」
「構わないよ。気にしないで」
彼がどうしてここに入院しているのか、その理由は教えてもらえなかった。だがここに何日もいるということは、何らかの身体的な異常があるのだろう。本人が僕に話そうと思わない限り、僕がその理由を知ることはない。
それでも、この少年について知っていったことはあった。彼の名前は篭手切というらしい。名前を聞いてから考えたけれど、やはり僕の記憶の中にはそんな名前の刀はいない。何だかもどかしい気持ちになっていたが、彼は「私があなたのことを知っていたのは……、あの女性の方に松井さんを呼んでくると言われたからです」というばかりだった。気を遣わせてしまっているのかもしれないと思うと、申し訳なくも感じた。
それから、僕と篭手切はなかなかに馬が合うらしいということもわかった。最近読んだ面白かった本、最近飲んだ美味しかったお茶、そういった話をしている時間は彼は楽しそうにしていた。彼はクラシックが好きだと教えてくれた。
「前にいた仕事場でよく聞いていたんです」
そう篭手切は目を伏せると呟いた。
「もういられなくなってしまいましたけれど……」
彼はそうどこか悲しそうに笑ったが、それ以上何かを言うことはしなかった。僕もそのことを追求はしない。僕たちは、そういう関係だった。
そして彼の元に僕ひとりで通い始めて一週間ほど経ったある日のこと。
「何か欲しいものは無いかい?」
ずっとここで療養しているのは退屈だろう。本が好きなようだったし、本を渡してあげようか。もしくは、許可が下りればハーブティーとかを差し入れしてあげられないだろうか。そう思って、そう問いかけた。
彼はしばらく考えているような素振りを見せたあと、やがて控え目に口を開く。
「……れっすんがしたい」
「え?」
彼の口から出てきた言葉があまりに思いがけなくて、僕は思わず問い返してしまった。彼は特に気にした様子はなく、言葉を続ける。
「歌ったり、踊ったり、そういう……歌舞音曲の稽古と言いましょうか。とにかく、れっすんがしたいです。松井さん、あなたと一緒に」
大体のことは叶えてあげようと思っていたが、それは少し無理がある話だ。だって彼は、病人なのだから。
「……篭手切が元気になったら一緒にやってあげるよ」
そう言葉を選びながら告げると、彼は哀しそうに目を伏せた。
「そう、ですよね。……我儘を言ってしまってごめんなさい」
彼がすごく落ち込んだ様子を見せるものだから、僕は何も声をかけることができなかった。
申し訳ないことをしたかもしれない。でもそんなことをして、篭手切にもしものことがあっては大変だ。彼の体が良くなったら一緒にやってあげればいい。歌って踊ったことなどないが、少しなら付き合ってあげられるだろう。
しかし篭手切は次の日から頻繁に「れっすんがしたいです」と言ってくるようになった。歌うだけなら横になったままでもできるし、そのくらいならと妥協案を示したのだが、「私は歌って踊りたいんです」と聞き入れてもらえなかった。
一週間毎日採血をしに行くたびに頼みこまれるものだから、困り果てた僕が先に折れた。あの女性職員に、篭手切に歩行訓練をさせてもいいかと頼み込んだ。そうしたら案外簡単に「無理のない範囲なら」と許可が下りたので、僕の退勤後の夕方五分だけと制限を設けて彼の「れっすん」に付き合うことにしたのだ。
それから、初めて彼の病室に足を踏み入れた。とことん何もない部屋だったが、彼一人が体を多少動かせるくらいのスペースはありそうだ。
「五分きっかりで止めるからね」
「はい! ありがとうございます……!」
彼はキラキラした目をして、ゆっくり立ち上がった。多少ふらついてはいたが、しっかりと篭手切は自分の足で立っていた。
それから、篭手切はすぐに歌い出した。僕の知らない曲だった。あまり覚束ない足取りで、それに合わせて体を動かす。
「松井さんもやってください」
「僕も?」
「言ったでしょう。私は松井さんとれっすんがしたい」
ええ、と思わず声を漏らす。僕は歌ったことも踊ったこともないと言うのに。しかしそんなに真剣に言われて仕舞えば断ることなんてできなかった。僕も彼に負けず劣らず覚束ない足取りで、彼の踏むステップの真似をする。彼は不恰好な僕を見て嬉しそうに微笑んだ。
そうしていると、すぐに時計からアラームが鳴り響く。
「はい、五分」
アラームの音を止めながらそう口にする。彼は不服そうな表情を浮かべると、息を荒げながら床にしゃがみこんだ。
「ちょっと、大丈夫かい?」
「はあっ、はあっ……、五分なんて、あっという間ですね……。でも、とっても楽しいです……!」
どこかふわふわしている彼を支えて寝台に戻す。彼は横になると、楽しそうに語り始めた。いつか大きな舞台で歌って踊ることが彼の夢なのだと言う。
