管理番号参壱七番山姥切長義の追憶 弍

 彼女を連れて研究所の鉄扉を潜った。張り詰めていた空気が少し緩むような気がする。
 彼女を乗せた車椅子は、静かに音を立てながら長い廊下を進んでいた。どこかから吹いている風が気持ちいい。

「……初めてここに来た時もここを通った」

 車椅子の上の彼女はそうポツリと呟いた。
 彼女は久しぶりに分厚い丸眼鏡をかけている。つい数分前まで彼女は久しぶりにベッドの上で本を読んでいた。どうやら本を読んだり車椅子に座っていたりするほどの体力は戻ってきているらしいことに、少しだけ安堵する。

「そうか。……寒くはないか」
「うん。大丈夫」

 これが最後だとわかっているのに、何を話せばいいのかわからなかった。無言のまま廊下を進んでいく。そうしているうちに、いつの間にかここから先に進んでいくことが惜しくてたまらなくなっていた。もうすぐ彼女と過ごした日々に終止符が打たれる。いいことのはずなのに、どうしてか今はそれが惜しくてたまらない。

「……これからどこに行くの?」
「……まだ言えないんだ。すまないね」

 ようやくここにきて、俺は彼女と離れがたくなっているらしい。なんてどうしようもない感情なのだろ。しかしそれは許されない。これは、俺が決めたことなのだから。

「随分とゆっくり歩いてるんだな」

 待ち合わせ場所には山姥切国広が立っていた。てっきり迎えは猫殺しくんだと思っていたが、彼だったか。

「悪かったね。それじゃあ、よろしく」

 車椅子から手を離して、一歩後ろに下がる。彼をチラリと一瞥すると、後を引き継ぐように促した。山姥切国広がじっと俺を見つめている。

「いいのか」
「……何が」
「今生の別れだ。何か言うことはないのか」

 そんなことをしたところで無駄になるだけだろう。淡々と彼が告げてくる言葉にそう返すのを、すんでのところで飲み込む。
 この後彼女はここでの記憶を全て失った状態で審神者になる。こんなところで見た悪夢なんて、全て忘れるのだ。

「それで後悔は無いんだな」

 彼は俺の目をまっすぐに見つめてくる。綺麗な瞳だ。これが俺の写しなのかと、場違いながらにぼんやりと思った。
 後悔は、もう既にたくさんある。今からそれを重ねたところで、なんてことないだろう。そう思うが、まっすぐに見つめてくる彼の瞳から逃れることはできない。
 しばらく迷ったが、彼女の前にゆっくりと回り込む。そのまま彼女に跪くようにしゃがみ込んだ。困惑している様子の彼女の手をそっと取る。

「……こんなことを言うのは良く無いのかもしれないけれど、俺は君と出会えてよかったと思っているよ」

 彼女は何も言わずに俺の言葉を聞いていた。丸眼鏡の下に見える桔梗色の瞳が、今はやけに澄んで見えた。

「体には気をつけて。あまり無理をしないように。君は少し人に気を回しすぎるところがあるから、控えた方がいいよ」

 何を伝えても数刻後には全て忘れてしまうというのに。それでも一度口にした言葉は止まることを知らない。

「愛していたよ。……俺に、人のあたたかさを教えてくれてありがとう」

 少し持ち上げた彼女の手の甲に口づけを落とす。彼女は、ふわりと微笑んで「ありがとう」と口にした。ああほら、今もそうして。控えた方がいいと言ったばかりなのに。

「ほら、もう行きなよ」
「……ああ」

 山姥切国広が彼女の車椅子に手をかける。彼は俺に小さく会釈をすると、歩き始めた。俺が先ほど歩いていた速度よりもはるかに速い速度で進んでいく彼を見つめながら、小さく息を吐いた。その時。

「長義!」

 山姥切国広が足を止めていた。彼女がこちらを振り返って、いつもと同じような柔らかい笑みを浮かべている。

「あなたがいてくれてよかった」

 その言葉の後、一言二言、山姥切国広と彼女が言葉を交わす。それからすぐに、彼はまた歩き出す。そのまま別の部屋へと彼女は消えてしまった。
 君は最後まで、そうやって俺に言葉をかけるんだね。本当はこれから自分がどうなるのか不安で仕方がないくせに。いつも、いつも、彼女は俺に笑いかけてくれる。それは最後まで変わらなかったか。
 胸の中から何かが大切なものが抜け落ちたかのような心地がした。もう失うものなんて、俺にはないと思っていたのだけれど。
 閉まった扉をしばらく見つめてから、ゆっくりと踵を返す。
 これで全てが終わったのか。歩きながら、そのことを徐々に実感して噛み締めた。

「はは……」

 乾いた笑みを零しながら顔を覆う。頬に伝わる生温かさは、一体俺に何を伝えたいのだろうか。
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