管理番号参壱七番山姥切長義の追憶 弍

 彼女を実験室に連れ込む。彼女はもう歩けないから、俺が実験室の中まで彼女を連れていく必要があるのだ。先ほど宣言していた通り一文字則宗は硝子窓の反対側で実験室の様子をまるでサーカス見物でもしているかのような表情で見つめていた。
 見せ物じゃないんだぞという気持ちを込めて睨みつけてもみるが、笑い返されただけだった。そんなこと、今更か。
 彼女を置いて実験室を出る。胸が痛むが、仕方がない。そう思うしかなかった。
 いつも通り廊下でコツコツと靴を鳴らしながら時間が過ぎるのを待つ。日に日にこの待ち時間が長くなっているかのように感じる。気のせいなのか本当に実験時間が長くなっているのかを確かめる気にはならなかったが。

「終わりましたよ」

 しばらく待っていると、そう男の職員が扉の中を指差した。早く連れて帰れということだろう。
 彼女が自分で歩くことが難しくなってからは、送りと同じように俺が実験室まで彼女を迎えに行くようにしていた。できる限り実験室には足を踏み入れたくは無かったが、そうするほか無い。

「教えてくれてありがとう。今日も精が出たみたいだね」

 精一杯の皮肉を込めてそう告げて、つかつかと中に入る。早く彼女をここから連れ出したい。こんな空気の悪いところにいつまでも置いておくわけにもいかない。
 実験室に入ると、彼女は寝台の上で苦しそうに喘いでいた。側に近寄り、軽くその肩を揺する。

「帰るよ。動かしてもいいか」

 そう声をかけるが、返事はなかなか返ってこない。しばらく待って、持ち上げようと彼女の腕に軽く触れる。

「はっ……、ぁ……ま、まって……」

 胸を押さえて、彼女がぎゅっと体を丸める。紫色の唇が必死に酸素を求めて動いていた。背中を摩ってあげようとすると、彼女は胸を押さえていない方の手で俺を払い除ける。払い除ける、というほどの力ではない。少し触れられた程度のものだった。

「やめ……さわら、ないで……」

 そしてそう蚊の鳴くような声で彼女は口にする。

「ごめん、苦しかったかい」

 これでは抱えて部屋に戻ることも難しそうだ。ひとまずここでこのまま落ち着くまで待つのがいいだろうか。それとも無理をさせてでも今すぐにここから出ていく方がいいだろうか。どちらがいいのか必死に考えながら、しばらく彼女のことを見守る。
 徐々に彼女の呼吸は荒くなっていく。苦しそうに蠢いている体をぎゅっと丸めたその時、その背中が大きく波打った。

「おぇっ……っ、ぅ……ぐふっ」

 少量の白濁色の吐瀉物が寝台の上に溢れる。胃にほとんど何も入っていないのか、胃液以外のものは出てきそうにない。

「大丈夫か」

 そう声をかけながら、その背中に手を当てる。何も吐くものがないのだろう。彼女はただ嘔吐くだけで、苦しそうに藻搔いていた。どんどん真っ白になっていく彼女を見ていられなくて、少しその体を前屈みになるように起こした。

「少し失礼するよ」

 手袋を外して、彼女の口の中に指を突っ込んだ。噛まれないように反対の手で彼女の頭を固定する。それから軽く彼女の舌の付け根あたりを刺激した。

「我慢するな。大丈夫だから」

 彼女の喉元が上下する。本当は一口でも水でも飲ませてあげた方がいいのだろうが、今は仕方ない。ここでできることはこのくらいだろう。

「っ、んっ……! おえっ、ぐっ……ん、おえっ!」

 やはり少量であったが、再度胃液が吐き出される。しかしあまり楽にはなっていない様子だった。やはり胃に何かしらを入れなければいけないのだろうか。仕方がないからこのまま部屋に戻って、何か飲ませた後まだ苦しんでいるようならもう一度……

「もう時間切れだよ。早く回収して」

 その時、上からそんな冷淡な声が降ってきた。
 源清麿がそこに不機嫌な顔をして立っている。

「待ってくれ、もう少し落ち着いたらすぐ連れていく」
「気を遣わなくてもいいのに。多少苦しんでいたって死にやしないよ」

 冷たい声で彼はそう言ってきた。こいつはいつもいつも、どうしてそんなに冷淡でいられるんだ。頭にきて仕方がない。一言言ってやろうと口を開いたが、そのとき支えていた彼女の肩がかすかに揺れた。

「大丈夫だ、もうすぐに……」
「も……やめて……もういや……」

 力無い呟きが静寂の中に霧散した。思わず彼女の体を抱く腕に少し力が入る。

「……もう、もういいでしょ……げほっ、げほ……」

 彼女は力無く胸元をさすりながらそう零した。掠れた低い声で、彼女が譫言のように呟き続ける。

「疲れた……もういいでしょ……いいかげん、しなせて……」

 おねがい、おねがい、そう彼女は繰り返す。俺は彼女の体を抱いたまま、何もできなかった。言葉をかけることも、何か動くことも。ただ彼女の苦痛に歪む顔を見つめたまま、呆然としていた。