「夢が、あるのです。りいだあと、桑名さんと、五月雨さんと、村雲さん……、せんぱいたちと、大きなすていじに立つんです。それで、たくさん歓声をいただきます。私たちを見て、たくさんの人々が拍手をして、声を上げるんです」
彼が口にしたのは、彼の身内か何かだろうか。それとも、友人か。どちらにせよ、大事なひとたちなんだろう。
「松井さん、あなたも一緒に……」
僕は眉を下げて、困ったように笑った。そんな彼の特別に、僕がなれるわけがない。
「……また明日。じゃあね、ゆっくり休んで」
「……はい。また明日」
言葉を濁すと、僕は彼の丸い頭を一撫でした。それから彼に背を向けて、歩き出す。
一瞬感じた胸の痛みは、気のせいであると思うことにした。
そうしてすぐの頃、誰かにトントンと控えめに肩を叩かれて後ろを振り向く。まだ若い女性の職員が泣きそうな目でこちらを見ていた。
「松井さん……。採血、お願いしてもいいですか……」
またか。別に構わないけれど、僕にばかり任せるのはどうなのだろうか。そろそろ皆どんなに細い血管でも見つける練習をした方がいいのではないだろうか。頼ってもらえるのは、嬉しいけれど。
「わかったよ。すぐ終わらせよう」
そう頷いて立ち上がる。ありがとうございます! と嬉しそうな彼女の後を追って、僕は事務所を出た。
廊下には僕たちの靴音だけが響いている。
検査室の寝台に一人の少年が座っていた。
一人、と言っても刀剣男士か。霊力が人間のそれではない。
少年は僕たちが入ってきたことに気が付くと、顔をゆっくり上げた。そしてハッとしたような顔で僕の顔を見てくる。
「松井さん……!」
彼は小さくそう零した。
……なぜ僕の名前を。
「……どうして僕のことを?」
「え……」
僕がそう首を傾げると、彼は少し戸惑ったような表情を浮かべてこちらを見る。もしかして、刀だった頃にどこかで会ったことがあるのだろうか。もしそうだとしたら申し訳ない。僕はあまり刀であった頃の記憶が鮮明じゃないのだ。
「採血をお願いします」
考え込んでいると、女性の職員が語気を強めてそう言ってくる。僕はそちらの方を向くと、小さく息を吐きながら採血の支度を進めた。
「ごめん。すぐに終わらせると言ったばかりだったね」
寝台の側の椅子に腰をかけて、少年の腕を軽く掴んだ。
本当に彼には血が流れているのかと疑いたくなるほど、彼は真っ白な腕をしていた。どんなに血管が見えにくい人であっても絶対に認識できるような太い血管すら、薄っすらとしか見えてこない。なるほど、これは確かに苦戦するのもわけない。彼の腕にはすでに数回針を刺して抜いた跡があった。その関節部分にそっと触れながら、血管の場所を探す。いつもより苦戦して、刺せそうな血管の位置を見つけた。注射針を露出させて、そこに向けて針を刺す。
「おお……さすがです」
後ろでじっと見つめていた職員がそう声を漏らす。僕は針を固定しながら、目の前の少年に声をかけた。
「痺れや痛みは大丈夫?」
「……はい」
真っ白な顔で彼は頷く。それなら良かった、と採血管に血が流れ込んでいることを確認する。
「はい。これで大丈夫かい」
「ありがとうございます! もう戻っていただいて大丈夫です」
職員がそう頭を下げた。続きは彼女に任せることにして、僕は自分の仕事に戻ることにした。
「お大事に」
そう軽く手を振って検査室を後にする。少年は、何も言わなかった。僕は返事を待つこともせずに、そのまま事務所へ戻っていく。
なんだかあの少年は他人じゃないような気がした。やはりどこかで一緒になったことがあるのだろうか。
気になったけれど、もう彼と会うこともないのだろう。
……と、思っていたのだが。
僕はなぜかまた次の日も彼の採血に駆り出された。そしてそのまた次の日にも。そのまた次の日にも駆り出された頃には、もうあの女性の職員がついてくることすら無くなった。「じゃあお願いします」と完全に彼女は僕に採血を押し付け始めたのだ。
事務仕事ばかりしているのも疲れるでしょうと言われ、僕は不本意ながら彼の面倒を少しばかり見ることになった。ただの事務員である僕に、一体何を期待しているのだか。採血の一連の流れは学んだから知っているが、それ以外のことは何もわからない。いわば僕は彼の採血専用看護師のようなものだった。
「というわけだから、よろしく」
「は、はい……。……すみません、ご迷惑をおかけして……」
「構わないよ。気にしないで」
彼がどうしてここに入院しているのか、その理由は教えてもらえなかった。だがここに何日もいるということは、何らかの身体的な異常があるのだろう。本人が僕に話そうと思わない限り、僕がその理由を知ることはない。
それでも、この少年について知っていったことはあった。彼の名前は篭手切というらしい。名前を聞いてから考えたけれど、やはり僕の記憶の中にはそんな名前の刀はいない。何だかもどかしい気持ちになっていたが、彼は「私があなたのことを知っていたのは……、あの女性の方に松井さんを呼んでくると言われたからです」というばかりだった。気を遣わせてしまっているのかもしれないと思うと、申し訳なくも感じた。
