そして紫丁香花に触れる

 優しい歌声に導かれた、ような気がした。どこからか甘い香りがする。
 包み込むような温かい光に包まれて、俺は目を開けた。

「俺こそが長義が打った本歌、山姥切。どうしたかな? そんなにまじまじと見て」

 言葉は自然に口から出てきた。体が不思議なほどに軽い。体に管が這っていないことがなんだかむず痒くて仕方がなかった。
 辺りを見渡す。外から入ってくる光が眩しい。ここが、研究所の外の世界か。

「山姥切長義、初めまして」

 そうよく聞き覚えのある声がした。白い肌に、大きな桔梗色の瞳。よく手入れされた黒髪がふわりと揺れる。頬を薄桃に染めて、彼女は口角を上げた。全く俺の知らない表情で彼女は笑う。

「来てくれて嬉しいよ。私がこの本丸の審神者です。これからよろしくね」

 彼女は本当に何も覚えていないのだ。疑っていたわけではないが、今そのことをはっきりと思い知らされる。そう感傷に浸っていると、騒がしい声が四方から聞こえてきた。

「山姥切、ようこそ! 俺、鯰尾藤四郎! 覚えてる!?」
「物吉貞宗です! 山姥切様、ようこそ!」
「俺後藤藤四郎だ! 久しぶりだな!」

 彼らは、ああ、資料で見たことがある。俺の本体が所蔵されていた場所にいた刀たちか。

「よお、久しぶりだ、にゃ」

 彼らに続いて、よく知っている声に声をかけられる。猫殺しくんだ。あの彼とは違うということは重々承知だが、それでも見知った顔を見ると安心するものだ。

「ああ。これからよろしく頼むよ」

 手を差し出すと、彼は雑に俺の手を握ってきた。しかしすぐに鯰尾藤四郎が「俺とも握手してよ!」と彼の前に出る。……騒がしいところだな。

「ようこそいらっしゃいました。山姥切」

 一瞬どこから声がしたのかと思った。ふと上を見ると、ガコンと大きな音がして上から人影が降ってくる。驚いてしまって、俺は「やあ」と適当に呟いた。

「うわっ何やってんだよ五月雨! 普通に出てこい!」

 後藤藤四郎がそう叫んだ。彼女が呆れたように腕を組んで、徐に口を開く。

「……執務室の天井に穴を開けた悪いワンちゃんは誰かな」
「頭、私は悪い犬ではありませんよ。それに、あれは穴ではありません。扉です。ワン」

 猫殺しくんが呆れたように溜め息を吐く。そのまま俺の方を見ると、「ここの奴らは癖がちょっと……? あるけど気にするな。まあそのうち慣れる、にゃ」と頷いた。

「さあ、早速本丸の案内をしてあげて。南泉、お願いね。長義、後でゆっくり話しましょう。雨くん、さっきので上から埃が落ちてきました。通路使うなら掃除して」
「にゃ……ほら、行くぞ。早くしないと日が暮れちまうからな」
「よろしく頼むよ。猫殺しくん」
「にゃー! その呼び方やめろ!」

 そう威嚇してくる彼も、なんだか少し嬉しそうで。いささか騒がしいような気もするが、その騒々しさが今は心地よかった。遠慮なく腕を引っ張ってくる鯰尾藤四郎に手を引かれて歩き出す。「またね」と彼女が微笑んだままひらひらと手を振ってきた。
 廊下を歩きながら、視線を外に向ける。目に映る全てが新しく、美しく見えた。まるで初めてこの身を得たような、そんな気持ちにもなる。
 この身には、彼女の霊力がたくさん流れている。俺が顕現を保っていられるほど、たくさんの力が。静かに胸を燻るこの力がくすぐったくも感じる。

「山姥切! 何ぼーっとしてるの! この本丸本当に広いから、ゆっくりしてると夕飯に間に合わなくなっちゃうよ!」

 もう彼女は俺だけのものではないのだろう。それで構わない。全てを忘れていても、構わないから。
 ここで紡がれる彼女の物語を、その軌跡を俺にも見せて欲しい。あそこでは知り得なかった君のことを教えて欲しい。時間は、少しかかるかもしれないけれど。

「この本丸の名前は何ていうんだ?」

 そういえばまだ聞いていなかったと思い問いかけると、猫殺しくんは寒そうに両手を擦り合わせながらこちらを見た。彼が口を開いた瞬間、横から物吉の声が飛んでくる。

「紫丁香花、紫丁香花城と言います。ボクたちの、この本丸の名前です!」

 頭の中で何度も読み返した図鑑を思い返す。

「……綺麗な、名前だね」

 そう、口角を上げる。思い出したのは、彼女に似合いの素敵な花だった。
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