管理番号参壱七番山姥切長義の追憶 弍

 いざ実際に一度見たからと言って、相変わらず実験の様子を見る気にはなれなかった。俺はそこまで悪趣味ではない。
 いつも通り扉の前で実験が終わるのを待っている時間は、一時間程度という実際の時間よりも随分と長く感じられるものである。
 あの日、俺も源清麿の研究に巻き込まれた日以来、俺はこの中で何が行われているのかを知らない。きっとあの人同じようなことが行われているのだろうということはわかる。それを思うと胸が詰まるような気持ちになり、ただここで立っているだけだということに対して、自責の念に駆られる他無かった。
 何を考えていたって時間は過ぎていく。そのうちに鍵が開き、扉から彼女が実験室から出てきた。

「お疲れ様」

 いつものように声をかけると、彼女が突然こちらにぐらりと倒れ込んできた。慌ててその体を支えると、彼女の口から嫌な呼吸音が聞こえてくる。

「どうした、大丈夫かい」
「はあっ、ゲホっ……ゲホッゲホ、ごめ、なさ……」
「謝らなくていい。もう喋るな」

 足に力が入らないのか、彼女は激しい咳をしながら床に崩れ落ちた。彼女に声をかけながら少ししゃがむ。抱き止めるようにしながら、彼女からずり落ちていた眼鏡を外してやって自分のポケットに捩じ込んだ。しばらく背中を摩って、咳が少し落ち着いたのを確かめる。それから彼女の腕を俺の首に回させて、そのまま担ぎ上げるように立ち上がった。胸元の機械が邪魔で仕方がない。今日ばかりは、この邪魔な箱を恨んだ。

「動かすよ。少し我慢して」

 できるだけ彼女に負担がかからないようにゆっくり歩き出す。耳元で彼女の荒い呼吸が響いていた。早歩きで向かえばすぐに着くはずの彼女の部屋は、今はやけに遠くに感じられた。ひたすら苦しげに震えている彼女が不憫でならない。彼女は今、俺の腕の中で何を思っているのだろうか。
 部屋につくと、ベッドにゆっくり彼女のことを降ろす。彼女は布団に倒れ込むようにへたり込んだ。そのまま胸元と口を押さえたままずっと咳き込んでいる。背中を摩ってやりながらその体を支えた。これ以上こんな様子の彼女のことを見ていたくないとすら思う。しかし、いくらそんなことを考えようと彼女の側から離れることはできなかった。

「うっ……ゲホッ、ゲホッ、ゴホッ!」

 彼女の体がびくりと揺れた。より一層激しく彼女は咳き込み始める。

「ゆっくり息をするんだ。落ち着いて」

 気休めにもならないであろう言葉をかけるが、治まりそうにない。彼女の体から鈍い音が出ると共に、びちゃ、と嫌な音がした。彼女の手の平に、赤黒い血が広がる。

「深呼吸をして、落ち着くんだ、大丈夫だから」

 彼女の纏っている検査着が赤く染まっていく。ぼたぼたと口から垂れた血が、ベッドのシーツを汚していった。彼女の右手に付けられている機械が異常を示す警告音を鳴らしている。

「ごめ、離れて、わたし、大丈夫だから……! ゲホッ、長義が、汚れちゃう、から……っ、ゴホッ、ゴホッ……!」
「そんなことを気にしている場合か……!」

 彼女は涙目のまま苦しそうに胸元をさすり続ける。こんな状況で、彼女は一体何を言っているんだ。俺が汚れることなんてどうでもいいだろう。なのに、どうして。彼女は俺のことばかり気遣うんだ。こんな、君一人助けることのできない俺のことを。俺は彼女の震える肩を摩りながら、何もできずに彼女から零れ落ちる赤色を見つめていた。
 ようやく落ち着いた時には、もうすっかり俺の腕にも彼女の血がこびりついてしまっていた。彼女は肩で息をしながらそれを見て、「ごめんなさい……」と心底申し訳なさそうに俺に頭を下げる。