それから、僕と篭手切はなかなかに馬が合うらしいということもわかった。最近読んだ面白かった本、最近飲んだ美味しかったお茶、そういった話をしている時間は彼は楽しそうにしていた。彼はクラシックが好きだと教えてくれた。
「前にいた仕事場でよく聞いていたんです」
そう篭手切は目を伏せると呟いた。
「もういられなくなってしまいましたけれど……」
彼はそうどこか悲しそうに笑ったが、それ以上何かを言うことはしなかった。僕もそのことを追求はしない。僕たちは、そういう関係だった。
そして彼の元に僕ひとりで通い始めて一週間ほど経ったある日のこと。
「何か欲しいものは無いかい?」
ずっとここで療養しているのは退屈だろう。本が好きなようだったし、本を渡してあげようか。もしくは、許可が下りればハーブティーとかを差し入れしてあげられないだろうか。そう思って、そう問いかけた。
彼はしばらく考えているような素振りを見せたあと、やがて控え目に口を開く。
「……れっすんがしたい」
「え?」
彼の口から出てきた言葉があまりに思いがけなくて、僕は思わず問い返してしまった。彼は特に気にした様子はなく、言葉を続ける。
「歌ったり、踊ったり、そういう……歌舞音曲の稽古と言いましょうか。とにかく、れっすんがしたいです。松井さん、あなたと一緒に」
大体のことは叶えてあげようと思っていたが、それは少し無理がある話だ。だって彼は、病人なのだから。
「……篭手切が元気になったら一緒にやってあげるよ」
そう言葉を選びながら告げると、彼は哀しそうに目を伏せた。
「そう、ですよね。……我儘を言ってしまってごめんなさい」
彼がすごく落ち込んだ様子を見せるものだから、僕は何も声をかけることができなかった。
申し訳ないことをしたかもしれない。でもそんなことをして、篭手切にもしものことがあっては大変だ。彼の体が良くなったら一緒にやってあげればいい。歌って踊ったことなどないが、少しなら付き合ってあげられるだろう。
しかし篭手切は次の日から頻繁に「れっすんがしたいです」と言ってくるようになった。歌うだけなら横になったままでもできるし、そのくらいならと妥協案を示したのだが、「私は歌って踊りたいんです」と聞き入れてもらえなかった。
一週間毎日採血をしに行くたびに頼みこまれるものだから、困り果てた僕が先に折れた。あの女性職員に、篭手切に歩行訓練をさせてもいいかと頼み込んだ。そうしたら案外簡単に「無理のない範囲なら」と許可が下りたので、僕の退勤後の夕方五分だけと制限を設けて彼の「れっすん」に付き合うことにしたのだ。
それから、初めて彼の病室に足を踏み入れた。とことん何もない部屋だったが、彼一人が体を多少動かせるくらいのスペースはありそうだ。
「五分きっかりで止めるからね」
「はい! ありがとうございます……!」
彼はキラキラした目をして、ゆっくり立ち上がった。多少ふらついてはいたが、しっかりと篭手切は自分の足で立っていた。
それから、篭手切はすぐに歌い出した。僕の知らない曲だった。あまり覚束ない足取りで、それに合わせて体を動かす。
「松井さんもやってください」
「僕も?」
「言ったでしょう。私は松井さんとれっすんがしたい」
ええ、と思わず声を漏らす。僕は歌ったことも踊ったこともないと言うのに。しかしそんなに真剣に言われて仕舞えば断ることなんてできなかった。僕も彼に負けず劣らず覚束ない足取りで、彼の踏むステップの真似をする。彼は不恰好な僕を見て嬉しそうに微笑んだ。
そうしていると、すぐに時計からアラームが鳴り響く。
「はい、五分」
アラームの音を止めながらそう口にする。彼は不服そうな表情を浮かべると、息を荒げながら床にしゃがみこんだ。
「ちょっと、大丈夫かい?」
「はあっ、はあっ……、五分なんて、あっという間ですね……。でも、とっても楽しいです……!」
どこかふわふわしている彼を支えて寝台に戻す。彼は横になると、楽しそうに語り始めた。いつか大きな舞台で歌って踊ることが彼の夢なのだと言う。
「夢が、あるのです。りいだあと、桑名さんと、五月雨さんと、村雲さん……、せんぱいたちと、大きなすていじに立つんです。それで、たくさん歓声をいただきます。私たちを見て、たくさんの人々が拍手をして、声を上げるんです」
彼が口にしたのは、彼の身内か何かだろうか。それとも、友人か。どちらにせよ、大事なひとたちなんだろう。
「松井さん、あなたも一緒に……」
僕は眉を下げて、困ったように笑った。そんな彼の特別に、僕がなれるわけがない。
「……また明日。じゃあね、ゆっくり休んで」
「……はい。また明日」
言葉を濁すと、僕は彼の丸い頭を一撫でした。それから彼に背を向けて、歩き出す。
一瞬感じた胸の痛みは、気のせいであると思うことにした。