「……へえ」

 かつてどこかで聞いたことがあるような冷淡な声がする。源清麿が氷のように冷たい表情をして、こちらを見下していた。上から彼の手が伸びてくる。彼女を守らなければと思ったのに、俺は何もできなかった。殺気とも違う彼の視線が、鋭く突き刺さってくる。

「被検体のくせにいいご身分だね。これで死ねると思っているんだ。嫌だよ。君にはまだ有用価値がある」

 俺の腕の中にいる彼女の顎を掴むと、源清麿は彼女の顎を持ち上げた。彼女が必死に保っていた呼吸が浅くなっていく。

「タンザナイトちゃん。君は何か勘違いをしているのかな。アウイナイトくんが優しくしてくれるから自分が被検体以外の何かだと思った? 被検体C、立場を弁えろ」
「源清麿!」

 大声で名前を呼んで彼を見上げる。彼は納得行っていない様子で俺のことを見た後、パッと手を離した。解放された彼女の体がぐらりと揺れる。

「……早く回収して。掃除も後でお願いするよ」
「お前……お前は、どうしてこんなことをして平気でいられる」

 何ともない顔で去って行こうとする彼の背中にそう吐き捨てる。彼のことが少しも理解ができない。一体何を考えているんだ。どれだけこいつは、心を殺しているというんだ。

「……前の話の続きをしようか」

 彼は足を止めると、至って冷静な顔でこちらを振り見た。俺の返事を待たずに、彼は口を開く。

「タンザナイトちゃんは僕の上司が連れてきた。この子は彼の担当患者だったようだよ。現世で研究対象を探していたときに見つけたんだって言っていた。タンザナイトちゃんは虚弱体質だとか、何らかの病気だとか、色々言われていたようだけれどそんなに複雑なものじゃない。この子は幼い頃から成人した人間と同じ量の霊力を持っていた。だから肉体が耐えられなかった。強すぎる力がその器に収まっていなかったんだ。でもタンザナイトちゃんが生まれた時代に霊力なんてものはないから、原因がわからない。何年も色々病院をたらい回しにされているところを、彼が見つけたらしい。調べてみたら体の中にある霊力がすごく多いわけではないけれど、何をしたって霊力量が変わらない。増えもしないけど減りもしない。こんな人間がいるのかって、興奮していたよ。でもそんな力、現代で持っているのには相応しくない。空気が合わないっていうのかな。持つべき場所ではないところで特別な力を持っていることはいいことではない。あのまま現世で暮らしていたら、若いうちに突然死していたかもって、そう言っていたよ」

 源清麿は感情の無い表情でそう話した。腕の中の彼女がぴたりと動きを止める。

「……だからって」

 そう言葉を絞り出す。だからって、こんなことをしていい理由にはなるはずがない。

「不幸な人がこの世界にはいるんだよ。あなたもそうだろう、アウイナイトくん」

 近付いてきた彼は、コンコンと俺の胸を叩いてくる。常にしているはずのどくどくと体の中に何かが流れ込んでくる感覚が、今はやけにはっきりと感じられた。

「……お前は、どうなんだ」

 彼の暗い瞳を見上げながら、そう口を開く。

「お前だってそうだろう。こんなところでお前の大嫌いな人間の言いなりになって、感情心を失って、刀剣男士のくせに刀を持つこともできずに!」

 俺の言葉を聞いた彼が顔を歪めて拳を振り上げる。殴られる覚悟をした刹那、彼の拳が俺の頬を掠めた。

「やめておけ。こんなところで言い争ったって何にもならないだろう」

 いつの間に現れていた一文字則宗が、彼の腕を掴んでいた。呆れたような表情をして、俺たちに視線を向ける。

「山浦の小僧は何をそんなに焦っているんだ。必要以上に被検体を痛めつけるとお前さんの研究が終わる前に使い物にならなくなるぞ。それに、山姥切の坊主もいちいち言い返すな。そんなことをしている暇があったらその子を早く楽な体勢にしてやったらどうだ」

 源清麿の手を離して、ゆっくりと彼は腕を組む。それならこうなる前に止めてくれ、そう思う気持ちもあるが、彼の言ってることは最ものように思えた。

「……すみません」

 心底不服そうだったが、素直に頭を下げて足早に源清麿は去っていった。……なんだ。彼相手にはやけに素直だな。

「……ほら、早く行け」

 そう促され、ぼんやりと頷く。俺は彼女の体の下に腕を入れゆっくりと彼女のことを持ち上げた。

「辛くなったら戻していいからね。……騒がしくして申し訳ないね」

 一文字則宗は「やれやれ」とだけ呟き、実験室を出て行った。俺もその後を追うように、できるだけ早足で彼女の部屋へ向かった。
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