「謝るのはやめてくれ。苦しいのは俺じゃなくて君なんだ」
「……でも、長義も、辛そうな顔をしてるから」

 その言葉に何も返すことができないまま、俺は立ち上がり洗面所の方へ向かった。まだ使っていないタオルが何枚もあるだろう。
 俺が辛いのは君がそうやって俺に優しくするからだ。もっと自分のことばかりを考えてくれていたのなら、俺だってこんな気持ちにはなりやしない、はずだ。そんなこと、本人には到底言えないけれど。
 お湯を出してタオルを濡らす。前まで被検体に情けをかけてはいけないなんて最もなことを考えていたのに。いつから俺はこんな腑抜けになってしまったのだろう。今の俺を見たら、源清麿はなんて言うだろうか。彼は愚かだと俺を罵倒するだろうか。そんなことも、もはやわからない。
 俺はいつかの白山と同じ道を歩んでいるのではないかとも思う。きっと白山も、彼女のことを哀れに思ったのだ。治癒が彼の意思であるかどうかはわからないが、少なからずそんな気持ちがあったのだろう。……今の俺は彼よりも遥かに重い罪を与えられるであろうことをしようとしている。到底許されることのない、禁忌に手を染めようとしているのだ。
 タオルを持って彼女の元へ戻る。彼女はぼうっとしたまま虚空を見つめていた。

「ほら、これで体を拭いて。落ち着いたら着替えてくるんだ。ここは俺が掃除しておくから」
「……ありがとう」

 よろよろと彼女はベッドから降りると、タオルで口や手を拭きながら脱衣所の方へ歩いて行く。心配だが、着替えまで手伝うのは気が引ける。何かあれば、物音がするだろう。
 汚れたシーツを取り払いながら、ひとりで考える。俺は彼女を、救うことができるだろうか。
 俺に白山のような力があればよかった。俺にも特別な何かがあれば、彼女をすぐにでも助けてあげることができるのだろうか。
 シーツを交換し終えたら、何もかも無かったかのように、部屋は元に戻って行く。
 以前まではほとんど変化の無かったベッド横の機械には、明らかに異常な数値が浮かび上がっていた。

「……片付けしてくれてありがとう」

 着替えを済ませてきた彼女がよろよろとこちらに戻ってくる。彼女はおぼつかない足取りのままベッドに向かい、そのまますぐに布団に潜り込んだ。

「気分はどうかな」

 立ったままそう声をかける。彼女はぐったりとしていたが、「少し落ち着いた」とはっきりと口にした。そのことに多少安堵しながら、ポケットに捩じ込んだままにしていた彼女の眼鏡をベッドサイドに置く。

「ゆっくり休むんだよ」

 そう頭を撫でて、軽く彼女の手を握った。それ以外に何ができるわけでもないのだけれど。

「……何かして欲しいことはある?」

 彼女にそう問うてみる。何かが返ってくるとは、思っちゃいないが。しばらく沈黙が続く。何も言ってくれることはないかと思い、諦めて彼女の側を離れようとしたとき。

「……もうしばらくここにいて」

 彼女がそうか細い声でそう囁いた。一瞬その言葉がにわかには信じられず、答えることができない。しばらく彼女のことを見つめた後、ゆっくり椅子をベッドの側まで動かして、それに腰掛けた。それから彼女の手を握り直す。

「次の仕事の時間まではここにいる。大丈夫だよ」

 握った手を握り返してくれることはないが、俺は彼女の寝息が聞こえるまでそうしていた。
 彼女の荒い息遣いが絶えず聞こえてくる。一番苦しいのは彼女であるはずなのに、なぜかそれを聞いていると俺も胸が苦しくなってくる気がしてくる。こんなところは見たく無かった。ずっと、そう叶うことのない願望ばかりが頭に浮かんでくる。

「……おやすみ」

 やがて彼女が眠ったことを確認して立ち上がった。心のどこかで、ずっとここにいたいとも思う。俺が目を離した隙に彼女が死んでしまうのではないかと考えると、他の仕事にも身が入らない。どうにかなってしまいそうだった。
 それでも、いつまでもこうしているわけにはいかない。後ろめたさを感じながら部屋を出ようとした。
 しかしそれより前に、鍵の開く音と共に扉が開く。まさか誰かが来るとは思っていなかったから、驚いて身を固めた。

「アウイナイトくん? まだいたんだ。随分とタンザナイトちゃんのことが心配なんだね」

 やってきたのは源清麿だった。入ってきて早々、彼は俺のことを見るとそう笑う。

「……何をしにきた」
「タンザナイトちゃんの様子を見に来る以外に理由があると思うのかな」

 どいて、と手で指示をされ、素直に一歩下がった。彼が直接に彼女の様子を見に来ることは初めてだった。……少なくとも俺が知っている限りは。
 彼は眠っている彼女の側に立つと、しばらくじっと彼女のことを見つめていた。規則的な音を立てている機械に目を向けると、腕を組んで首を振る。

「そろそろ輸液で栄養を取らせたほうがいいね。栄養失調で死なれても困る」
「……お前」

 自分で思っていたよりもずっと低い声が出た。
 本当にどうかしている。こいつも、この場所も。

「別にやらなくてもいいんだよ。そうしたらもうすぐ死んじゃうだろうね。アウイナイトくんはそれで構わないのかな」
「……どうかしてる」

 苦し紛れに呟く。彼は俺の方を見ると、ふっと微笑んだ。

「あなたは可哀想だね。自分でも白山吉光のようにはなるまいと思っているのに、タンザナイトちゃんに絆されてしまって」

 何も返すことができなかった。絆されている、それを否定することはできない。

「アウイナイトくん、人間はすごく勝手だ。あなただって人間に好き勝手されたからこんなものが無いと顕現を保つことすらできないんじゃないか」

 こつんと胸の機械を叩かれる。俺が何か口を開く前に、彼は話を続けていく。

「そもそも歴史修正主義者なんてものが生まれたのも人間のせい。歴史を守りたいと思ったのも人間。僕はその勝手に付き合うためにこんなことをしているんだ。本来静物であるはずの僕らに不便な肉体と心を与えてまで。それを思えばこれも自業自得では無いのかな」

 源清麿が彼女の色の悪い頬を撫でる。苦しそうに彼女は呻いてから身を捩った。

「……それは彼女のした行為ではない。何も関係ない、この子は……」
「僕から見たら人間はみんな一緒だよ。我儘で、自分勝手。どうしようもない」
「お前だって人の手から生み出されたくせによく言うね」

 そう機械に手を添えながら口にする。彼のようなこと、そんなこと思いたくもない。確かにどうしようもない人間はいるのかもしれないが、彼女はそうではないだろう。そう信じたかった。信じていたかった。

「……僕は刀として生まれた。でもそれだけでよかったんだ。肉体を与えて、感情を与えて、そんな余計なことをしているのは人間の勝手じゃないか。僕にこんな研究をやらせているのも人間。タンザナイトちゃんを連れてきたのも人間。それでもまだ僕を責める?」

 そう淡々と告げられる。何も言い返せなかった。

「あなたがこれに情を寄せるのは別に構わないよ。僕の邪魔さえしなければ、何をしても構わない。でもおすすめはしないよ。僕は被検体は使い切るつもりだからね」

 彼の冷たい視線が突き刺さる。あなたには止められないよ、そう彼は続けた。

「やめろ、彼女が聞いていたらどうする」
「タンザナイトちゃんが一番わかっているよ。自分のことだからね」

 彼女に視線を向けながら彼は言った。痛いぐらいに唇を噛み締める。彼が間違っていることを言っているのか、俺にはもうわからなくなっていた。

「タンザナイトちゃんは運が悪かったんだよ」

 彼はそう吐き捨てる。運が悪かったって、それで済ませていい話なのか。彼女には彼女の未来があるんじゃないか。他の人間や俺たちに左右されるべきではない人生が、彼女にはあるのではないか。

「……はあ。あのねアウイナイトくん。タンザナイトちゃんは普通に生きていたとしてもおそらく長生きは出来ないと思うよ」
「そんなことはわからない」

 絞り出すように口にする。源清麿が哀れなものを見るような目で俺のことを見ている。

「わかるよ。あなたはタンザナイトちゃんがどうして被検体に選ばれたのか考えたことはある? 誰に連れてこられたかは?」
「ここでその話をするな」

 彼女にそんな話を聞かせたくは無かった。彼は呆れたように、再度大きな息を吐く。

「じゃあ今度ゆっくり話をしてあげるよ。とにかく、僕は忠告はした。意地悪をしているわけじゃなくて、あなたのためを思ってるんだ」
「わかった。もうわかった。だから早く出て行ってくれ」
「……わかったよ」

 彼はそのまま静かに部屋を出て行く。彼女に視線を向けると、彼女はまだ眠っているようだった。それに少し安堵しながら、俺も部屋を出る。
 もしかしたら、彼の話は正しいのかもしれない。正しいのかもしれないが、俺はこのままではいられないのだ。どうしても、ただ見ているだけなんてことができない。彼女のためならばなんでもしてやりたいと思ってしまうのだ。……心とは、なんて複雑で、面倒なものなのだろうか。
5/18ページ
スキ